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前回に引き続き有馬温泉の過去の写真等の中からエキゾティックな洋風文化の入り込んだ要素を中心に紹介したい。趣くままなので紹介順に何ら意味の無い点お許しください。

有馬霊泉土地株式会社はかねてより経営していた、炭酸泉源に隣接の炭酸温泉旅館を大正12年に洋館3階建の炭酸ホテルに改築した。丸い塔がエキゾチックな洋館だ。今は炭酸泉源公園になっている。
時代はさかのぼるが写真のビリャード場も現炭酸泉源公園敷地内にあった建物で、寺町にあった旧清涼院境内への小学校校舎新築に伴い、明治26年、炭酸泉の隣地(炭酸ホテルの一段上の敷地)に、旧青涼院の堂宇(堂の軒)を移築したもの。写真でも、お寺の窓枠を塗りつぶしているのが判る。和と洋の文化との融合が面白い。

隣地の二階坊の敷地を買収、増床して大正15年に建て替えられた本温泉。一般の浴場に加え貸切家族風呂もあり、廃止になった高等温泉の機能も引き継いでいる。一見和風のエッセンスで味付けされているが、窓枠などは洋風。内部の構造も和洋折衷風だ。写真は2階の休憩所。上から見ると屋上がある。
昭和3年に竣工した神有電車有馬温泉駅の駅舎は流行のアールヌーボーやアールデコ調を取り入れた装飾的な鉄筋建築。2階には和洋折衷の趣きの食堂があった。神鉄駅舎はシンボル的な建物で、そのレトロな趣きから近年の観光ポスターにも採用されていた程だったので老朽化とはいえ何とか保存出来なかったものかと惜しまれるところだ。

当店吉高屋を含む駅前の建物群も駅舎竣工に合わせ、木造ながら表のモルタル壁面はすべてアールデコ調に新調され、依然として木造瓦葺き2階、3階建て中心の有馬の町の中で異色のエリアであった。吉高屋のアールデコ調モルタル外壁は昭和40年前後に台風被害の影響で崩落の危険からやむなく平坦な壁面に改修せざるを得なかったのだが、今、きらく屋さんが入っている建物などは健在で往時の面影がある。

昭和3年は神有電車の開業に加え、今の太閤通りに当る部分の滝川が暗渠化され道路になった有馬温泉にとって画期的な年だった。洋風の意匠の電灯の灯る街灯も据付けられた。大正15年、本温泉の新浴舎竣工に伴って廃止された高等温泉の建物は、しばらくは氷令倉庫として使われていたが解体され、跡地は昭和5年、すでに昭和2年から開業していた宝有自動車会社に貸付られて洋風駅舎となり、さらに昭和9年道路改修費の寄付を条件に阪急電鉄に売却された。(今の阪急バスの駅の場所。)昭和初期の有馬川沿いの街灯。右手現在有馬御苑さんの建っている辺りにオシャレな洋館があった。

今の阪急バスの駅、若狭屋さんの前に太古橋があった。写真左の明治時代中期には鉄骨の橋に白ペンキ塗装と思われる木製手すりが付いている。ややアーチ型になっている。「ペケ」の意匠は洋風だ。 明治24年頃、前回も紹介した鉄製手すりに代わったと思われる。(写真中央) 絵はがきを良く調べると後年鉄製の手すりが異なるデザインのものに付け替えられているのがわかった。(写真右) 初期の鉄製手すりの方が、より装飾的で、英国のビクトリアン・ゴシックの香りがするが後年のものは鉄の鋲がむき出しでやや無骨に見える。どうでも良い事かもしれないが、かなうなら当時の担当者に時期と変更理由を尋ねてみたいものだ。
明治41年から大正11年の間の杖捨橋も白ペンキで「ペケ」の意匠だ。大正11年竣工のものは鉄製のあっさりした格子デザイン。昭和6年換装の杖捨橋はモダンな洋風のアーチ型で当時としては珍しかった。

大正4年からの有馬軽便鉄道前の乙倉橋の手すりは格子だが、やはり白ペンキ塗装で、流行の洋風の要素が感じられる。昭和3年コンクリート製になった乙倉橋。有馬温泉の玄関口にふさわしいモダンで風格のあるものとなった。

万年橋も「ペケ」の構造が取り入れられている。絵はがきが赤に彩色されているので実物もそうだったのだろう。向こうに有馬ホテルが見えている。
以上、思いつくまま記事にした。また新たな発見があれば紹介したいと思う。
(炭酸ホテルの写真の一部は当時の炭酸ホテルの案内カタログのもの。ビリヤードと最も古い太古橋の写真は郷土史に詳しい藤井清氏提供。吉高屋の写真は私の家のアルバムより。その他は絵はがきの写真です。)





有馬霊泉土地株式会社はかねてより経営していた、炭酸泉源に隣接の炭酸温泉旅館を大正12年に洋館3階建の炭酸ホテルに改築した。丸い塔がエキゾチックな洋館だ。今は炭酸泉源公園になっている。
時代はさかのぼるが写真のビリャード場も現炭酸泉源公園敷地内にあった建物で、寺町にあった旧清涼院境内への小学校校舎新築に伴い、明治26年、炭酸泉の隣地(炭酸ホテルの一段上の敷地)に、旧青涼院の堂宇(堂の軒)を移築したもの。写真でも、お寺の窓枠を塗りつぶしているのが判る。和と洋の文化との融合が面白い。




隣地の二階坊の敷地を買収、増床して大正15年に建て替えられた本温泉。一般の浴場に加え貸切家族風呂もあり、廃止になった高等温泉の機能も引き継いでいる。一見和風のエッセンスで味付けされているが、窓枠などは洋風。内部の構造も和洋折衷風だ。写真は2階の休憩所。上から見ると屋上がある。




昭和3年に竣工した神有電車有馬温泉駅の駅舎は流行のアールヌーボーやアールデコ調を取り入れた装飾的な鉄筋建築。2階には和洋折衷の趣きの食堂があった。神鉄駅舎はシンボル的な建物で、そのレトロな趣きから近年の観光ポスターにも採用されていた程だったので老朽化とはいえ何とか保存出来なかったものかと惜しまれるところだ。




当店吉高屋を含む駅前の建物群も駅舎竣工に合わせ、木造ながら表のモルタル壁面はすべてアールデコ調に新調され、依然として木造瓦葺き2階、3階建て中心の有馬の町の中で異色のエリアであった。吉高屋のアールデコ調モルタル外壁は昭和40年前後に台風被害の影響で崩落の危険からやむなく平坦な壁面に改修せざるを得なかったのだが、今、きらく屋さんが入っている建物などは健在で往時の面影がある。




