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名湯有馬温泉の歴史・文化に関する興味深い話や古写真などを、有馬温泉にある明治創業の土産物店吉高屋店主が趣くままに調べて紹介します。
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森林公園と有馬温泉風景利用策

本多静六博士
本多静六博士(本多静六記念館展示写真)

 東京帝大教授で林学博士であった本多静六(1866~1952)は「日本の公園の父」と呼ばれ、日比谷公園や、神宮の森をはじめ日本の数多くの公園の設計や改良に携わりました。大学定年退官と同時に匿名で財産のほぼすべてを教育、公共の関係機関に寄付したことでも知られる偉人です。

 有馬町長有井武之介と有馬鐡道社長山脇延吉がそんな博士の指導を仰ぐべく招聘したのは、有馬鐡道開通の翌年、大正5年11月14日の事でした。今回は書き起こされた講義録を覗き、当時に思いを馳せてみたいと思います。

有馬鐡道
大正4年(1915年)4月16日開業の有馬鐡道 三田に通じる有馬の玄関口となった。/span>


 博士は、欧米の自然公園の趨勢や、良い自然公園の作り方の技術論を述べた後、あくまで今後の方針を定める参考にしてほしい事を断ったうえで、有馬温泉における具体的活性化案を語りました。

【世界の公園の趨勢】

 公園は市民に新鮮な空気を提供する場で、家における窓。都市では神経をすり減らすことが増えたので、保養や運動のために静かな自然に接する大公園が必要だが、都市は石炭の煤煙の毒素で空気が汚れているので木も枯れてしまう。そこで、道路や交通の発達もあり、都市に近い山林を公園的に利用するようになっているのが欧米文明圏の大勢である。 

(ヨーロッパの実例紹介で)
 特にドイツのバーデンバーデンは温泉地で有馬温泉に似ている。街中に公園があるのではなく公園の中に街があるといってよい。街中の芝生はきれいに刈り込まれ路の両側に色とりどりの花が植え込まれている。車道は早朝落ち葉を掃き、埃が立たないよう馬が曳く散水車が行き来している。山中にもたくさんの保養施設やりっぱなホテルがある。山林の空気にはオゾンが含まれ、伝染病の菌を殺し丈夫になれるとの医者の説が信じられており、客は温泉よりも森林浴による空気療養に来ている。
 面白いのはホテルが枯木、枯枝、落葉まで燃料にするために高く買うから、行政は町のメンテナンスにお金を掛けても赤字になっていないという。

バーデンバーデン
公園の中に街があるようなバーデンバーデンの風景

 
日本でも東京や横浜の金持ちは日曜ごとに車で箱根に遊びに行く人も多くなり、別荘地や遊園地、小動物園ができ、山上まで車で行ける。他の地方も今や自動車道が普及しつつある。有馬でも現在の鉄道だけでなく、自動車の道路が発展するよう望む。

【良い自然公園とは】

●公園内は別天地を演出する必要があるから、通路と建物以外は人為的でなく天然に生えた様に見せる必要がある。場所に応じた適切な樹や下草を不規則に植え、単調にならないように変化をつける。樹を補植することで桜の名所や紅葉の名所を演出する。基調を破るような色の木を植えて彩を出す。浅瀬の石はあたかも自然な飛石のように配する

●歩道は、勾配が多少あっても良いので、できるだけ曲がりくねっている方が、公園が広く見え、また歩く人同士も顔を刺さないし、陽光の向きに応じ色彩変化が生じ景色の単調を防ぐ効果もある。路が曲がるポイントには木を植えると良い。まっすぐの道を造らないといけない場合は単調を破るため、また先を見通せなくするために真ん中に大木を残し置き、根元に灌木を自然な様に添え置くか、大木が生えて無い場合は寄せ植えで藪を造ると良い。

 公園の歩道は大体6尺幅と定められているが、車道と違い無理に一定にするのは良くない。また土木の人は往々にして道を通すために邪魔な木を伐りたがるが立派な木は道路を曲げてでも残し保護すべきである。歩道の橋は土橋又は丸木橋手摺も風流に造るのが良い。

●公園の入り口には大きくわかりやすい経路図を掲示する。眺望の良い所、老樹、名木、奇石、等見るべきポイントには説明板を立て、(ペンキを塗ったベンチではなく)枯木の株や自然石で元から在ったかのように腰掛を作ると客の滞在時間を長くできるそういう場所をたくさん作る事で、滞在日数が増えていく事に繋がる。瀑布、清流までには行き易い道を造り、分かれ道には必ず道案内表示をする。また危険な所には必ず丈夫かつ風雅な手摺を作る必要がある。

●渓流に淵を造って魚類を繁殖させる。公園を禁猟区にしてキジ、ヤマドリ、鹿、サル、その他鳥獣を繁殖させ餌付けし人に馴れさせるのも良い。

●宿屋には公園の絵葉書や、案内人なしでも道を間違わず行けるようなパンフレットを完備しておく。それには1週間滞在しても楽しめる色んなコース案を盛りこんでおく。

●清水が飲め手足が洗える場所を設置し、衛生上の分析表や効能書きを明示しておく。また、要所に雨宿りのできる東屋を設ける。眺望の良い所には風景の邪魔にならぬようにセットバックして茶屋を設ける。



【有馬温泉活性化案】

《乗合自動車の開設》

鉄道が無い為、神戸から6里程の有馬に3時間近くも掛けて迂回しないと来られないから、神戸以西の客は城崎を利用している。有馬鐡道を神戸まで延長するか、電車新設が必要だが実現には時間がかかるので、差し当たり乗合自動車の開設が必要だ。10人~20人乗りにして屋根に荷物置き場を造り、荷物運搬を兼ねると良い。1時間で行ければ通勤客の需要もあるから採算が取れるだろう。そのためには県道の拡張が必要だ。

(因みに、有馬、三田間の乗合自動車は、先立つ明治38年に運行が開始された。有馬鐡道有馬駅からウツギ谷(いまの神戸電鉄有馬温泉駅付近)の間の県道にアスファルト舗装がされたのは大正12年3月31日。神戸有馬乗合自動車が有馬平野間に開業したのは大正14年、神有電車が開業したのは講演の7年後、昭和3年11月28日の事であった。)

昭和3年開通当時
神有電車は講演の7年後、昭和3年11月28日に開業。


《有馬を中心とした観光回遊コースの開設》(今回提案する新設備を含む)

大回遊コース(1日がかり)

●六甲山大回遊線(魚屋道→峠の茶屋→ゴルフ場→欧米人集落見物→樹齢400年の六甲大松→灰形山→落葉山→妙見山→有馬着)

●生瀬回遊線(徒歩又は人力車で十八町→船坂→座頭谷→生瀬→(汽車で)武田尾→三田(博物館、天神公園など観光)→有馬着)



中回遊コース(1日客向け)

●太鼓橋→温泉寺→鼓ケ滝→鳥地獄虫地獄→炭酸泉→瑞宝寺→丸山公園→つぶて橋(つぶては袂石の事であろう)→太鼓橋 (足強の者は徒歩、足弱の者は人力車利用*道路要改良)
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温泉寺
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鼓ケ滝
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鳥地獄
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炭酸泉源
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瑞宝寺
pi 002
円山公園の大黒池(今の古泉閣さんの敷地内)
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袂石(つぶて石)



●(学生向け)太鼓橋→天然植物園→妙見寺→展望台→鼓ケ滝→鳥地獄虫地獄→稲荷山→射場山鹿林(新設)→ラジウム泉源→瑞宝寺→丸山公園→つぶて橋→太鼓橋
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妙見寺(余田左橘右衛門の発願により明治39年に仮殿設置、大正9年に妙見堂が落成)
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稲荷神社(明治37年に寺田町杉ケ谷天皇屋敷(舒明、孝徳両帝の行宮跡という)より遷座。)
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六甲川上流のラジウム泉源
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丸山公園のラジウム泉湧出地 こんぶ滝
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町営ラジウム温泉(大正4年11月1日落成。インドサラセン近世様式混用洋館建)



中回遊コース(2・3日客向け)

●1日目:(午前)天然植物園→妙見寺→展望台→灰形山→鼓ケ滝→地獄谷→愛宕山→温泉寺→宿→(午後)市街、炭酸水見物

●2日目:(午前)稲荷山→鹿林→ラジウム泉源→瑞宝寺→丸山公園→つぶて橋→宿
     (午後)市街、駅側に新設すべき花卉園、養魚池等

●3日目:足弱の者は前期行程を3日に分ける。足強の者は弁当持参で鼓ケ滝の上流四十滝

*中回遊コースの道路は人力車が通れるように改良すべし。
  眺望の良い場所には広場を造り腰掛を置くべし。
すべての道路は排水に注意し危険個所には手すりを設けるべし。
断崖地は崖を崩さず桟道を造る方が風流である。
石垣は野種のある崩れ積みにし、当地に適当なツタ、イタビカズラ、テイカカズラ、ウルシヅタ等を纏わせて自然であるかの
ように見せる。

小回遊道路
眺望の良い山頂や奇石、怪岩等に行く為の3尺~5尺幅の小径を随所に設ける。


《新設備案》
●新道
①妙見山より鼓ケ滝に至る3尺~6尺幅の道
②鹿林からラジウム泉源を経て瑞宝寺に至る3尺~9尺幅の道
③六甲大松から落葉山に至る3尺~6尺幅の道


(六甲山や登山に詳しくない筆者は「六甲大松」という言葉は初めて聴きました。ネットで調べてみましたがヒットしたのは『昭和36年 6月15日六甲行者街道の大松(黒松)、県指定文化財に指定』というワードのみ。写真も見つからず。今もあるのかどうかも分かりません。)

●天然植物園
太鼓橋(今の太閤通りの突当り)より妙見山に上り鼓ケ滝に至る道の両側に設置する。
すでに60数種の樹木があるがさ、らに補植し樹種を記入したプレートを置く。登り道には常
緑樹、展望台より先には落葉樹を補植する。

●展望台
落葉山頂上天守跡付近に展望台をつくり、実際の方向どおりのパノラマ図や無料望遠鏡、外国人向けに記念帳を設置。パノラマ図を縮小した絵葉書も売る。

●鹿林
射場山約30町歩を7尺程の杭と上半分は有刺鉄線、下半分は金網で囲い、鹿林にする。当初は10町歩に雄鹿1頭、雌鹿2~3頭を奈良か宮島より分けてもらい、数年で10数頭になる。それ以上になると雄を捕殺し雄4~5頭に雌30頭位の割合に制限する。水は稲荷神社の用水の一部を引き、飲用、水浴用に供する。