昭和3年は神有電車の開業に加え、今の太閤通りに当る部分の滝川が暗渠化され道路になった有馬温泉にとって画期的な年だった。洋風の意匠の電灯の灯る街灯も据付けられた。大正15年、本温泉の新浴舎竣工に伴って廃止された高等温泉の建物は、しばらくは氷令倉庫として使われていたが解体され、跡地は昭和5年、すでに昭和2年から開業していた宝有自動車会社に貸付られて洋風駅舎となり、さらに昭和9年道路改修費の寄付を条件に阪急電鉄に売却された。(今の阪急バスの駅の場所。)昭和初期の有馬川沿いの街灯。右手現在有馬御苑さんの建っている辺りにオシャレな洋館があった。



今の阪急バスの駅、若狭屋さんの前に太古橋があった。写真左の明治時代中期には鉄骨の橋に白ペンキ塗装と思われる木製手すりが付いている。ややアーチ型になっている。「ペケ」の意匠は洋風だ。 明治24年頃、前回も紹介した鉄製手すりに代わったと思われる。(写真中央) 絵はがきを良く調べると後年鉄製の手すりが異なるデザインのものに付け替えられているのがわかった。(写真右) 初期の鉄製手すりの方が、より装飾的で、英国のビクトリアン・ゴシックの香りがするが後年のものは鉄の鋲がむき出しでやや無骨に見える。どうでも良い事かもしれないが、かなうなら当時の担当者に時期と変更理由を尋ねてみたいものだ。



明治41年から大正11年の間の杖捨橋も白ペンキで「ペケ」の意匠だ。大正11年竣工のものは鉄製のあっさりした格子デザイン。昭和6年換装の杖捨橋はモダンな洋風のアーチ型で当時としては珍しかった。


大正4年からの有馬軽便鉄道前の乙倉橋の手すりは格子だが、やはり白ペンキ塗装で、流行の洋風の要素が感じられる。昭和3年コンクリート製になった乙倉橋。有馬温泉の玄関口にふさわしいモダンで風格のあるものとなった。

万年橋も「ペケ」の構造が取り入れられている。絵はがきが赤に彩色されているので実物もそうだったのだろう。向こうに有馬ホテルが見えている。
以上、思いつくまま記事にした。また新たな発見があれば紹介したいと思う。
(炭酸ホテルの写真の一部は当時の炭酸ホテルの案内カタログのもの。ビリヤードと最も古い太古橋の写真は郷土史に詳しい藤井清氏提供。吉高屋の写真は私の家のアルバムより。その他は絵はがきの写真です。)
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明治~大正・昭和にかけては西洋文化が日本に流入した時期。神戸港にすごく近い事もあり、
外国人の避暑リゾートとして栄えた為、有馬温泉にもエキゾチックな洋風建築や構造物が沢山
導入され、江戸時代以来の木造瓦葺き2階、3階建ての家並みに少しずつ変化が見られるように
なった。ビミョーにモダンな西洋の香りが入り込んだこの時期の風景が個人的にもすごく好きだ。
今回はそんなエキゾチックな要素を趣くままにピックアップする。

明治16年に完成した本温泉の浴舎。これはオランダ人設計技師ケーレツの設計。
風土に合わずペンキが剥がれ老朽化が早かった事もあるようだが、明治10年代も晩期には洋風建築
スタイルが流行遅れとなり、より格式を感じさせる御殿式が流行っていた事もあるらしく、明治24年には
再び和風宮殿造建築に建て替えしている。残念ながら写真は一枚もなく、上のような銅版画や絵図が
残るのみだ。日本で写真を印刷した“絵はがき“が出回り始めたのは明治30年代後半で、それ以前
には写真はガラス板中心で、かつ人物を写す事が多く、風景写真は少なかったようだ。)
本温泉と同じくケーレツの設計し炭酸温泉場に設置計画のあった洋風炭酸水飲用所は、先に完成した
本温泉が大不評の為、ボツになった。
明治33年からの「てっぽう水」工場。炭酸泉源すぐ下にあった。棟の3箇所に越屋根があり換気していた。
輸送の効率化の為大正6年に有馬駅前に移転。跡地は現在空き地で企業所有の駐車場となっている。

明治35年大阪の藤本清兵衛が開業した外国人専用の有馬倶楽部ホテル(有馬ホテル)は明治41年
買収により大日本ホテル株式会社の支店となる。大正4年大日本ホテルの経営不振で同じ有馬温泉
の増田ホテルの増田宇三之助経営となる。バルコニーのあるコロニアル様式で、ビリアードバーや
プールもあった。昭和2年にはここで蒋介石が宿泊し宋美麗と婚約を交わした。昭和13年の阪神
大風水害で一部流出、閉鎖となった。 明治18年に炭酸泉のある杉ケ谷付近に建築された稲荷山
ホテルは外人専用の2階建て貸し別荘が3棟並んでいたという。古い写真なのでかなり不鮮明だが、
写真で見る限り外見的には和の要素も感じさせるが、内部が白壁で洋風だったようだ。
鮮明な写真は無いが、明治36年にオープンしたキングジョージホテルも洋館だった。薄青のペンキ塗装
の建物だったそうだ。明治10年頃建てられた杉本ホテルは基本的には和風建築だが、英語看板と
手すりが白ペンキ塗装のところが部分的に洋風だ。外人専用ホテルは他にも清水ホテルや増田ホテル
などがあったが建物自体は基本的に和風だった。
時代は下るが、キングジョージホテルの一段下、温泉寺前の石段横、今の有馬ロイヤルホテルの場所
にあった町役場も和風建築に洋風の塔を設えた折衷建築だ。

大正4年にオープンした町営のラジューム温泉。インドのサラセン近世様式を取り入れた洋館建だった。
男女普通浴槽、シャワー室、蒸し風呂、休憩室、特別浴室6室、理髪室、ラドン吸入室など最新式の
設備を有していた。円形の回廊に囲まれた中庭には池もあった。まさにエキゾチックパラダイス!
ところが赤字経営だったため昭和4年神有電鉄に無償で貸与。昭和13年7月の阪神大風水害に於ける
被害で営業不可能となり取り壊された。約23年間の営業だった。跡地には土井船艇兵器工業が工場
を建て、兵器部品の製造がおこなわれた。後に旅館銀水荘が建ち、平成21年現在はシニア向けマンション
建設中である。ちなみに銀水荘楽山は道路(西)向きに建っていたが、ラジウム温泉は南向きだった。

大正4年にオープンした有馬軽便鉄道の有馬駅、大正6年に移転して来た隣接の有馬サイダー工場も
レンガ造りで洋風の近代的な設備だった。有馬軽便鉄道は大正8年に国有鉄道に買収された。
その国有鉄道有馬線も戦時中の昭和18年、国策により廃止された。車両は、篠山線での軍事輸送に
使われた。駅舎は後に老朽化の為取り壊され、跡地には昭和42年先山クリニックが移転開業。
現在ミント・リゾートイン・アリマを併設し営業しておられる。話題は逸れるが体の弱かった私は
先山先生には良くお世話になった。今の私が存在するのも、○○マイシンとかのブットイ注射のお陰だ。