●花卉(かき=草花)園、果樹園、外国樹種園、苗園
汽車駅前の1千坪を植木屋に貸して花卉、植木屋を営ませ、園内に四季の花を栽培せしめ鶴、猿等飼育し無料観覧させる。対岸の2千坪には柿、桃、ブドウ、ビワ、イチジクなどの果樹園を造り、一部外国樹種見本林を造る。桜、モミジなどの苗木を栽培し路傍樹用に供する。

●養魚池
花卉園の鉄道を挟んだ対面に3百坪の池を造り鯉、緋鯉、その他魚を養いボート、釣堀を営ませる。ただし鉄道の擁壁をコンクリートにする必要があり数千円掛るので、差し当たり新温泉(ラジウム温泉)の下方新道の上方の低地に養魚池と釣堀を造る。

●ラジウム水療場(外国人向け無料)
丸山公園乙倉谷現在の水浴場の建物の跡に幅7間、長さ7~8間のコンクリート製プールを造り、その下にも3~40坪のプールを設置。それぞれ水泳ができるようにする。上の池と下の池の間一面に滝を設置し、ラジウムの効果を高める。動員が軌道に乗ればさらに3段4段のプールを造る。茶屋、脱衣場を造り、水泳用さるまた、婦人浴衣のレンタルも行う。

●小学校内に図書館を設置し開放する。

●寺院に宝物を陳列するほか、歴史的な器物、動植物その他博物材料を集めて陳列し簡易博物館とする。

●愛宕山の公会堂に夏季講習会場としての設備を整えること。
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明治35年に湯泉神社の有馬神苑会が愛宕山遊園地の経営を目論み有馬保勝会と改称。(総裁九鬼隆一会長田中芳男)
建替えにより不要となった温泉浴場の建物の譲与を受け始めは図書館としたが、後に公会堂として存続。写真は大正10年。手前に豊公遺愛と伝わる名跡「亀の手洗い鉢」が見える。)


●公衆トイレは鼓ケ滝、丸山公園の他に天然植物園中、鹿林付近その他必要箇所に設置。

●くず入れは竹、又は木製の籠箱を休息場の付近に置く。

●腰掛はなるべく多数置く事。ただし成るべく切り株や石など自然のものにする。

●休息場や雨の退避所として適当な所に東屋を設置する。

●将来、愛宕山または適当な場所を選んで音楽堂を設置すること。

●将来、大運動場を設ける必要があるが位置については時間が無く調査出来ていない。

●中野村の農家に牛、馬、鶏、羊、山羊、等を飼育してもらい実用動物園とする。牛乳や卵を廉価で販売してもらう。


《地域ごとの特徴付け》

古来松千本、紅葉千本、桜千本を植えれば名所となるといわれている。
有馬には多量の松があるから名所を作るのは容易である。


●落葉山=眺望と森林植物
●鼓ケ滝付近=滝と水と桜  (補植する場合は桜7分紅葉その他3分の割合。松は保存。)
●稲荷山鹿林より瑞宝寺にかけて=紅葉  (補植する場合は紅葉7分の割合。松は保存。)
●愛宕山=こぶし類(ホオノキ、タムシバ、オガタマ、モクレン)を補植してこぶしの名所となすべし。ツバキ、サザンカ、茶の類を混ぜるべし。
●円山公園=ハギ、ヤマブキ、ボケ等を植えるべし。
●妙見山山腹=ツツジを補植すべし。
●蛇谷、生瀬道、唐櫃道その他=松茸の繁殖を計るべし。
●生瀬街道に桜を補植して桜街道とするべし。


《各所の改良》
 
●有馬駅(桃源洞)から太鼓橋(太閤通り突当り)の道路改良。なるべく幅4間(約7m)以上に拡幅して車道と歩道を並木で分ける。現在の並木である山桜は本来山地の樹なので、車道の並木としては樹勢も不良で不向きである。成長の早い吉野桜を新たに植栽するのが良い。
㍽9年
太鼓橋付近。有馬駅開業の前年、大正4年1月から道路脇の河川改修工事が始まり、大正5年2月に完工した。

●妙見山登り口が見つけにくいので鳥居を前方の見えやすい所に出すこと。
●社寺、邸宅等の人工的な石垣や川沿いの鉄の欄干にも蔦やかずら類をまとわせて隠すこと。
●滝の付近の一帯の山を特に厳重なる禁伐にして人跡不入の地となすこと
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鼓ケ滝上流には夫婦滝があり、かつては鼓ケ滝横から登れ見物できたが、現在は行く事が出来なくなっており、図らずも人跡不入の地となっている。

●市街地から見える山のポイントとなる場所に紅葉樹を補植すること。
特に灰形山、鉄砲山、射場山の高所や突端には紅葉樹や山桜類を2~3、5~6株寄せて塊状に植えること。
●由緒ある大桜の道には同種の桜の後継ぎを補植すること。
有明桜
鼓ケ滝近くの有明桜は山桜の大木で名所の一つだった。

《結論》
元来温泉は治療場だが、病院とは異なり病人らしく取り扱わないから精神的に良い。
だが湯に入って食って寝るだけではかえって健康に悪く、そんな場所は欧米にはない。
その点有馬は散歩に出ると天然の坂道も多く運動も森林浴もできるから大いに治療
の効果があがり自然と健康になれる。温泉は朝夕2度にしてあとは山巡りをして健康
を増進せしむるように呼び掛ける必要がある。今回の諸策はこの点でも有益であると信じる。


(読後感想)今に通じるアイデアもあれば、現代人から見ると、“とんでも案”に見えるアイデアも混在している様に感じました。徒歩で“六甲山大回遊線”を回るのは交通機関の発達してしまった現代の人には相当きつそうです。電車の開通のように時代の流れで実現した事もあれば、鹿林のように実現しなかった事もあります。もし色々実現していたらどんな有馬温泉になっていたのでしょう。興味は尽きません。有馬温泉では現在、今後の有馬温泉のあるべき姿をマスタープランにまとめ、いかに実行していくかをまさに議論している所ですが、健康増進の場づくりを呼び掛ける博士の熱い思いが、何らかの新たな形で結実できたら良いなと思いました。
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久しぶりの更新となりました。
今回は有馬温泉の旅館などが発行した有馬温泉の鳥瞰図や地図をいろいろ紹介します。それぞれビューポイントが違っていたりして面白いです。

まずは有馬温泉観光協会発行の現行案内地図です。

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昨今は方角や距離など正確な情報を求められる向きが多いため機能性を重視し、デフォルメの多い鳥瞰図でなく真上からの地図となっている。隅々まで入れ込まないといけないという事でニーズのある中心部が小さくなってしまう。飲食店や物産店の情報まで入れ込むのは無理が出てくるし、出店閉店に伴う情報の更新も大変。いろんなジレンマを抱えながらバランスをとって出来たのが現在のもの。

では昔のものをあれこれ紹介していきます。昔のものは基本、鳥瞰図ですのでデフォルメのオンパレード、方向なんかもグニャグニャです。でも絵としてはとっても面白いです。

●大正後期「有馬全景」

有馬全景

ポケットサイズで発行元も分からないがきれいな版だ。太閤通りも未だ暗渠になっていないし、本温泉の建物も大正15年以前の唐破風の庇の物が立派に描かれている。「神戸行き電車」の記載はあるが建物のイラストはないので未だ計画段階だった時期の印刷物だろう。手前、省線(今のJR)有馬駅舎や汽車が立派に描かれている。

この図では滝川の川筋を湾曲させ、滝川と六甲川の合流地点からラヂュム温泉、さらに省線駅までの間を思い切り省略するというデザイン上の力技で省線駅を入れ込んでいるが、同じ様な手法は以降の絵図ではお約束となっている。



●大正14年有馬町役場発行「有馬温泉名所図会」(岩村清春作)部分。

岩村

手前に鉄砲山、左手に瑞宝寺や文化村(画面から切れていますが)。右手は省線有馬駅、有馬楽園(パラダイス)。突き当たりに鼓ケ滝のレイアウト。旅館だけでなく飲食店や物産店まで名前が書き込まれているし、なんと墓地まで描き込まれている。実に念の入った絵図だ。未だ神有電車は開通しておらず計画段階だが、「神戸行き電車のりば」の丸いシールがていねいに上から張られている。印刷段階では間に合わなかったのだろう。

描かれている本温泉は明治36年~大正14年にあった唐破風の庇が特徴の建物。「本」が付くのは同じ期間に存在した高級家族風呂「高等温泉」(今の阪急バス駅)と区別するため。この図ではその「高等温泉」の上から「有宝乗合自動車のりば」とシールが貼られている。

今の「太閤橋」は平成12年以前は「太古橋」と呼ばれていたが、さらに昭和3年以前は「延年橋」と呼ばれていた。また今の「太閤通り」は以前は通称「有馬銀座」と呼ばれていたが、川を暗渠化した上に通された道路で、この時期(暗渠化された昭和3年以前)は川であり上流側の若狭屋さんの前に「太古橋」、下流側の現在観光案内所の前に「榮久橋」があった。

今の明石焼きの「有馬十八番」さんの場所に郵便局、林渓寺の向いに警察署、「有馬ロイヤルホテル」さんの場所の一部に町役場があった。

地図の右下、省線駅向い側に「金線サイダー」の工場がある。大正6年に有馬鉱泉合資会社の有馬サイダー工場が杉ヶ谷の炭酸泉源前からここに移転して来たが大正13年に金線飲料㈱に買収された。しかし金線飲料㈱は大正14年に日本麦酒鉱泉㈱に買収された。そして大正15年3月にこの工場での製造は中止となり、全従業員が川西の平野工場に移った。

この絵図では川筋を湾曲させる力技の代わりに巻物のように極端に横幅を広くすることで省線駅まで入れ込んでいる。お陰で吉高屋も割愛される事なく表示されている。因みに大正頃の吉高屋は「亀寿堂」の屋号を名乗っておりこの地図にはその名で記されている。


●昭和3年発行「神戸有馬電鉄沿線名所図」(吉田初三郎作)有馬温泉部分。

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鳥瞰図の世界では超有名な吉田初三郎先生の作。構図といい色使いといい、やはり素晴らしい。神戸有馬電鉄沿線名所図なので終点湊川、三田までの沿線が紹介されているが有馬温泉部分だけをピックアップしても構図が成立している。川のラインなど達筆な書のようだ。今回は有馬温泉部分を紹介しているが絵図全体の中にはハワイ、香港、台湾、旅順、大連、釜山、富士山、樺太、青森、天の橋立などまで入れ込んである。先生の絵のお約束である。

手前に鉄砲山、左手に瑞宝寺や文化村。右手に妙見堂や神有電車駅。突き当たりに鼓ケ滝のレイアウト。ほぼ前者を踏襲したアングル。しかも昭和3年発行なのに大正15年に廃止されたはずの高等温泉(今の阪急バス駅)が記され、昭和3年に暗渠になったはずの今の太閤通りも、この図ではまだ暗渠になっていない。その代わりというのはおかしいがこの図では本温泉が大正15年以降の新しい3階建ての物になっている。もちろん神有電車は描かれているが、立派な駅舎のビルは描かれていないから作画時点と発行日にかなりのタイムラグがあったのだろう。

この絵図では六甲川と滝川の合流地点から下流のラジウム温泉に至る間はデザイン上省略されている。また、神有電車の発行だからか省線の駅はほぼ割愛されている。小さい尖がり屋根のある建物がそう見えない事もない。

●昭和3年以降 神戸有馬電鉄発行「有馬温泉名所図会」(湖南作)

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吉田初三郎作の絵図をほぼ踏襲している。この絵図では現太閤通りも暗渠化し道路になり、神有電車の駅もビルになっているので昭和3年以降の絵図である事は間違いないのに、本温泉は逆に大正15年までの姿に戻っているのがちょっと不思議だ。さらに「高等温泉」の表記まで復活している。

この版のスポンサー「堂かや」(現上大坊さん)が地図上に目立つようにマーキングされている。そしてこの絵図では省線の駅は完全に割愛されている。

●昭和4年以降 神有電車発行「有馬名所案内」

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栞の表面にはラヂウム温泉の貸室旅館「銀水荘」休憩室「楽水亭」の案内が刷られ「神鉄直営のラヂウム温泉云々」と記されている。町立のラヂウム温泉は省線有馬駅開業に合わせて大正4年に華々しく開業したものの、昭和4年経営不振により神有電車に無償貸与され、以降神有電車の経営となった。従って裏面の絵図も昭和4年以降の様子といえる。

この図では六甲山の一軒茶屋に至る四十八滝道や魚屋道なども描き入れられている。四十八滝道が開通したのは昭和4年。又同じく昭和4年に現在地に移り変わった有馬小学校まで、観光名所でもないのに大きく描かれているところをみるとやはり昭和4年過ぎのものだろう。


●昭和6年以降 宝塚有馬自動車発行「有馬温泉案内」

宝有自動車

絵図発行元の宝塚有馬自動車株式会社は昭和2年に設立された。 (昭和14年に現在の阪急バスに吸収合併されるまで存在した。)

大正14年町役場発行の絵図に似たレイアウトだが、さすが宝塚有馬自動車の発行だけあり、宝塚の旧温泉、新温泉、有馬行き自動車のりばなどを入れ込んである。さらに六甲山ホテル(昭和4年開業)や六甲登山ロープウエイ(昭和6年阪急の系列会社「六甲登山架空索道」により営業開始、昭和19年不要不急線とされ廃止された)、裏六甲ドライブウェイ(昭和3年開通)なども描かれており、自動車の普及をはじめとした交通手段の進歩や多様化、有馬を取り巻く環境の変化を感じることができる。

●昭和12年前後 中の坊発行「有馬温泉と名勝」

中の坊発行部分

中の坊が顧客向けに発行したもので折りたたむとハガキとなる。「通信文ヲ認メタル時ハ3銭切手認メザルトキハ2銭切手」とありハガキの通信費が2銭に値上がりした昭和12年以降と考えられる。昭和13年の阪神風水害の被害で閉鎖したラヂウム温泉や流失した赤橋(高橋)も描き入れられており、昭和12年頃だろう。

吉田初三郎版に似た構図だが、こちらは省線有馬駅も入れ込んである。また山越しに神戸港も描かれていて立地が分かるようになっている。この絵図には宿泊施設の名も入っているが、記載されている中で今は無い名前も多い。」「山月」 (現観光案内所の場所) 「ほととぎす」「うろこ」 (いずれも現川重泉郷荘敷地内) 「二階坊」 (現御所坊一部) 「玉川楼」 (現池の坊駐車場一部) 「花の坊」 (現花小宿) 「温泉旅館」 (現炭酸泉源公園内) 「堂加屋」 (現上大坊)、外国人向けでは「有馬ホテル」 (現クルーズヴィラ有馬) 「杉本ホテル」 (現やまと駐車場)  「マスダホテル」 (現摂泉荘)


●昭和13年以前 池の坊発行「有馬温泉ご案内」

p 012

池の坊旅館のパンフレットなので「池ノ坊」「池ノ坊山別荘」省線駅前の「池ノ坊待合所」が大きく描かれている。きれいな色合い、桜を描き入れる事、2つの川が街を丸く取り囲む構図などにより風水的理想郷、楽園感を醸しだしている。中央の愛宕山には今は無き「大悲閣」や「公会堂」が建っている。ラヂウム温泉が建っているので阪神大水害で流失した昭和13年以前のものだろう。


●昭和25年以降  神戸市貿易観光課、有馬温泉観光協会 発行

観光協会発行1-1

発行元のひとつ有馬温泉観光協会が発足したのが昭和24年10月だからそれ以降の絵図だ。

今までの絵図とアングルが異なっているし、筆致も昔の「キンダーブック」等の児童向け雑誌の絵に似ていてほっこりする。北から南を見ている訳だが、山を背にしている事で構図が落ち着いている。過去の有馬の絵葉書でよくある聖天宮からの俯瞰に近いということもあるが、個人的には一番しっくりと入ってくる。生活者からみても来訪者から見ても恐らくそうではないだろうか。 

絵図には太古橋近くの「袂石泉源」 (昭和14年ボーリング、現古泉閣泉源) 「有明泉源」 (昭和17年ボーリング ) 「天神泉源」 (昭和23年ボーリング25年説もあり) 「御所泉源」 (昭和26年ボーリング)  などの櫓が描かれている。昭和28年に開発された極楽泉源や、昭和30年に開発された妬泉源は描かれていないので、それ以前の発行であろう。

神鉄が昭和25年に開発した鱒養魚場が描かれているのでそれ以降と分かる。杖捨橋から稲荷神社の下に抜ける外周道路はまだ出来ていないのが分かる。またこの絵図には泉郷荘、三菱寮、逓信寮、白雲荘、有馬荘、鉄道保養所など保養所も黄色で記入されていて戦後一気に保養所が増えたのであろう様子がうかがえる。



《つづく》

【明治23年まであった異人館本温泉 追記】

前回は、現存しないと思われ、エッチングの図版や挿絵で想像するほか無かった明治16年から明治23年までの“異人館”本温泉の写真(一の湯側)を手に入れる事が出来たのでご紹介した。明治16年のオープン後には早速この温泉に、井上馨、山県有朋、後藤象次郎など明治初期の有名人が入湯しに来た。前回で言及したように明治時代の文豪幸田露伴が入湯したのも明治23年なので、ぎりぎりのタイミングでこの異人館本温泉ということになる。それにしても太閤さんの時代からの文化を受け継いできた純和風イメージの有馬温泉に、突如として現れ瞬く間に跡形も無く消えていった。
まさに“オーパーツ”時代錯誤遺物だった。

明治16年からの有馬本温泉異人館本温泉(一の湯側)

ところで実は最近発見した事がある。
俯瞰写真の中にこの異人館本温泉が写り込んでいるのを発見したのだ。
下の写真は以前の有馬温泉タイム・スリップその1で一番最初に紹介した俯瞰写真で、元写真は神戸市立博物館蔵。かつて開催された特別展『有馬の名宝展』で展示、目録にも掲載され、絵はがきも販売されていた写真だ。目録には「明治中期」のキャプションが入っている。詳しく見てみると川沿いの方の御所坊旅館(今も御所坊である)手前の太古橋の手摺が鉄製でなく木製である事から、明治25年以前である事は間違いないと思われる。私製絵はがきが出回り出した明治33年以前の写真はこの写真の様な外国人観光客向けの大判のいわゆる「横浜写真」や、厚紙に薄い写真を貼り付けたもの、もっと古くからあるガラス板のものしかなく、どちらにしても珍しい。ひょっとするとこの写真の中に明治23年以前の異人館本温泉が写っているかもしれないと思い、改めてディテールを見直してみたところ発見したのだ。

明治24年以前 本温泉周辺の拡大
 『有馬の名宝-蘇生と遊興の文化』より 神戸市立博物館蔵
 
 当時、本温泉に隣接してあった尼崎坊(今の「なかさ」さん辺り)の屋根は逆台形で下に行く程すぼまった形が特徴的ですぐにわかるので、目印になる。(後ろの御所坊は今の川沿いの建物とは違う館。)本温泉辺りに目を転じてみると…、今まで見逃していたが、よくみると手前に洋館の本温泉があるではないか!屋根に塔らしき物も立っている。24年以降の宮殿造りに戻った本温泉なら平屋だし、屋根そのものが見えないはずだ。ということはこの写真は異人館本温泉が在った明治16年以降明治23年までのいずれかの時期ということだ。他の建物や構造物などの年代ごとの推移がもっと判ってくれば、今後ますます年代を特定できるかも知れない。

何と最近出版された『むかしの六甲・有馬 絵葉書で巡る天上のリゾート』(石戸信也著 神戸新聞総合出版センター2011年7月8日発行)の中で何とこの“異人館本温泉の二の湯側(現在の足湯側)の古写真が紹介されていた。(記事及び裏表紙) 他にも珍しい絵葉書や古写真が紹介されており資料的価値があるのでお勧めだ。

昔の六甲・有馬むかしの六甲・有馬
裏表紙にも二の湯側の“異人館”本温泉の写真(上左)