明治36年に建て替えられた本温泉は明治45年の改修で屋根に換気の為の屋根を設けた。
横のスリットは洋風の様に感じる。本温泉を囲う鉄柵は明治24年以来の洋風の物がそのまま
利用されているようだ。(写真は一の湯側から。)明治36年にオープンした高級家族風呂の高等温泉
(今の阪急バスの駅の場所)は洋風の門や鉄柵に囲まれている。高等温泉の六角形の窓も
純和風ではない。建築物以外でも、高等温泉前の鉄製になった太古橋や、川沿いの道路の手すり
などは、装飾的な西洋風意匠のものだ。

大正9年兵衛旅館が旅客送迎用に自動車を購入した。大正12年曙タクシー発足。27年式シボレー使用。
大正14年神戸有馬乗合自動車が神戸の平野~有馬間に開業。昭和2年宝塚有馬自動車株式会社
が出来、宝塚~有馬間に開業。当時の車はどれも似ていて写真のがどの車種かは不明。
ご存知の方お教えください!
(次回に続く)
記載内容に間違い等あればどうぞご指摘をお願いします。
写真は大概は過去の絵はがきです。一部、郷土史家の藤井清さん提供資料、私の家のアルバム
の写真等も含まれています。
外国人の避暑リゾートとして栄えた為、有馬温泉にもエキゾチックな洋風建築や構造物が沢山
導入され、江戸時代以来の木造瓦葺き2階、3階建ての家並みに少しずつ変化が見られるように
なった。ビミョーにモダンな西洋の香りが入り込んだこの時期の風景が個人的にもすごく好きだ。
今回はそんなエキゾチックな要素を趣くままにピックアップする。




明治16年に完成した本温泉の浴舎。これはオランダ人設計技師ケーレツの設計。
風土に合わずペンキが剥がれ老朽化が早かった事もあるようだが、明治10年代も晩期には洋風建築
スタイルが流行遅れとなり、より格式を感じさせる御殿式が流行っていた事もあるらしく、明治24年には
再び和風宮殿造建築に建て替えしている。残念ながら写真は一枚もなく、上のような銅版画や絵図が
残るのみだ。日本で写真を印刷した“絵はがき“が出回り始めたのは明治30年代後半で、それ以前
には写真はガラス板中心で、かつ人物を写す事が多く、風景写真は少なかったようだ。)
本温泉と同じくケーレツの設計し炭酸温泉場に設置計画のあった洋風炭酸水飲用所は、先に完成した
本温泉が大不評の為、ボツになった。
明治33年からの「てっぽう水」工場。炭酸泉源すぐ下にあった。棟の3箇所に越屋根があり換気していた。
輸送の効率化の為大正6年に有馬駅前に移転。跡地は現在空き地で企業所有の駐車場となっている。









明治35年大阪の藤本清兵衛が開業した外国人専用の有馬倶楽部ホテル(有馬ホテル)は明治41年
買収により大日本ホテル株式会社の支店となる。大正4年大日本ホテルの経営不振で同じ有馬温泉
の増田ホテルの増田宇三之助経営となる。バルコニーのあるコロニアル様式で、ビリアードバーや
プールもあった。昭和2年にはここで蒋介石が宿泊し宋美麗と婚約を交わした。昭和13年の阪神
大風水害で一部流出、閉鎖となった。 明治18年に炭酸泉のある杉ケ谷付近に建築された稲荷山
ホテルは外人専用の2階建て貸し別荘が3棟並んでいたという。古い写真なのでかなり不鮮明だが、
写真で見る限り外見的には和の要素も感じさせるが、内部が白壁で洋風だったようだ。
鮮明な写真は無いが、明治36年にオープンしたキングジョージホテルも洋館だった。薄青のペンキ塗装
の建物だったそうだ。明治10年頃建てられた杉本ホテルは基本的には和風建築だが、英語看板と
手すりが白ペンキ塗装のところが部分的に洋風だ。外人専用ホテルは他にも清水ホテルや増田ホテル
などがあったが建物自体は基本的に和風だった。
時代は下るが、キングジョージホテルの一段下、温泉寺前の石段横、今の有馬ロイヤルホテルの場所
にあった町役場も和風建築に洋風の塔を設えた折衷建築だ。








大正4年にオープンした町営のラジューム温泉。インドのサラセン近世様式を取り入れた洋館建だった。
男女普通浴槽、シャワー室、蒸し風呂、休憩室、特別浴室6室、理髪室、ラドン吸入室など最新式の
設備を有していた。円形の回廊に囲まれた中庭には池もあった。まさにエキゾチックパラダイス!
ところが赤字経営だったため昭和4年神有電鉄に無償で貸与。昭和13年7月の阪神大風水害に於ける
被害で営業不可能となり取り壊された。約23年間の営業だった。跡地には土井船艇兵器工業が工場
を建て、兵器部品の製造がおこなわれた。後に旅館銀水荘が建ち、平成21年現在はシニア向けマンション
建設中である。ちなみに銀水荘楽山は道路(西)向きに建っていたが、ラジウム温泉は南向きだった。




大正4年にオープンした有馬軽便鉄道の有馬駅、大正6年に移転して来た隣接の有馬サイダー工場も
レンガ造りで洋風の近代的な設備だった。有馬軽便鉄道は大正8年に国有鉄道に買収された。
その国有鉄道有馬線も戦時中の昭和18年、国策により廃止された。車両は、篠山線での軍事輸送に
使われた。駅舎は後に老朽化の為取り壊され、跡地には昭和42年先山クリニックが移転開業。
現在ミント・リゾートイン・アリマを併設し営業しておられる。話題は逸れるが体の弱かった私は
先山先生には良くお世話になった。今の私が存在するのも、○○マイシンとかのブットイ注射のお陰だ。








明治36年に建て替えられた本温泉は明治45年の改修で屋根に換気の為の屋根を設けた。
横のスリットは洋風の様に感じる。本温泉を囲う鉄柵は明治24年以来の洋風の物がそのまま
利用されているようだ。(写真は一の湯側から。)明治36年にオープンした高級家族風呂の高等温泉
(今の阪急バスの駅の場所)は洋風の門や鉄柵に囲まれている。高等温泉の六角形の窓も
純和風ではない。建築物以外でも、高等温泉前の鉄製になった太古橋や、川沿いの道路の手すり
などは、装飾的な西洋風意匠のものだ。