これらの貴重な異人館本温泉の写真は由来など説明付きで公表されない限りただの古い建物写真でしかなく歴史資料としては存在しなかったに等しい。長い間、絵しか残ってないと思われていた異人館本温泉の実物写真が、異人館本温泉の建物が闇に葬られ消え去ってから120年を経た今になって、相次いで一の湯側、二の湯側と“表に出てきた”!?事は何とも感慨深い。


【明治15年まであった宮殿造り『元湯』】

さて今回は、いよいよ異人館本温泉の前代、明治15年4月に建替え工事に入るまであった“宮殿造り”の“元湯”だ。江戸時代には“元湯”と呼ばれていたらしく、『本温泉』としたのは実は異人館になってからなのだ。私の知る限り過去に紹介された事のない写真だが、異人館本温泉写真と同時にこの“元湯”写真も入手した。お目にかける前に絵図に描かれた本温泉の姿を流れで把握できるように以下に古いものから順に、判りやすいように西暦と共に列記してみる。(絵図は部分) 尚、有馬温泉タイムスリップ4《本温泉の浴舎の移り変わり》と重なる部分もありますがご容赦ください。


《絵図に残っていない時代:室町時代~安土桃山時代》

室町時代、応安4年(1371)の『祇園執行日記』の有馬温泉に関するの記述の中で「一の湯」が登場する。また享徳元年(1452)相国寺の僧による『温泉紀行』でも「一の湯」「二の湯」の事を紹介してある。つまり、絵図に残っているのは江戸時代以降だが、歴史的にはさらに遡り、 室町時代にはすでに現在と同じ場所に「一の湯」「二の湯」が存在していたと考えられている。

その後の記録では、享禄元年(1528年)12月20日 大火あり町の大半灰燼となる。 また天正4年(1576年)2月24日、大火があり人家はほとんど焼失とある。 いずれも「湯山由緒記」 さらに慶長元年(1596年) 京畿大地震で浴舎が損壊する。

「有馬縁起」には慶長2年(1597年)から慶長3年(1598年)にかけて、豊臣秀吉が、泉源の浚泉工事と湯屋の建て直しをさせた事が記されている。『有馬温泉史』(田中芳男著明治34年刊)には「浴場は初め文禄中豊公の作らしめ給ひし時より宮殿作りの構造にして且湯槽の中間に板壁を設けて二に仕切り南を一の湯北を二の湯とし…」と記されている。中世、南北朝時代以来の、つつましやかな佇まいの元湯を、秀吉好みの豪華な宮殿造りにグレードアップしたことが想像される。明治15年まで在った浴舎までは、有馬温泉が天皇御幸の湯ということで16弁の菊の紋章で棟飾りしていたといわれている。ひょっとしたら秀吉の時代からだったのかもしれない。

《江戸時代 1600~1700年代》
迎湯有馬名所鑑 江戸時代の写本  有馬山温泉小鑑
1678年 迎湯有馬名所鑑 (神戸市立中央図書館蔵)        1685年『有馬山温泉小鑑』 (神戸市立博物館蔵)

元禄8年(1695年)6月29日大火あり市中ことごとく灰燼せり。有馬では『元禄のマルヤケ』といわれていて、貴重な文化財も一瞬で失われてしまったという。今でもこの時焼けた石垣が残っている。

有馬山絵図        増補有馬手引草 
1710年 有馬山絵図 (神戸市立中央図書館蔵)         1717年 増補有馬手引草 (神戸市立中央図書館蔵)

扇面         摂州有馬細見図独案内
「丙午」から1727年か 有馬絵図扇子              1737年 摂州有馬細見図独案内 (神戸市立博物館蔵)

1749年有馬景勝図         摂津名所図会
1749年 摂州有馬山景勝図 (神戸市立博物館蔵)         1796年版 1798年版共通 摂津名所図会

摂津名所絵図1796年        摂津名所絵図1798年 
       1796年版 摂津名所図会                          1798年版 摂津名所図会

摂津名所図会は1796年版と1798年版があり、町を俯瞰した絵図(上.)は共通だが、(ちなみに明らかに一の湯と二の湯の表記を間違っている。)本温泉の絵(下)は何故か差し替えられている。本温泉の絵の1796年版は一の湯側か二の湯側か特定できないが、1798年版は石段があるので一の湯側だろう。1798年版にみる唐破風の飾り屋根や装飾的な手摺などのディテールは前後の文脈から判断すると豪華すぎる。さすがに脚色だろうとは思うがどうだったのだろう。

ここまでの時代の屋根の形式は絵図では切妻屋根であったり、入母屋屋根であったり絵図によってコロコロと変わっている。摂津名所図会の俯瞰絵図では屋根の妻面も異なる。しかしリアルが求められない絵図の場合、簡略化や脚色は日常茶飯事なので鵜呑みにはできない。

ただ、常に温泉の蒸気に晒された木造建築の耐久性には限界もあったであろうし、大火に起因する建て替えもあったであろう。現に、本温泉の絵図が残っている江戸時代だけでも、元禄8年(1695年)、元禄16年(1703年)、宝暦3年(1753年)、明和3年(1766年)、文化6年(1809年)、安政元年(1854年)と数多く大火の記録が残っている。建替えやそれに伴うデザイン上の変更があってもおかしくはない。

一つ言えるのは一の湯二の湯側入り口それぞれに棟があり、湯船の棟が間を繋いでいる形は変わっていないという点だ。資源である温泉の湧出が限られていた為、客を効率よく回転させる必要から、同じ湯船の東西を区切り、宿によって利用できる湯槽を住み分けるという合理的なシステムが生まれた。“入り口2つ”はまさに合理性に基いた“有馬らしい形”だ。

さらに、唐突に『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、原作:アーサー・C・クラーク、1968年作品)に登場する有人木星探査船、ディスカバリー号を思い出した。何かとメタファー(隠喩)に富んだ名作なのだが、ディスカバリー号の長い尾っぽのついた形はまさに“精子”を連想させたが、…

ディスカバリー号

有馬温泉の「一の湯」「二の湯」の相似形の形を見ていてふと思いついたのは“子宮”の形だ。メタファーとしての意図で築いたものではないにしても、結果的に“子宝の湯”としての有馬温泉を象徴していると言える。

元湯      温泉論 宮口の図 
有馬温泉の象徴的存在だった「一の湯」「二の湯」           柘植龍洲「温泉論」 宮口の図



《江戸時代 1800年代》
滑稽有馬紀行         有馬温泉紀行  
 1827刊 滑稽有馬紀行 (神戸市立博物館蔵)       1850年 西沢一鳳軒 有馬温泉紀行 (西尾市岩瀬文庫蔵)

時代は下って1800年代に入る。
これらの絵図はどちらも二の湯側(今の足湯側)から見た図なのだが、残っているそれ以前の絵図よりもリアルになっていると思われる。桧肌葺千鳥破風宮作りで入り口の庇部分が出っ張っている形式や窓開口部分の格子、「合幕」と染められた暖簾など形もディテールもほぼ共通しており、簡略化や脚色のある過去の絵図に比べ、より具体的に描かれている。西沢一鳳軒 有馬温泉紀行の絵図では棟飾りに例の菊の紋章と思しきものが描きこまれている。

『滑稽有馬紀行』の図は真正面からの絵なので判らないが、『有馬温泉紀行』の図をみると向う側一の湯の棟の妻面が描かれており、本温泉の建物のセオリー通り、棟が別れている様がわかる。 『有馬温泉紀行』の図で本温泉の左側が現在の湯本坂。「川の屋」「奥の坊」は今は1階に「三ツ森和菓子工房」さんがあるビルだ。

《安政元年(1854年)の大火》

「余田磁石氏蔵文書」の記録によると安政元年(1854年)4月13日に谷の町から出火し類焼116軒の焼失があり、湯本その他町の中心部が焼失し、この火災で宿屋130軒あまりから30軒あまりに減少し、その後土地騒動などもあったという。そして安政4年当時の年寄りたちは減免の願いや入湯料の値上げを代官所に陳情したという。 また「薬師堂旧記寫」によると上之町辺りより出火、天神社、施薬院民戸三十数戸焼失とある。 

しかし私は、本温泉はこの大火による被災は免れたのではないかと思っている。その根拠は、余田慈石氏蔵文書に記載された「湯本出火有之」における「湯本」は湯本坂周辺の全体を指しているのだと思う事。もしこの大火により本当に本温泉が被災したのならば薬師堂の記録でも真っ先に語られていても良さそうだし、その後の建て替えに関する記述がされた文書がない事。標高の少し高い谷の町から出火し、北側で標高の高い天神宮や、その下の施薬院阿弥陀堂まで類焼しているというから、北向きの風だった事が推測され、標高の低い本温泉は免れる可能性もあること。そして大火の被災を免れたであろうと考える最も大きな理由は今回入手の写真の様子なのだが、これは後で紹介する。従って、明治15年(1882年)まで在った本温泉は、1827年の「滑稽有馬紀行」の挿絵、或いは1850年の西沢一鳳軒の「有馬温泉紀行」に描かれた本温泉の浴舎そのままであったと思うのだ。

ねぎや刷り物          明治15年以前の本温泉
推定1860~1870年代か 有馬禰宜亭十二景 森博氏蔵写真より*    明治15年以前の本温泉見取り図*   (*藤井清氏資料)

左の刷り物で有馬禰宜亭というのは「ねぎや」(現ねぎや陵楓閣)さんのことだ。眺めの良い望楼が特徴だったこの建物は明治時代の写真にも写っているので恐らく安政の大火以降に建てられたものと考えられ、本温泉の後ろの2つの石の階段(今も変わらず在る)の間に建っていた。禰宜亭の眼下に一の湯二の湯の屋根が見えているが、やはり2つの入り口の棟を高さの低い湯船の棟で繋いだ形式が見て取れる。


《いよいよ明治時代に突入》

さて、いままで見てきたような流れを理解した上で、今回入手の明治15年まで在った宮殿造り本温泉の写真を見てみる。これは写真で辿れる恐らく最古の姿だ。未だ他のアングルからのものは見たことが無いし、今後出てくるかどうかも判らない。厚紙に貼られたタイプの5cm×8cm程の小さいサイズの写真をコントラストなど調整して見やすくし、さらに拡大してみた。

明治初期の本温泉 滑稽有馬紀行
明治15年(1882年)まで在った元湯                           文政10年(1827年)刊 滑稽有馬紀行

手前に階段があるので一の湯側だ。向かって左の建物は御所坊。後に異人館本温泉建築の為に買収され解体された建物だ。この写真で合点がいったことがある。西沢一鳳軒の『有馬温泉紀行』で、御所坊の建物が元湯に交差するように描かれていた訳がわかった。御所坊の軒は実際に本温泉の軒の下を潜っていたのだ。御所坊の客室から人影も見える。道を挟んで向って右は奥の坊。本温泉の向う遠方に建っているのは兵衛旅館だ。

真正面からの写真だから、一の湯と二の湯の棟が湯槽の棟でつながっている事や棟飾りの16弁の菊の紋章の存在は確認できない。しかし…手前に出っ張りのある屋根の形もフォルムも…『合幕』の暖簾も…1827年刊の滑稽有馬紀行の絵(二の湯側ではあるが)と瓜二つだ。2階建て3階建ての建物の谷間にひっそりと建っていて、大きさ自体はこじんまりとした建物なのに、何か凛とした美しさを秘めているではないか。『合幕』のロゴも格調があって実にカッコイイ。

窓のデザイン
良く見ると窓枠の建具が細かい菱組みになっている。時代が変わりプライバシーを配慮した改良だったのだろうか。

隣接の御所坊との軒の重なった様子も含め、あまりに西沢一鳳軒『有馬温泉紀行』の絵図と寸分違わないから、安政の大火では被災を免れたのではないかという気がするのだ。百歩譲って仮に安政の大火後に新築されたものだとしても、同じ設計図に基いたものでろう。ここでたった一つ江戸時代の絵図と異なるのは窓の建具だ。絵図では縦の格子だが、写真のはよく見ると菱組みで、唯一ここが違う。明治時代に入り、若干のリニューアルを施したのかも知れない。

西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850年によると本温泉は南北に七間(12.72m程)、東西に三間(5.45m程)の檜肌葺きの建物で、浴槽全体は南北に二丈一尺余り(6.36m程)、東西一丈二尺五寸(3.79m)で、南北の中央に板仕切りがあり、仕切り板の南側は「一の湯」北側は「二の湯」。浴室前には約束事を書いた額が打ち付けてあり、浴室の入り口には観音開きの戸があった。(冬季のみ戸を立てた。) 軒下の灯篭は飾りで入り口の中に金灯籠があり、それには温泉寺が毎晩火を灯した。室内正面には神棚があり、湯船の隅の棚には薄暮れから灯明が焚かれた。

天保12年(1841年)医家宇津木昆台「古訓医伝 温泉弁」では湯壷の深さは、三尺八寸(115cm)とある。 また今(1841年当時)ある湯槽も豊臣秀吉が改修したまさにその当時の遺物であると紹介されている。泉源には手を付けてはならないとの秀吉の遺訓に従い、江戸時代までは、建物は建て変わっても湯槽=泉源はかたくなに受け継がれてきていたのかも知れない。(文化年間1804~1817、医学者柘植龍洲の指導により浚泉した記録があるが、泉源そのものの場所は変わりない。)板で囲まれた湯船の底には敷石が敷かれ、その間から新鮮な温泉が自噴しており、入浴客は立って入浴していた。

上の写真と同じアングルで現在の様子を撮影してみた。

現在の一の湯側

ついでに重ねてみた。
現在と過去を重ねてみた。

前にも書いたことがあるが…タイムスリップして、この浴舎で、底の敷石の間から自然湧出する金泉を味わってみたい。 

 時代は下り明治14年(1881年)、湯山町臨時町会に於いて、ついに老朽化した浴舎改築案が決議された。内務省衛生局御雇オランダ人ゲールツの計画による洋風建築に改良することになり、明治15年(1882年)着工、16年(1883年)2月に、あの“オーパーツ”異人館本温泉が竣工となる…。そしてその重厚にみえる異人館はたった8年を待たずしてこの世から消え去リ、また宮殿作りの本温泉に戻った。但し、明治24年に竣工した“新”宮殿造りは、当初異人館部分(旧御所坊の建っていた場所)を建替えた物で、後に追加工事で浴室の棟も洋風から同じ宮殿造りのテイストの宮殿造りに改築して繋げられた。いずれにしても明治15年(1882年)まで在った宮殿造りの“元湯”とはテイストこそ似ていたが大きさもデザインも異なっていた。


(参考:藤井清編「湯の花物語」、長濃丈夫編「有馬温泉史年表」)

有馬温泉の本温泉の建物の歴史を可能な範囲まで写真でたどる企画。
前回は、明治36年に換気窓付きスレート葺きでオープンした本温泉の時代までたどった。また、唐破風門の手前にある謎の黒い四角柱は前世代の本温泉時代の写真にも写っている郵便ポストであったことが、この記事へお寄せいただいた貴重なコメントで判明した。それではさらにその前世代の温泉へ遡ることにしよう。相も変わらぬマニアックな“うんちく”で恐縮ですが宜しければお付き合い下さい。

●1891年2月(明治24年)~1902年(明治35年)   約12年間

愛宕山に移設後。

これは前回取り上げた1903年(明治36年)竣工の唐破風門スレート葺き屋根本温泉の華々しいデビューの影で、先立つ明治35年6月、本温泉としてのお役目を終え愛宕山中腹に移設された後の建物写真。かつての一の湯側ではないかと思う。愛宕山遊園地経営を目的として設立された有馬保勝会の運営で、当初は記念図書館、後に公会堂として使用された。昭和18年に土井船艇兵器工業(株)に貸与、昭和20年払い下げられたが、程なく老朽化の為解体された。

では、何故明治36年の改築は実施されたのだろう。

1899年(明治32年)7月5日から約1年にも渡り有馬温泉を中心とした六甲山周辺で発生した群発地震(『六甲山鳴動』または『有馬鳴動』と言われている。)が発端だった。 その震動はまるでも巨石が天上から墜落したかの如き物凄さで、住民は一様に狼狽し不安の日々が続いた。 11月中旬には、従来40℃の湯を一日に300石(54,117ℓ)湧出していたところが、温度が50℃に上昇し湧出量も600石(108,234ℓ)に倍増したという。温泉の温度を下げ入浴に適した温度にする為、従来からの貧弱な用水施設を整備する必要に迫られ、又湧出温泉水の増加により従来の下水管で処理しきれず有馬川に流出した温泉水による下流域の農作物に対する悪影響が問題化しだし、排水管整備まで必要となった。

逆に有馬温泉としてはその増えた湧出量を利用してさらなる顧客動員を計らぬ手はない。
定かな記録には出会ってはいないが、恐らくこの湧出量倍増以降に、それを利用し、高級家族風呂の機能(従来の一等室)を本温泉とは別に独立分離させ、「高等温泉」として現在の阪急バス駅の場所に建設すると同時に、用水、排水施設の改良の必要に迫られた本温泉そのものを改築する旨が決定されたのではと思われる。明治35年3月の町会記録には改築工事監督者を県庁に依頼する旨が記されている。また同4月の町会記録によると改築後不要になる建物を記念保存し図書館等に利用したいとの有馬神苑会(5月に有馬保勝会に改称)の出願を許可する旨決議している。

かくして1年後の1903年(明治36年)4月23日、唐破風門(これも流行!)が特徴的なスレート葺き屋根の本温泉がデビューする事になった訳だ。


27.jpg    下側から見た二の湯  明治24年からの本温泉一の湯側 
左は二の湯上側から。          中央は二の湯下側から。   右は一の湯側。

これが1891年(明治24年)以降の宮殿造りの本温泉。いずれの写真も絵はがきではなく、小さいサイズの厚紙のものだ。(この当時の本温泉で絵はがきになったものは見たことが無い。日本で私製はがきが出回りだしたのが1900年(明治33年)からといわれているから1902年(明治35年)まで在った本温泉の絵はがきがカツカツ在っても良いのだが…)
写真の角の方に「有馬温泉場」と文字が入っているので、観光記念土産として販売されていたのだろう。本温泉は桧肌葺きの純和風の宮殿造り。遥か昔から建っていたかのような伝統的な美を感じさせる。床が高く玄関前が3段になっていて重厚だ。上側には洋風の鉄柵が張りめぐらされている。白い標柱に「湯山町」とあるので「有馬町」に名称変更した1896年(明治29年)7月5日以前の写真であることがわかる。中央写真の突き当たり現在の三ツ森さんの「和菓子工房」の場所には、やはり店舗があり、のれんに「浅野商店」「書籍、新聞」「○売所」等の文字が見える。本温泉入り口に立つ親子連れが何とも微笑ましい。

現在の金の湯上側より 現在の金の湯下側から 7_20100629164524.jpg
上の写真の場所の現在の様子をほぼ同じ場所からの撮影。

 明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」一部
 
上の図は明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」(銅版画)の一部。当時の本温泉の付近の様子がわかる。
手前が二の湯側でその反対側、尼崎坊に面した方が一の湯側だ。本温泉の湯本坂側には奥の坊、石段に挟まれた一段高い所に望楼の付いたねぎやがある。この階段は今でもあるから位置の目安になる。本温泉が奥の坊側に逆Tの字型に棟の張り出した変則的な建物になっているのがわかる。

明治24年からの本温泉 ギザギザ屋根
旅の家土産 有馬の巻 明治33年刊 神戸市立博物館蔵『有馬の名宝』図録より
「旅の家土産有馬の巻」は光浦利藻という人の手になる写真を主とした旅行記で明治33年に発行された事が知られている。標柱の「湯山町」の表記で明治29年7月5日以前である事はわかるが、さらに建物の形態から明治24~25年頃の写真を使用していると考えても良いと思う。

この写真も明治24年以降の本温泉の写真だが手前の部分の棟が上の写真とは異なり、軒がギザギザの意匠になったトタン葺きと思しき明らかに洋風建築だ。全体のイメージも先のものと全く異なってくるし、屋根の様式が実にチグハグで変だ。白い標柱には先の写真同様「湯山町」と書かれているから、同じく明治29年7月5日以前なのだがどちらが古いのだろう。いったい何故?

実は、明治24年からの純和風本温泉は、欠陥で傷みが早かった前世代の異人館本温泉のメンテナンスをついに諦めて取り壊し、宮殿造り平屋建ての日本建築に立て直したものといわれている。待てよ!そういえばこの写真の屋根の軒のギザギザは有馬温泉の歴史資料のどこかで見たことが…そうだ、明治15年からあった先代の異人館本温泉の絵図で見た建物だ!