大正9年兵衛旅館が旅客送迎用に自動車を購入した。大正12年曙タクシー発足。27年式シボレー使用。
大正14年神戸有馬乗合自動車が神戸の平野~有馬間に開業。昭和2年宝塚有馬自動車株式会社
が出来、宝塚~有馬間に開業。当時の車はどれも似ていて写真のがどの車種かは不明。
ご存知の方お教えください!
(次回に続く)
記載内容に間違い等あればどうぞご指摘をお願いします。
写真は大概は過去の絵はがきです。一部、郷土史家の藤井清さん提供資料、私の家のアルバム
の写真等も含まれています。
前回の『大砲』が"男性的な"話題であるとするなら、今回は"女性的な"話題で参りたいと思います。
有馬温泉が昔から『子宝の湯』として有名なのはご存知でしょうか。
歴史的な側面や、泉質の面からの考察、さらには子宝に因んで有馬温泉に生まれた独特の文化をご紹介します。


歴史的には、奈良時代、第36代孝徳天皇の皇子、有間皇子は、有馬温泉の効果で有馬温泉で誕生したと言われています。 以来、有間皇子の話は、後世に語り継がれ、子宝を求める数多くの都人が、はるばる有馬温泉に赴いた歴史の積み重ねが、 『子宝の湯』としての評判を築きあげてきました。現在も西田筆店さんが造っておられる有名な伝統工芸品「有馬人形筆」は、その有間皇子誕生の故事に因み、子宝に対する願いを込めて永禄3年(1559年)に有馬の名家川上氏下男の伊助と言う人によって創作されたと言われています。筆先を下に向けると、筒先から『子宝』に見立てた可愛い人形がぴょこっ!と顔を出します。
又有馬の鎮守湯泉神社は古来、子授けの神として大変人気があり、全国から数多くの方がお参りされます。独特な形の子授けのお守りもあります。古刹林渓寺の庭には、その実を食べると妊娠すると言い伝えられている樹齢200年以上の八重咲きの梅『未開紅の梅』(つぼみのころから真紅という意味)があります。それもこれも先ずは霊験あらたかな『子宝の湯』ありきの謂れではないでしょうか。
次に泉質的な側面から見ましょう。ご承知の通り有馬温泉は、その効能、泉質の良さから草津、下呂と共に『日本三名泉』に数えられています。
有馬温泉は、同じ地域内に場所と深度により泉質の全く異なる幾つもの泉脈を有する温泉地ですが、中でも有馬温泉最大の特徴は、やはり赤くて塩辛いお湯『金泉』でしょう。一般に「鉄泉」や、「塩化物泉」は保温効果が大変高いと言われているのですが、有馬温泉の金泉は「含鉄・ナトリウムー塩化物強塩泉」であり「鉄泉」と「塩化物泉」の両方の要素を持つ為、よりいっそう保温効果が高い訳で、卵巣の発育不全、冷え性や慢性婦人病などに大変良く効くと言われています。確かに冬場でも、いつまでもポカポカしてなかなか湯冷めしません。有馬の湯が「子宝の湯」とされている事が成分的にも理に適ったものである事がわかります。漢方薬も同じですが、人が永い間の積み重ねで得た経験則というものは、やはり的を得ているのだなあと改めて思います。
又、金泉以外の泉脈の無色の温泉『銀泉』は、「ナトリウム・塩化物炭酸水素塩泉」(銀泉:金気、塩味)「単純放射能泉」(ラジウム泉源:無色透明、無味)「単純二酸化炭素泉」(炭酸泉源:無色透明、無味)などそれぞれ少しずつ成分は異なりますが、いずれも炭酸水素イオンを豊富に含んでおり、膣内の酸度の調整が行われて、不妊が解消される場合があると言われています。
世に『子宝の湯』と呼ばれている温泉地は星の数程あります。温泉に来たという開放感、気分の転換による所謂「転地効果」はどんな温泉地にもあり大きな要素ではありますが、どうやら有馬温泉には歴史面でも泉質の面でも+αの要素が大いにありそうです。
さて、私共が所有している『有馬温泉史話』(小澤清躬著昭和13年10月16日発行)という本の中に子宝にまつわる「有馬温泉ならでは」の物の事が記されています。




この本の著者小澤清躬先生は医学博士で、有馬温泉の歴史研究家でもあった方です。この本、有馬温泉解説のバイブルともいえる程中身が充実していて面白く、又装丁などに有馬ならではの地元の布や紙などを使用しており、知る人ぞ知るコレクターズアイテムなのだそうです。古本屋さんでも、結構な高値が付きます。なぜ私共が所有しているのかというと、実は私共吉高屋が特別製造した『湯染め木綿』が装丁に使用されており、協力のお礼に先生の雅号「蓉谷生」のサイン入りの本を頂戴したという訳なのです。
*昔の有馬名物で、有馬温泉の金泉で木綿を染め上げたもの。身体に巻くと良く温まる為、妊婦の腹帯などにも利用されたそうです。この本の装丁のように紅葉などの木の葉を木槌で打ちたたき有馬温泉に含まれる鉄分と葉の成分の化学反応を利用し布に葉の形を黒く染め出している物もあります。
本題に戻って、この本の中で紹介されている「有馬温泉ならでは」の子宝にまつわる物とは…
江戸時代、大坂の著名な医者柘植龍州(1770~1820)が発明した器具です。龍州の著書『温泉論』共々、紹介されているのですが、それを説明する前にまずは医者としての龍州と有馬との関わりを、同じくこの本の中に書かれたエピソードからご紹介しましょう。
龍州は有馬温泉を事の他好み、度々入湯に来ていました。当時は、”高温泉”である城崎温泉を賞賛した姫路の医師香川修徳の著書『一本堂薬選続編』(1738年)の影響で、客足を城崎に奪われていた時代でしたが、自著『温泉論』の中で”温度”重視主義の欠点を的確に突き反論、泉質重視を説き、中でも有馬温泉の泉質が最も優れているとしました。
又、寛政年間(1789~1801)当時、有馬温泉では湯の湧出量の減少、温度の低下といった危機的状況にありましたが、その原因を究明、すなわち龍州によると原因は温泉自体のものではなく、泉源が谷底にある為、周辺からの漏水が集まる為であるとし、有馬の当時の有力者兵衛元式等に”浚泉(泉源の底を浚い、深くする事。)”などの泉源改修の必要性を説きました。兵衛元式はこれに共鳴しましたが、大多数の町民はそんなに危機意識をもっていなかったので、龍州を大坂から招き町民を前に彼の『温泉論』や現状の有馬温泉の危機的状況を熱弁してもらったそうです。
この時、龍州が最後に述べた『泉気交変解』という論は私版現代語訳ですがおおよそ次のようでした。
「温泉を成立させている火のエネルギーと水のエネルギーの関係性により有馬では360年毎に地震が起こっている。もしその時期でもないのに温泉の温度に大きな変化(下がっている)があったとすれば何らかの外的障害により火のエネルギーと水のエネルギーが遊離しバランスを崩しているに違いない。思うに、今日の有馬は人家が多すぎて陽光が地に降り注がず地気の発散する余地もない。このままでは、地震、山崩れ、温泉閉塞、泥土噴出、果ては土地の大爆発、山も川も破壊され全村壊滅するような事も無いとは言えない。一日も早く予防の方策(泉源の浚泉)を講ずる必要がある!」
殆ど脅しです!
当時は、まだ陰陽学の影響もあり、現代科学から見るとかなり『トンデモ』な理屈ですが、半分は、どうも煮え切らない町民に何としても泉源改修に踏み切らせる為の龍州のハッタリのような気もします。偉い先生の迫力ある熱弁に、さすがに皆が肝をつぶし一挙に泉源改修を決議しました。(因みに”温泉教授”松田忠徳教授の『江戸の温泉学』2007年5月25日発行 では、講演の9年後にやっと浚泉工事に着手したとされています。)しかも、その後、その通りに改修工事を実施すると、物の見事に本来の有馬温泉の湯温、湧出量に戻ったそうです。結果オーライなところがすごいではないですか。
いわば江戸時代における有馬温泉の救世主ともいえる有難い先生なのです。
他にも「金華五石泉方」という人工温泉を考案したりもしました。材料費が高く庶民の手に届くものではなかったそうですが、医学者宇津木昆台も「其の功、有馬温泉と同じく、其精密なること至らざる所なし」と絶賛していますから、かなりのアイデアマンだったようです。
さて、その龍州が「子宝の湯」として評判の良い有馬温泉を、さらに効果的なものにする為に考案したある器具。下がその挿絵です。