ギザギザ屋根 28.明34年田中芳男「有馬温泉誌」 有馬温泉誌 田中芳男 
(左)兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁の図の一部 明治17年(1884)    手前の棟の屋根がギザギザだ!
(中央)有馬温泉誌 田中芳男著 明治34年7月刊 より ギザギザ屋根の部分は明治15年からの異人館本温泉の浴室だ。この図で現今浴場乃図とあるのは明治24年からの宮殿造り平屋の本温泉だ。
(右)有馬温泉誌 田中芳男 「温泉場」挿絵。屋根の形状からみると左側浴舎は初期の洋式のはずだが、この挿絵では意図的に目立たなくしてある感じだ。

…ということはどうやら、ギザギザ屋根の部分は先代の異人館本温泉の浴室部分の建物をそのまま残した暫定的な姿のようだ。そして明治24年以降明治29年以前の割と早い段階で半分洋風の暫定状態から完成形の純和風に改められたことが推測される。

明治25年11月に温泉浴場の混浴を改め男女区分入浴が実施された。男女混浴禁止令が出たのは明治元年(1868年)だが、有馬温泉では湯治者の介抱人の入浴も考慮し特別許可で混浴が許されていたのだが、許可期間が満期となったものだ。
『有馬温泉誌』 田中芳男著(明治34年7月刊)の挿絵の浴場図(上)には明治15年以前(宮殿造り)、明治16年改築以降(異人館)、現今(明治34年現在の宮殿造り)の3期の本温泉のレイアウトが図示されているが、浴室レイアウトが先代の明治16年改築以降(異人館)とは明らかに異なるところを見ると、確かな事はいえないが、この男女区分入浴実施のタイミングで浴室改造と暫定的な和洋折衷から本格的宮造りへのリニューアルを完成させたのかもしれない。


さて、いよいよその前の世代の本温泉に遡ろう。

●1883年2月(明治16年)~1890年(明治23年)   約8年間

先の『兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁の図』の銅版画挿絵で紹介したとおり、この時期の本温泉は何と2階建ての異人館だった!しかも何故かたったの8年間しか存在しなかった…幻の本温泉なのだ。そして時代が時代だった為、写真撮影は技術的に難しかったとみえ、現在では下に紹介している数点の銅版画等で当時を偲ぶしか無かった…

兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁 明治17年(1884)   29-3
(左)兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁 明治17年(1884)
(右)有馬温泉誌挿絵

 有馬温泉炭酸水改良建築並市街写真絵図   29-5
(左)温冷両温泉改良建築之図 大阪響泉堂 銅版画 明治16年 
(右)藤井清氏資料 長方形の枠に文字が入っておらず下絵なのか未完成なのか不明の絵だが、真ん中左寄りに異人館本温泉が描かれている。和風のタッチにまるでお寺の棟の様にも見えるが窓の表現でそれとわかる。


明治14年、浴舎改築の議論がおこり異人館(洋風)建築への改良の議決を得て、官庁の保護を受け内務省衛星局のお雇いオランダ人技師ゲーレツの設計により兵庫県土木衛生両課の監督のもと15年4月に着工、16年2月に完工した。総工費15,000円。従来からの敷地21坪に加え、北側に隣接していた御所坊の地所56坪を3,500円にて買い上げ、従来の3倍の面積となった。2階が浴客の休憩所であった。
屋根飾りには菊花の半円の文様が使用されている。明治15年以前の宮造りの旧浴舎にも菊の紋章が使われており、その意匠を引き継いだものと考えられる。浴室部分は従来の宮殿造りの本温泉のあった場所で、トタンのギザギザ装飾付き屋根の平屋だ。休憩所のある2階建ての洋館は旧御所坊の敷地部分だ。

この異人館浴舎への建て替えに伴い歴史ある『湯女』は廃止された。田中芳男『有馬温泉略記』明治17年(1884)によると1等2室浴料拾銭(1人1室)、2等2室浴料弐銭(混浴、但し外国人の場合は1人1室)、3等1室浴料壱銭(混浴)、4等1室無料。また、この温泉の管理営業者は毎年入札にて決定された。
異人館本温泉レイアウト
有馬温泉誌 田中芳男著 明治34年7月刊 挿絵の明治16年以降の異人館本温泉のレイアウト

ちなみに小説家幸田露伴の22歳の時の著作『まき筆日記』は有馬温泉を題材とした紀行文だが、明治23年に発表されているので、彼が入湯したのはこの異人館時代の本温泉だろう。

伝わっているところによると、この異人館本温泉は様式的な点でも当初から賛否があったらしいが、明治24年(1891年、日付不明)ついに湯山町は臨時町会で浴場改築を決議したという。換気装置が不十分で建物の腐食が早く使用に耐えられなくなった等の不具合によるという。その理由の根拠のひとつである明治24年付の「有馬温泉改良委員設立趣旨」という書面(日付不明)を要約すると、巨費を投じた西洋風2階建て休憩所は大半が腐朽し倒壊の危険性さえ出て来た。ここ暫くは応急の改修をしてきたが、酸化鉄により益々腐食し、いまだこれを阻止する適切な染料や工法が見つからないため、対策の為の改良委員(会)を設け学識経験者のご教示を請うという趣旨の文面である。

しかし明治24年2月には宮殿造りの本温泉が竣工している。どれ程の建築期間だったのかは判らないが、たった2ヶ月で出来るわけはないと思うので、いずれも日付の不明な「有馬温泉改良委員設立趣旨」発行及び臨時町会での浴場改築決議が明治24年というのは不自然で、もっと早い段階でなければおかしい。私自身が直接元資料に当ったわけではないが、有馬の歴史に詳しい藤井清氏によるといずれも当時の町役場の記録に基づくと思われるとの事。どうでも良いことの様だが、タイミングがやや不可解だ。


【新資料発見!!】
実は極最近、明治16年2月から明治23年までたった8年だけ存在したその幻の異人館本温泉の貴重な新資料(私的には神資料!)を、偶然にも前後して2つ入手したので紹介する。
幻燈絵 
まずはこれ、幻燈用のガラス絵だ。赤い彩色が、錦絵(多色摺の浮世絵版画)の趣きを感じさせる。浴舎との位置関係から二の湯側である事がわかる。銅版画では絵ごとに異なっている為確証は得られなかったが、このガラス絵によって、異人館時代の建物の基礎部分と手前二の湯側の幅広階段(石段?)は、次世代の宮殿造り本温泉でもそのまま使用されている事が分った。後の宮殿造り浴舎の愛宕山への移築といい、もちろん財政的な要素もあるが、昔の人の利用できるものは残して利用する合理性は見習うべきだろう。

そしてもうひとつが下の、本邦初公開の異人館本温泉の生写真だ!この写真の何が珍しいかと言えば、
日本で私製絵はがきが発売されるようになる1900年(明治33年)よりもはるかに昔ということもあり、今日に至るまで資料として出てこなかったことを考えると、この時期の異人館本温泉の写真はもう出てこないだろう、技術的な面でも難しかったのであろう…、と諦められていたからだ。が、後述するように有馬温泉の歴史上、少なくとも明治時代後半においては、古式ゆかしい有馬温泉に似つかわしくない、恥ずかしい失敗作と言うことで作為的に“闇に葬られてきた”可能性もあるからだ。

明治16年からの異人館本温泉

やはり上の明治24年からの本温泉のものと同じく厚紙に貼り付けてある小型サイズの写真だ。浴舎の棟の位置関係から、こちらは従来の一の湯側。絵で見る限りでは洋風とはいえもっと木造チックなものをイメージしていたのだが…あの古典的な宮殿造り平屋浴舎の一世代前がこんなにも重厚な洋風だったとは…

菊水紋の屋根飾り 石作りの四隅 1f.jpg
実は菊水紋だった              石造り                立体的な屋根飾り

屋根飾りの「菊の紋」が実は「菊水」のデザインになっている事やその周りの枠の数の多さ重厚さ。四隅が重厚な石造りである事。屋根の支柱が思いのほか大きく装飾的な事。等々は今回入手した写真で初めて解った事だ。
    
この生写真を見れば見る程、オランダ人技師ゲーレツの設計によるこの重厚な建物が8年を経ずして腐食によって傾いたとは信じられない。四隅は写真を見る限り石造りなのだし、湿気がこもってしかるべき浴舎は手前のギザギザトタン屋根の棟なのだ。しかもその浴舎の棟は明治24年の次世代の宮殿造り平屋への建て替えの際も暫定的ながら残されているのだ!どう考えても不可解だ。
そう考えると、先の明治24年の「有馬温泉改良委員設立趣旨」発行及び臨時町会での浴場改築決議記録というのは取って付けたようで怪しくなる。ひょっとすると建て替えた理由は、従前伝わっているような腐食によるものなどではないような気がしてきた。

確かに『有馬温泉誌』(田中芳男著 明治34年7月刊)によると「然るに構造宜しきを得ざる所ありけん朽き傾ける処の出来りしより再び改築し二十四年二月に至り落成しもとの宮殿作りに復せり即ち今の浴場是なり」と、説明している。また『摂北温泉史』(辻本清蔵著 大正4年発行)でもやはりほぼ同じ説明を引用している。

ところが、『子宝の湯』有馬温泉の記事でも取り上げた『有馬温泉史話』(小澤清躬著昭和13年10月16日発行)の中に次の一文を見つけた。曰く「しかし洋館は一般の好みに適せぬことが判ったので、明治二十四年二月また昔の宮殿式平屋建に復帰した、次で明治三十六年改築、…」
ここでは、腐食による建物の不具合は全く語られておらず、あっさりと事も無げに別の理由が書いてあるではないか!小澤先生は何を根拠にされたのだろう…。

どちらもたった1行で記載され理由が詳しく書かれていないところが、よけいに何かあるのではないかと勘ぐりたくもなるというものだ。もしも建て替えの理由が腐食を原因とする建物の不具合ではなかったとすると…一体何が理由だったのだろう。次の様に推測をしてみた。
                   