温泉論 壺盧の図 温泉論 龍筩の図 温泉論 宮口の図
(いずれも「有馬温泉史話」の挿絵)
どうです?何となく想像がつきますでしょうか。
どうやら龍州の考案した「龍筩」(筩=筒)又の名「蕣注」(蕣=あさがお)とは要するに、膣洗浄器であると共に、温泉を子宮内に流入させ、より直接的に暖める為の挿入道具のようです。温泉が勢い良く湯船の底から湧き出ていたという当時の有馬温泉の元湯の特徴を利用したもので、噴出した金泉を受け止め局部に注入する為に考案された物らしのです。名前はその形状の故です。サイズは個々人に合せる為、大蕣(あさがお)、中蕣、小蕣と3タイプ。これを装着して、一廻り(1週間)湯治する訳です。子宮内が洗浄され、粘液などで子宮頸管が閉塞している場合これを取り除き通りを良くし、受精しやすい状態にする事や、子宮を暖める事で新陳代謝を促進する事など、西洋医学的見地から見ても「たしかにある程度までは合理的のものといひ得るのである。」と、小澤博士もその効果を認めています。
さらに『有馬温泉史話』には龍州の「龍筩」がどのような思考錯誤の末出来上がったのかが、細かく紹介されています。面白いので紹介しますと、
初めは竹筒を使い半分を縦に割り数十本の脚に裂き広げ、内側は麻糸で編み外側には昆布(!)を巻き、漏斗形(あさがおの花状)にした試作品を作り、効果をテストしたそうです。
第2弾は浪花のギヤマン(ガラス)工に注文し、工芸品的には大変艶やかで味があったといいます。
然しながら有馬温泉は底に石が敷いてあり、当たって割れやすいガラスでは、取扱いに注意を要する為、ボツ。龍州はこの美しい龍筩を何と有馬の阿弥陀坊の住持の泰眠和尚にプレゼントしたそうです。
第3弾は銅匠に頼んで銅版で作らせたが、器具としては堅牢だが物に当たるとカラカラと音がするので同浴(当時はもちろん男女混浴)の人々の注意を引いて具合が悪かったのと、有馬の湯の作用でたちまち変色し錆びやすいという欠点があり、ボツ。これは、有馬の旅館の女将に試してもらったそうです。
その他、スズなどの金属や、牙角類にも皆一長一短があった…。
そして都合の良いサイズの瓢箪を横に切り取り、うるし仕上げしたところ、膣口への接触も剛柔相合ってはなはだ調子良く、ついに極めて優秀で軽い物が出来上がったのだとか。
現代人の我々なら、ちょっと考えれば解ってしまう様な試行錯誤を真剣にしていた様がほほえましくもあります。それに、試作品をお寺のお坊さんにプレゼントしたり旅館の女将に試してもらうなんて!しかも龍州は、完成した瓢箪の「龍筩」のすばらしさを自画自賛する事を忘れません。自著『温泉論』で、「凡ての婦人病を治しあるひは妊娠を欲するならば、自分の考案した龍筩を使用するに限る、これが最上の方法であって、もしこの器具を用ふるならば百発百中必ず成功する。十数年来の婦人病があっと言う間に治り、妊娠の喜びが得られる」などと自信満々に書いています。しかも「これにいろいろの蒔絵を描き金粉を施すと大変美麗である。」と、工芸品としての美しさまで考えているセンスには脱帽です。『有馬温泉史話』の中で小澤博士も「いかにも手軽に調子良く片付けている。」「いかにも都合よく解釈してゐたものらしい。」と面白がっているようなところもあります。先の有馬町民の前での熱弁といい、龍州先生、かなりイケテマス。
因みに小澤清躬博士が、「有馬温泉史話」の中で餘事ながらと前置きして「子宝の湯」として紹介している温泉を原文のまま次に紹介しておきます。
「静岡の吉奈及び船原(芒硝性苦味泉)、群馬の伊香保(土類含有弱石膏性苦味泉)、兵庫の有馬、新潟の栃尾又(単純泉)、 熱塩(土類含有弱食塩泉)泉)山形の五色(アルカリ泉)、 新五色(単純泉)等である。即ちこれらを通覧するに温泉学的にいへば食塩泉が尤も多く苦味泉これに次ぎ、その他少数の単純泉、炭酸泉、アルカリ泉等であることも注目すべき事である。」
只、龍州の考案した瓢箪では生産の歩留まり(効率)が悪くしかも耐久性に乏しいため、後に近在の木地師に木の挽物細工に漆塗りしたものを製作させるようになった事が医学者宇津木昆台「温泉辨」に書かれています。
『有馬温泉史話』によると、明治3年難波の座禅庵なる人の日記『有馬見屋家』に
「かくし上戸、婦人子なきものは其の坊へたずぬべし、図(下図)の如くの上戸なり、陰門へさし入れ湯花を小つぼ(子壺にて子宮の意ならん)へうけいれてよろし、之も湯女にたづぬべし、」と記してあったそうで、明治に入ってもこの器具は健在であった事が解ります。
『有馬見屋家』の図(下図)では木の挽物細工になっています。

有馬見屋家」かくし上戸(「有馬温泉史話」の挿絵)
又、昔、湯女が酒席で唄った『有馬ぶし』の中でも「有馬名物大きな筆をぶらぶらと、子種をば祈る薬師の湯壷にてまたぐら広げふくふくと湯花のあたる心地よさ、かくし上戸は幕の内、子壺へ入れ玉ふ。」と詠まれており、有馬では「かくし上戸」という名前が一般的に通っていた事が解ります。さらに、昭和13年発行の「有馬温泉史話」編纂当時生存していた老湯女の話では明治15,16年頃までは各湯戸ではみな「かくし上戸」を用意して、婦人客の求めに応じて貸し出されたとのこと。 つまり柘植彰常(龍州)の発明した「龍筩」は「かくし上戸」の名前で少なくとも明治中期までは残っていた訳です。
そんな、『龍筩』もしくは『かくし上戸』、実は私も現物を見た事がありません。
古くからの旅館なら蔵にでも眠っているに違いありませんが…物が物なだけに表に出しにくいのでしょうか。木製だけにお風呂を炊く時にでも焼かれてしまったのでしょうか。どこかの旅館で資料展示されているという話も聞きません。湯治客向けに売っていたお土産物屋さんまであったそうなのですが。
小澤博士ですら『有馬温泉史話』の中で「とにかく私はこの『龍筩』もしくは『かくし上戸』に太だ興味を感じたので、有馬において百万これを索ねてみたが終に見當らぬ。」と書いています。
明治15、16年頃まではお客に貸し出されていたらしいのに、昭和初期の時点で、小澤博士が探しまわっても既にどこにも見当たらないとはどうした事でしょう。
ところ変わって、同じく「子宝の湯」として有名な群馬県の伊香保温泉では、明治時代の帝室侍医頭の樫村正徳医学博士が考案したという「子宮洗い器(こつぼあらいき)」が現存し、レプリカが「温泉資料館」に展示してあるそうです。こちらも「子宝」を目的としたもので、形状は指サックの大きい版の様な形でやや真ん中辺がプクツと膨れた様な形で、全体に穴がポコポコと開いています。素材は桜の木をくり貫いたものとか。嘗てはお土産としても売られていたそうですが、子供の笛と間違って買って行ったお客もあるという笑い話もあるそうです。東西広しと云えども同じような湯治場に、形は違えど同じような歴史があるのだなあと思います。
有馬にも残っていたらなあ…と、思っているところにやって来られたのは、普段からいろいろとご教授いただいている郷土史に詳しい藤井清氏。「かくし上戸」の話をすると、「写真やったらあるで」との有難いお言葉!
果たして数日後持って来られたのは昭和40年(1965年)有馬温泉観光協会発行の『ワンダフル・ありま』という定価200円也の有馬温泉ガイドブック。(現在の目で見ると大変面白く、改めて紹介したいと思います。)昭和40年といえばあの東京オリンピックの翌年。有馬では「旅館案内所」が出来た年です。
「秘蔵拝見」と名打たれたページに奥の坊所蔵「温泉子宝漏斗」と2点の写真入りで紹介されていました。写っている2点とも『有馬見屋家』で紹介されている挽物細工の物とも形が異なります。どちらも漆仕上されているようで艶があり、指サックの大きい版のような形に穴がいくつも開いていてます。一方は穴が縦に並んだ状態でポコポコと開いています。良く見るとサイド面に細長いスリットのような縦穴もありますが、見る角度によっては笛と間違えそうです。もう一方のは細長い縦穴が六方(恐らく)に開いています。もしこれらが最終形とすると龍州の考案した物が1世紀近い年月分のバージョンアップの積み重ねでこのような形になったのかもしれません。製作者によるモデルチェンジや同じ時期にもいろんなバージョンがあったのかもしれません。形の共通性から見ると伊香保温泉の物との繋がりを感じさせるような気もしますが、或いは機能を追い求めた末、共通性のあるフォルムに落ち着いたという事なのかも知れません。奥の坊さんは代々お医者様をされておられた家系という事で今に残っているそうです。女将にも確認させていただいたところ、今でも家宝として所蔵しておられるとの事。現在ウエブサイト等でもあえて写真公開はしておられませんので、当サイトでも写真は控えさせていただく事にします。とにかく実物が残っていて良かったです!小澤博士も奥の坊さんに聞けば良かったのに…或いは文献に登場している古い形の物を探しておられたのかもしれませんが。
先日、元湯龍泉閣の逸郎社長が司馬遼太郎短編全集の中に『妬の湯』(うわなりのゆ)という短編小説があり、有馬温泉の事が書かれていて面白いからと本を貸してくれました。短編とはいえども、有馬温泉の古い町並みの描写が、まるで見てきたかの様に描かれていて、しかもかなり考証されているところがすごいのですが、この小説の中でキーグッズとして描かれているのが、何と「かくし上戸」なのです。登場人物の女性が温泉に浸かりながら使用する場面もあります。又「有馬温泉史話」を参考にしたと思われるようなエピソードも描かれていて面白かったです。ご興味のあられる方は是非読んでみてください。
今回は、資料を読み進むうちに、「子宝の湯」としてのうんちくもさる事ながら、江戸時代に柘植龍州という有馬温泉の大変な恩人がいて、深く知る程に魅力的な人物だったのだという事も知ることができ、私にとってはとても大きな収穫となりました。今も「金の湯」の前に立っている「日本第一神霊泉」の碑には「柘植龍州の温泉論を読むべし」の意の漢文が刻まれています。
子宝を求めておられる方も、そうでない方も、こんなエピソードいっぱい、効能たっぷりの有馬温泉のお湯で、ゆったりと身体を暖められてはいかがですか。
参考文献:『有馬温泉史話』(小澤清躬著 昭和13年10月16日発行)
『江戸の温泉学』(松田忠徳著 2007年5月25日発行)
有馬温泉が昔から『子宝の湯』として有名なのはご存知でしょうか。
歴史的な側面や、泉質の面からの考察、さらには子宝に因んで有馬温泉に生まれた独特の文化をご紹介します。