【私の推測】

開港された神戸港にも近い為、今後の西洋人観光客のニーズも意識し、またいち早く流行を取り入れ異人館(洋館)にリニューアルすることで国内に対しても一流温泉地としての威信を示そうとしたが、当初から様式的な点で格式ある温泉の建物としてふさわしくないとの反対意見も町内には多かった。しかし官庁の保護のもと、県の監督を得ての建て替えであり設計が内務省衛星局のお雇いオランダ人技師ゲーレツである事から見ても内務省や兵庫県の補助金と異人館デザインは事実上バーターだったと思われ、財政難の湯山町としては町内の意見の一致は見なかったが最終的に不本意ながら異人館案を採用せざるを得なかったのではないだろうか。(明治24年の新浴舎建設に内務省補助金が出ている事実から、この時ももちろん補助金は出ていたのではと推測。)

ただ、町内中枢では、もし不評であった場合、行政や町内に対する建前として腐食による建物の不具合を理由にして切りの良い8ヵ年で、由緒ある宮殿造りに戻すことが実は暗黙の了解であった…という推理はどうだろう。

案の定、異人館は文明開化期のひとつの流行だった。その後、日本が富国強兵をスローガンに欧米に倣い帝国主義を推し進めるにつけ、日本中に一時期の洋風化に対しアンチ洋風化、復古の機運が盛り上がりはじめた。また、やはり異人館は初めこそ物珍しがられたものの、使い勝手等の問題もあり前の方が良かったというユーザーの声も実際に増えてきた。そしてついに異人館本温泉を取り壊し宮殿造りを復古させる派の案が大勢を占るようになり、町議会で建て替えが決議された。内務省や兵庫県の補助を得、また建築費に大枚を叩いた建物を8年をも経ずして取り壊す事の了承を内外に得やすくする為、腐食云々を理由にした。日の浅い明治34年刊の『有馬温泉誌』ではまだ腐食云々を理由にせざるを得なかった。しかし40年近く経過した昭和13年刊の『有馬温泉史話』では実際のところがサラッと述べられている。ということではないだろうか。


実は、もうひとパターン考えてはみた。菊の紋章がことさら大きくデザイン化された建物の意匠が不敬に値する旨の指摘がお上からあり、その様な不名誉な理由で建て替えざるを得なくなった事実を葬るため、腐食云々を理由にしたのでは?と言う推理だ。面白いが、しかし、この建物の意匠は半円の「菊水紋」だ。「菊水紋」には楠木正成が菊紋を下賜された際、畏れ多いとして下半分を水に流した「菊水紋」にしたという言い伝えがある位だから不敬には当らないだろうし、もし仮に意匠が理由だったとしても建て替えまでせずとも、菊の部分の意匠変更工事で済んだであろう。また官庁の保護のもと、県の監督を得ての建て替えということもあるから、面白い推理ではあるがそれは無いだろうと考え、これは没案とした。

いずれにしても1世紀以上時代を経た現在から見ると、もし仮に私が勝手に推測したような建て替え理由であったとしても別段、葬らなければならないような事、恥ずかしい試行錯誤でもなんでもない。先人が有馬温泉を、一つしかなかった外湯である本温泉を守り育てていく為に一丸となって一生懸命に取組んだ、とても勇気のあるトライアルであり、誇るべき歴史の1ページなのだ。お陰で、古風な和風の浴舎の一世代前が実は超モダンな洋風建築だったという意外性のある面白い歴史を語る事もできる。また反面、人間というのは時代時代の要請で仕方なく、同じような事を繰り返しているのだなあ…という事を感じてしまうのも事実だ。歴史から学びその教訓を今後に生かして行きたいものだ。

そして、今後さらにもっと別のアングルからの異人館本温泉写真がどこからか出てくる事を密かに期待しておこう。さて今回はこの辺で。次回もしつこく本温泉の続きだ!


《尚今回も、私の推論部分や所持写真及び所持書籍以外の歴史的事実に関する事は、郷土史に詳しい藤井清氏にご提供頂いた資料を参考にさせて頂いた。素人の勝手な研究なので、もし明らかな間違い等にお気づきの節には何卒ご指摘願いたく存じます。》

【H23年3月追記】

その後このサイトをご覧になって、以前にも宮殿造り本温泉前の黒い四角柱の物体を郵便ポストである事をお教え下さったkobemtshさんが直々に面白い情報を下さった。1882年(明治15年)4月に竣工した兵庫県の県会議事堂通称『八角堂』が、異人館本温泉に酷似しているということだ。ネットで調べてみたところ、やはり意匠が似ている!西洋建築には詳しくないので確証は無いのだが、なるほど菊の紋の入り方(但し県議会議事堂の方は菊水紋ではなく菊紋だが。)や丸屋根の形状、屋根の軒の重層的な装飾や2階のが回廊になっているテラスや屋根のてっぺんが似たようなタワーになっている点などデザイン的な点でも酷似している。流行のデザインというのはあったであろうがたった1年違いの竣工のタイミングといい、やはり異人館本温泉と同じ設計者のデザインではないだろうか。

兵庫県議会議事堂 兵庫県会議事堂     明治16年からの有馬本温泉
(1882年~兵庫県会議事堂 神戸建築データバンクより)                   (1883年~有馬 異人館本温泉)

そこで兵庫県企画県民部管理局文書課にお尋ねしたところ、この『八角堂』は1902年(明治35年)の新県庁落成までの間使用されたとの事、設計者は不明であるとの事、県会で八角堂の保存が議決されたが、腐朽甚だしく、やむなく売却取り壊しの決定が明治36年になされた事などをお教えいただけた。つまり20年間活躍した事になるが、明治の建築といえども今に残るものがある中、やや耐久性に欠けたものであった事は間違いない。もし同じ設計者の建物ならば、やはり有馬の異人館本温泉の建築も耐久性に欠けるものであったであろう事は推測される。

さらに、私の重要な勘違いがあった。私が異人館本温泉の設計者と思っていた内務省衛生局お雇いのゲーレツなるオランダ人技師とは、神戸市立博物館編纂の『有馬の名宝』によると実はアントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ(Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年3月20日-1883年8月15日)の事で、日本薬局方の草案を起草するなど近代日本の薬事行政、保健衛生の発展に貢献した著名なオランダ人薬学者だったのだ。従って設計をした建築技師ではなく、あくまで計画者或いは監修者であった事だ。

異人館本温泉が8年で取り壊された理由を、建物自身の欠陥なのか或いは大衆のニーズに合わなかったからなのか、どちらか一方だけに求める事に意味は無く、間違いなくその両方ともが事実であったに違いない。ともかく、消え去る運命にあったのだろう。積もり積もった歴史の見えざる力が、異人館の存在を無かった事にして振り出しに戻したのかも知れない。
大きな事実誤認をしていた事がわかった!

2006年6月の『有馬温泉タイム・スリップ 本温泉の浴舎の移り変わり』で本温泉の浴舎の移り変わりを上古から現在まで大まかに紹介させて頂いたが、データの絵はがきが増えたので比較検討しやすくなり、つい最近になって近代の浴舎の推移について大きな事実誤認をしていた事がわかった。

今回はその訂正も含め、改めて近代以降の本温泉の変貌をより詳しく改めて写真で紹介したい。大多数の人が「そんな事どっちゃでもええわ」と思うかもしれないが、間違ってお伝えしていた事がわかった以上、訂正してお伝えしないわけにはいかない。尚、今回は皮を剥いでいくように現在の様子から順に遡って紹介することにする。(従って左から右へ、上から下に行く程、時代を遡って古くなる。)


2002年(平成14年)~現在 約9年目
「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」地上2階建。1階は休憩ロビー、フロント、市民トイレ。2階に浴場。屋外に無料足湯。今年9年目を迎えた。昔の「二の湯」入り口側にある無料足湯も好評。
神戸市立有馬温泉の館金の湯      無料の足湯は昔の二の湯側になる
現在の「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」飲泉場は看板下の角。  大人気の無料の足湯は昔の二の湯側になる 

ちなみに絵はがきのアングルは昔からほとんど決まっている。有馬温泉の本温泉は伝統的に一の湯、二の湯と二つの入り口があったがその内、二の湯を湯本坂の上側から見たところだ。そのアングルの現在の様子を紹介することにしよう。
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こんな感じだ。今は入り口の方向が全く変わっており、昔は現在の足湯の場所が二の湯の入り口側だった。後で昔の絵はがきを紹介するが、そのあたりが解っているとよりイメージしやすいと思う。


1961年3月(昭和36年)~2001年(平成13年) 約40年間
神戸市立有馬温泉会館として竣工。鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。地下は家族風呂。1階は一般浴場、2階は無料休憩室。3,4階は宿泊施設。入り口右側に銀泉の飲泉場があった。
私の記憶にある本温泉はこの建物。備え付けのチープな器で飲んだ銀泉の気持ち悪い味!?を懐かしく覚えている。さすがに平和な時代、しかも鉄筋!建物の味としてはイマイチだったかもしれないが、それも時代を反映している。“アップ・トウ・デイト”の功罪を改めて考えさせられる建物。しかし知る限り一番寿命は永かったわけだ。
温泉会館 入り口右側にあった飲泉場 温泉会館
私が懐かしく感じる温泉会館 入り口右脇にあった飲泉場 (いずれも藤井清さんの撮影)  オープン当初の温泉会館   



1926年8月(大正15年)~1960年(昭和35年) 約35年間
平屋の浴舎を廃止し、三階建ての豪壮な建物に大改築したもの。工費は6万円。西隣の二階坊の土地を買収し敷地面積も倍増。経費節減の為「高等温泉」を廃止し、家族風呂も併設。2階には診療所、理髪店、休憩室があった。当初は唐破風(Rライン)の屋根の大きな門が一般用入り口で、千鳥破風(三角屋根)屋根の方が家族風呂入り口だった。昭和初期に表の庇屋根のエリアが少し広がったりといった外観上の小変化はあるものの、大きな変化も無く、あの戦争を跨いだ。1階には昭和24年に発足した有馬温泉観光協会事務所もあった。しかし、これが私が赤ん坊の時まで在ったとは…。
取り壊される寸前頃。 昭和30年代 昭和30年代
最終期の写真(藤井清さん撮影)      子供の格好がいかにも昭和30年代     看板に無料休憩室、理髪室、診療室

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 左2枚は「一文字旅館」の看板から昭和7,8年以降        昭和3年以降          昭和3年以前

右に行く程時代が遡る。従って一番新しい左の写真の標柱が最も汚れている訳だ。
本温泉向かいの「池の坊旅館」が「一文字旅館」の看板に変わっている。中央の2枚は、所有している組みの写真に神鉄の駅や暗渠化された太閤通りが写っているので、昭和3年以降である事がわかる。右は組みの写真に昭和3年以前の杖捨橋が写っておりそれ以前とわかる。