歴史的には、奈良時代、第36代孝徳天皇の皇子、有間皇子は、有馬温泉の効果で有馬温泉で誕生したと言われています。 以来、有間皇子の話は、後世に語り継がれ、子宝を求める数多くの都人が、はるばる有馬温泉に赴いた歴史の積み重ねが、 『子宝の湯』としての評判を築きあげてきました。現在も西田筆店さんが造っておられる有名な伝統工芸品「有馬人形筆」は、その有間皇子誕生の故事に因み、子宝に対する願いを込めて永禄3年(1559年)に有馬の名家川上氏下男の伊助と言う人によって創作されたと言われています。筆先を下に向けると、筒先から『子宝』に見立てた可愛い人形がぴょこっ!と顔を出します。
又有馬の鎮守湯泉神社は古来、子授けの神として大変人気があり、全国から数多くの方がお参りされます。独特な形の子授けのお守りもあります。古刹林渓寺の庭には、その実を食べると妊娠すると言い伝えられている樹齢200年以上の八重咲きの梅『未開紅の梅』(つぼみのころから真紅という意味)があります。それもこれも先ずは霊験あらたかな『子宝の湯』ありきの謂れではないでしょうか。
次に泉質的な側面から見ましょう。ご承知の通り有馬温泉は、その効能、泉質の良さから草津、下呂と共に『日本三名泉』に数えられています。
有馬温泉は、同じ地域内に場所と深度により泉質の全く異なる幾つもの泉脈を有する温泉地ですが、中でも有馬温泉最大の特徴は、やはり赤くて塩辛いお湯『金泉』でしょう。一般に「鉄泉」や、「塩化物泉」は保温効果が大変高いと言われているのですが、有馬温泉の金泉は「含鉄・ナトリウムー塩化物強塩泉」であり「鉄泉」と「塩化物泉」の両方の要素を持つ為、よりいっそう保温効果が高い訳で、卵巣の発育不全、冷え性や慢性婦人病などに大変良く効くと言われています。確かに冬場でも、いつまでもポカポカしてなかなか湯冷めしません。有馬の湯が「子宝の湯」とされている事が成分的にも理に適ったものである事がわかります。漢方薬も同じですが、人が永い間の積み重ねで得た経験則というものは、やはり的を得ているのだなあと改めて思います。
又、金泉以外の泉脈の無色の温泉『銀泉』は、「ナトリウム・塩化物炭酸水素塩泉」(銀泉:金気、塩味)「単純放射能泉」(ラジウム泉源:無色透明、無味)「単純二酸化炭素泉」(炭酸泉源:無色透明、無味)などそれぞれ少しずつ成分は異なりますが、いずれも炭酸水素イオンを豊富に含んでおり、膣内の酸度の調整が行われて、不妊が解消される場合があると言われています。
世に『子宝の湯』と呼ばれている温泉地は星の数程あります。温泉に来たという開放感、気分の転換による所謂「転地効果」はどんな温泉地にもあり大きな要素ではありますが、どうやら有馬温泉には歴史面でも泉質の面でも+αの要素が大いにありそうです。
さて、私共が所有している『有馬温泉史話』(小澤清躬著昭和13年10月16日発行)という本の中に子宝にまつわる「有馬温泉ならでは」の物の事が記されています。






この本の著者小澤清躬先生は医学博士で、有馬温泉の歴史研究家でもあった方です。この本、有馬温泉解説のバイブルともいえる程中身が充実していて面白く、又装丁などに有馬ならではの地元の布や紙などを使用しており、知る人ぞ知るコレクターズアイテムなのだそうです。古本屋さんでも、結構な高値が付きます。なぜ私共が所有しているのかというと、実は私共吉高屋が特別製造した『湯染め木綿』が装丁に使用されており、協力のお礼に先生の雅号「蓉谷生」のサイン入りの本を頂戴したという訳なのです。
*昔の有馬名物で、有馬温泉の金泉で木綿を染め上げたもの。身体に巻くと良く温まる為、妊婦の腹帯などにも利用されたそうです。この本の装丁のように紅葉などの木の葉を木槌で打ちたたき有馬温泉に含まれる鉄分と葉の成分の化学反応を利用し布に葉の形を黒く染め出している物もあります。
本題に戻って、この本の中で紹介されている「有馬温泉ならでは」の子宝にまつわる物とは…
江戸時代、大坂の著名な医者柘植龍州(1770~1820)が発明した器具です。龍州の著書『温泉論』共々、紹介されているのですが、それを説明する前にまずは医者としての龍州と有馬との関わりを、同じくこの本の中に書かれたエピソードからご紹介しましょう。
龍州は有馬温泉を事の他好み、度々入湯に来ていました。当時は、”高温泉”である城崎温泉を賞賛した姫路の医師香川修徳の著書『一本堂薬選続編』(1738年)の影響で、客足を城崎に奪われていた時代でしたが、自著『温泉論』の中で”温度”重視主義の欠点を的確に突き反論、泉質重視を説き、中でも有馬温泉の泉質が最も優れているとしました。
又、寛政年間(1789~1801)当時、有馬温泉では湯の湧出量の減少、温度の低下といった危機的状況にありましたが、その原因を究明、すなわち龍州によると原因は温泉自体のものではなく、泉源が谷底にある為、周辺からの漏水が集まる為であるとし、有馬の当時の有力者兵衛元式等に”浚泉(泉源の底を浚い、深くする事。)”などの泉源改修の必要性を説きました。兵衛元式はこれに共鳴しましたが、大多数の町民はそんなに危機意識をもっていなかったので、龍州を大坂から招き町民を前に彼の『温泉論』や現状の有馬温泉の危機的状況を熱弁してもらったそうです。
この時、龍州が最後に述べた『泉気交変解』という論は私版現代語訳ですがおおよそ次のようでした。
「温泉を成立させている火のエネルギーと水のエネルギーの関係性により有馬では360年毎に地震が起こっている。もしその時期でもないのに温泉の温度に大きな変化(下がっている)があったとすれば何らかの外的障害により火のエネルギーと水のエネルギーが遊離しバランスを崩しているに違いない。思うに、今日の有馬は人家が多すぎて陽光が地に降り注がず地気の発散する余地もない。このままでは、地震、山崩れ、温泉閉塞、泥土噴出、果ては土地の大爆発、山も川も破壊され全村壊滅するような事も無いとは言えない。一日も早く予防の方策(泉源の浚泉)を講ずる必要がある!」
殆ど脅しです!
当時は、まだ陰陽学の影響もあり、現代科学から見るとかなり『トンデモ』な理屈ですが、半分は、どうも煮え切らない町民に何としても泉源改修に踏み切らせる為の龍州のハッタリのような気もします。偉い先生の迫力ある熱弁に、さすがに皆が肝をつぶし一挙に泉源改修を決議しました。(因みに”温泉教授”松田忠徳教授の『江戸の温泉学』2007年5月25日発行 では、講演の9年後にやっと浚泉工事に着手したとされています。)しかも、その後、その通りに改修工事を実施すると、物の見事に本来の有馬温泉の湯温、湧出量に戻ったそうです。結果オーライなところがすごいではないですか。
いわば江戸時代における有馬温泉の救世主ともいえる有難い先生なのです。
他にも「金華五石泉方」という人工温泉を考案したりもしました。材料費が高く庶民の手に届くものではなかったそうですが、医学者宇津木昆台も「其の功、有馬温泉と同じく、其精密なること至らざる所なし」と絶賛していますから、かなりのアイデアマンだったようです。
さて、その龍州が「子宝の湯」として評判の良い有馬温泉を、さらに効果的なものにする為に考案したある器具。下がその挿絵です。