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左側2枚は昭和初期            右は大正15年のリニューアル時のもの      
 13.大正15年改築本温泉俯瞰図
完成予想図         

時代が少し遡って、唐破風門両側の庇が異なる。ここで写真に写りこんでいる本温泉向かいの兵衛旅館の看板及び照明具は、ひとつ古い本温泉の後期の写真にも写りこんでおり、移り変わりの順を考証する際のポイントになってくるので注目しておいて欲しい。国旗と提灯が飾られているのが、大正15年のこの建物のオープン当初だ。歩いている女性のモガ(モダン・ガール)ファッションが時代を反映している。絵図ハガキは、完成予想図といえるもので、現実の仕上がりとは少し異なっている。 


1903年4月(明治36年)~1925年(大正14年) 約23年間
この期間の移り変わりを勘違いしていた。この建物が明治45年に改修された事は記録に残っているのだが、今までは深い事を考えず、明治36年に檜葺きで出来た平屋建てを、換気窓付きスレート葺き(ウロコ形状)に改修したものと考えていたのだ。当然換気窓付きの方が換気に優れるだろうし、スレート葺きの方が耐久性もありそうだからだ。ところがデータの絵はがきを比較しながら冷静に調べていく内に、最近になって、実際はその逆で明治36年に換気窓付きスレート葺きでオープンし大正3年(当初明治45年としていたがその後の調べで訂正しました。)に檜葺きに改修したものであるということがわかったのだ。

    6cp.jpg      2cpjpg.jpg
         檜肌葺き屋根                  換気窓付きウロコ状スレート屋根

そう考える理由は、データとなる絵はがきが増えてきたので、同じ要素や異なる要素を整理し、前後関係のつじつまが合うように順に並べてみたところ、以下の要素のすべてに整合性がとれる事を確認したからだ。

同メーカー同仕様の絵はがきに写っている他の名所の様子及び絵はがき表の形式による年代推定…明治40年から大正6年の間は表面下部の3分の1に通信文記載欄がある。また大正7年~昭和7年の間は表面下部の2分の1に通信文記載欄がある。今回、所有している絵はがきの調べでは明治40年~大正6年発行の様式のものは6種中すべてスレート葺き本温泉写真で、檜肌葺き本温泉が写っているものは無かった。逆に大正7年~昭和7年の発行の様式のものは10種中8種が檜肌葺き本温泉で、スレート葺き本温泉写真が2種だけあったが、どちらも京都山口青旭堂のものである。ストック写真を使ったのか、或いはハガキ様式の例外で、古いものなのかも知れない。

白い標柱の汚れ具合の推移…1903年4月(明治36年)以降の汚れ具合が樹木など他の要素の推移とつじつまが合い時間経過と共にどんどん汚くなっており、1926年8月(大正15年)~が一番汚くなっていた。

本温泉の照明器具のガス燈から電灯への移行…有馬に電灯がともったのが明治43年だから、ガス燈か電灯かの違いからも時代を推定できる。

向かいの兵衛旅館の照明器具や看板の推移・次世代との連続性…重厚で装飾的なガス燈からモダンな球形のガラスフードの電灯に変化している。また同じ電灯・看板が次世代の3階建て本温泉写真にも写り込んでおり連続性がある。

郵便局の案内看板の存在…郵便局は明治40年7月から大正13年11月までの間、尼崎坊(現在の「金の湯」の敷地の西南側の一部)の場所にあったので、その以前以後にはは本温泉前に案内看板は無いはず。

広告類の内容の推移…明治40年ごろから「三津森のタンサンせんべい」広告がでてくる。「人力車○○表」と読める看板から「乗合自動車」看板へ時代と共に内容が推移している。

建物の造作変化…案内看板や本温泉の照明器具の在る、なし、建物の造作などのつじつまが合っている。

電柱の存在…存在以前と以後にわけられる。有馬に電灯が普及した明治43年に架設されたと考えられる。

本温泉の庭の樹木の大きさの推移…手前の樹木の大きさが時間の推移に伴ってだんだん大きくなっている。


では、以上の要素を踏まえて導き出したこの時期の本温泉の移り変わりを、新しい時代の写真から順に絵はがきで見てみよう。 
14.本温泉大正10年 15.jpg 16.jpg
          いずれの写真も大正後期と考えられるが、左(縦長)がこの建物の一番終わりごろと考えられる。

今回の調べの結果、檜肌葺きの姿を、より新しい姿と判断した。上の写真に写っている兵衛旅館のR状に曲げられたブリキ看板と白い球の門燈は先に紹介した次世代の写真と共通だ。電信柱に隣接して木枠の縁の広告看板があり、中の広告は全部異なるが木枠は共通だ。広告内容の「自動車」「乗合自動車」の内容は文明の利器であり、それ以前に無いものだ。

一番左の写真だけ、入り口横の券売所と思しき造作物の天井の部分の造形が異なる事、その下の低い木戸の枠が低くなっている事、白い標柱がこの本温泉建築物の写真の中では一番汚れている事などから、一番新しい時代のものと考えられる。屋根の向うに立っていると思しき細長い棒が何なのかはわからないが、次世代の建築の為の準備と関係があるのかも知れない。

又、左側2つの写真がその他すべての写真と決定的に異なるのは、高い窓と下の窓の間に庇が無い事だ!装飾性のみで機能上大きな意味の無い庇を、老朽化に伴う危険性を考慮し撤去したと考えるのが妥当ではないだろうか。良く考えたら建築的には後から取り付ける方が無理がある!右端の彩色の分は、組みの写真に大正4年に開業したラジウム温泉が写っているので少なくともそれ以降、つまり改修後であることがわかる。

17.jpg 17b.jpg
                              大正13年以前大正7年以降
左の写真は、より新しい写真に共通して写っている三角頭の「花の坊」案内看板(写真左手)が設置されているが、それまであった郵便局案内看板が撤去されている。逆に右の写真ではまだ「花の坊」案内看板が取り付けられておらず、代わりに電信柱に郵便局案内看板が取り付けられている。それ以外に大きな違いは無い。

郵便局は明治40年7月から大正13年11月までの間、尼崎坊(現在の「金の湯」の敷地の西南側の一部)の場所にあったので、その以前以後には本温泉前に案内看板は無いはず。従って案内看板の無い左の写真が必ずしも大正13年11月以降とは言えないものの、右は間違いなくそれ以前との推測が成り立つ。さらに右は表面下部の2分の1に通信文記載欄がある絵はがきなので、大正7年以降大正13年以前といえる。いずれも檜肌葺きで、改修後だ。

18.jpg 19.jpg 20_20100628233939.jpg
         3枚とも本温泉改修前で、電灯導入後だから明治45年以前、明治43年以降

左の写真は逆光によるハレーションで確認しづらいが、よく見ると本温泉はスレート葺きで換気窓がうっすらと見えるので、改修前だ。電信柱の斜め支柱上の小さめの看板を良く見るとぼんやりだが「人力車○○表」と読める。その下の広告には「タンサン煎餅 おんせん煎餅 ○○かし本 三津森○○」と書いてある。三津繁松氏がタンサン煎餅を発売したのが明治40年だから明治40年以降、本温泉が改修された大正3年以前であろう。

さらに、上の3点のいずれの写真も本温泉の唐破風門の左にはガス燈が、中央に小さな電灯が設置されている。
左の写真では兵衛旅館の門燈が電灯となり看板もリニューアルされているのがわかるが 中央の写真ではまだガス燈だ。有馬でガス燈に変わり電気燈の使用が導入され始めたのは明治43年からだから、いずれの写真とも恐らく明治43年から本温泉が檜肌葺きに改修される大正3年に至るまでの間だろう。

2ee.jpg 4ba.jpg 20n.jpg 5s_20100627164224.jpg
郵便局案内板のあった期間は推測できる    タンサン煎餅広告は明治40年以降        電灯の導入時期で時代がわかる

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いずれの写真も明治40年から43年の間。右側の2枚は入り口横に屋根付きの案内板が設置してあり、より古い形態と考えられる。

左の写真は表面下部の3分の1に通信文記載欄がある明治40年~大正6年に発行された様式だが、写真には未だ電柱も無く本温泉の唐破風門に未だ電灯が設置されていない。従って明治43年以前、明治40年以降である。細かい部分だが未だ入り口横に券売所が設置されていない。真ん中の写真は入り口横に屋根付きの案内看板が設置してある。左と同じく表面下部の3分の1に通信文記載欄があるタイプだが、より古い。右側2枚は少なくとも所持しているデータの中ではこの建物のもっとも古い形態だろうと考えている。
22b_20100629172820.jpg 22c_20100629172756.jpg 
ところで、これら最も初期の写真の入り口の横の案内看板とガス燈にはさまれた低い四角柱は何だろう。撤去されたらしくこれ以降の写真には登場しない。ところが、実はこれと同じものが写っている写真があったのだ。

27b.jpg 27.jpg

それは…、明治24年から明治35年まで在った前世代の本温泉の入り口の同じ場所にあったのだ!
何しろ100年以上も前のものなのでこの物体が何なのかは解らないが、少なくともこれで私の考えた推移説(そんなたいそうな…)が正しいことがより明確になった。 (その後、kobemtshさんからコメントを頂き、明治時代のポストである事が判明しました。ありがとうございました。スッキリ!ポストの推移はコチラをどうぞ)
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初期の頃の一の湯側の様子。               同じ場所の現在の様子。 

ではなぜ、近代的とも思える換気窓付きスレート葺きからわざわざ旧式の檜肌葺きに、一見時代を逆行するような改修が行なわれたのだろう。耐久性の問題でスレートの石が落下する危険性が生じたか、或いはスレート葺きだと換気窓程度では対処できないくらい湿気がこもり、建物にダメージがあったという事なのであろうか。その両方であろうか。

泉質の違いがあるので一概には言えないが、1894年(明治27年)に竣工した道後温泉本館も傷みがかなり出ているとは聞くが、それでもいまだ健在なのはすごい。あちらは日本の伝統的瓦屋根だが、湿気の処理をどのようにクリアしているのだろうか興味深い。

次回は、さきほどチラッと登場した、明治24年から明治35年まで在った前世代の本温泉からもっと昔に遡ってタイムスリップを試みる。新発見の写真もご紹介しますんで請うご期待!