温泉論 壺盧の図 温泉論 龍筩の図 温泉論 宮口の図
(いずれも「有馬温泉史話」の挿絵)
どうです?何となく想像がつきますでしょうか。
どうやら龍州の考案した「龍筩」(筩=筒)又の名「蕣注」(蕣=あさがお)とは要するに、膣洗浄器であると共に、温泉を子宮内に流入させ、より直接的に暖める為の挿入道具のようです。温泉が勢い良く湯船の底から湧き出ていたという当時の有馬温泉の元湯の特徴を利用したもので、噴出した金泉を受け止め局部に注入する為に考案された物らしのです。名前はその形状の故です。サイズは個々人に合せる為、大蕣(あさがお)、中蕣、小蕣と3タイプ。これを装着して、一廻り(1週間)湯治する訳です。子宮内が洗浄され、粘液などで子宮頸管が閉塞している場合これを取り除き通りを良くし、受精しやすい状態にする事や、子宮を暖める事で新陳代謝を促進する事など、西洋医学的見地から見ても「たしかにある程度までは合理的のものといひ得るのである。」と、小澤博士もその効果を認めています。
さらに『有馬温泉史話』には龍州の「龍筩」がどのような思考錯誤の末出来上がったのかが、細かく紹介されています。面白いので紹介しますと、
初めは竹筒を使い半分を縦に割り数十本の脚に裂き広げ、内側は麻糸で編み外側には昆布(!)を巻き、漏斗形(あさがおの花状)にした試作品を作り、効果をテストしたそうです。
第2弾は浪花のギヤマン(ガラス)工に注文し、工芸品的には大変艶やかで味があったといいます。
然しながら有馬温泉は底に石が敷いてあり、当たって割れやすいガラスでは、取扱いに注意を要する為、ボツ。龍州はこの美しい龍筩を何と有馬の阿弥陀坊の住持の泰眠和尚にプレゼントしたそうです。
第3弾は銅匠に頼んで銅版で作らせたが、器具としては堅牢だが物に当たるとカラカラと音がするので同浴(当時はもちろん男女混浴)の人々の注意を引いて具合が悪かったのと、有馬の湯の作用でたちまち変色し錆びやすいという欠点があり、ボツ。これは、有馬の旅館の女将に試してもらったそうです。
その他、スズなどの金属や、牙角類にも皆一長一短があった…。
そして都合の良いサイズの瓢箪を横に切り取り、うるし仕上げしたところ、膣口への接触も剛柔相合ってはなはだ調子良く、ついに極めて優秀で軽い物が出来上がったのだとか。
現代人の我々なら、ちょっと考えれば解ってしまう様な試行錯誤を真剣にしていた様がほほえましくもあります。それに、試作品をお寺のお坊さんにプレゼントしたり旅館の女将に試してもらうなんて!しかも龍州は、完成した瓢箪の「龍筩」のすばらしさを自画自賛する事を忘れません。自著『温泉論』で、「凡ての婦人病を治しあるひは妊娠を欲するならば、自分の考案した龍筩を使用するに限る、これが最上の方法であって、もしこの器具を用ふるならば百発百中必ず成功する。十数年来の婦人病があっと言う間に治り、妊娠の喜びが得られる」などと自信満々に書いています。しかも「これにいろいろの蒔絵を描き金粉を施すと大変美麗である。」と、工芸品としての美しさまで考えているセンスには脱帽です。『有馬温泉史話』の中で小澤博士も「いかにも手軽に調子良く片付けている。」「いかにも都合よく解釈してゐたものらしい。」と面白がっているようなところもあります。先の有馬町民の前での熱弁といい、龍州先生、かなりイケテマス。
因みに小澤清躬博士が、「有馬温泉史話」の中で餘事ながらと前置きして「子宝の湯」として紹介している温泉を原文のまま次に紹介しておきます。
「静岡の吉奈及び船原(芒硝性苦味泉)、群馬の伊香保(土類含有弱石膏性苦味泉)、兵庫の有馬、新潟の栃尾又(単純泉)、 熱塩(土類含有弱食塩泉)泉)山形の五色(アルカリ泉)、 新五色(単純泉)等である。即ちこれらを通覧するに温泉学的にいへば食塩泉が尤も多く苦味泉これに次ぎ、その他少数の単純泉、炭酸泉、アルカリ泉等であることも注目すべき事である。」
只、龍州の考案した瓢箪では生産の歩留まり(効率)が悪くしかも耐久性に乏しいため、後に近在の木地師に木の挽物細工に漆塗りしたものを製作させるようになった事が医学者宇津木昆台「温泉辨」に書かれています。
『有馬温泉史話』によると、明治3年難波の座禅庵なる人の日記『有馬見屋家』に
「かくし上戸、婦人子なきものは其の坊へたずぬべし、図(下図)の如くの上戸なり、陰門へさし入れ湯花を小つぼ(子壺にて子宮の意ならん)へうけいれてよろし、之も湯女にたづぬべし、」と記してあったそうで、明治に入ってもこの器具は健在であった事が解ります。
『有馬見屋家』の図(下図)では木の挽物細工になっています。

有馬見屋家」かくし上戸(「有馬温泉史話」の挿絵)
又、昔、湯女が酒席で唄った『有馬ぶし』の中でも「有馬名物大きな筆をぶらぶらと、子種をば祈る薬師の湯壷にてまたぐら広げふくふくと湯花のあたる心地よさ、かくし上戸は幕の内、子壺へ入れ玉ふ。」と詠まれており、有馬では「かくし上戸」という名前が一般的に通っていた事が解ります。さらに、昭和13年発行の「有馬温泉史話」編纂当時生存していた老湯女の話では明治15,16年頃までは各湯戸ではみな「かくし上戸」を用意して、婦人客の求めに応じて貸し出されたとのこと。 つまり柘植彰常(龍州)の発明した「龍筩」は「かくし上戸」の名前で少なくとも明治中期までは残っていた訳です。
そんな、『龍筩』もしくは『かくし上戸』、実は私も現物を見た事がありません。
古くからの旅館なら蔵にでも眠っているに違いありませんが…物が物なだけに表に出しにくいのでしょうか。木製だけにお風呂を炊く時にでも焼かれてしまったのでしょうか。どこかの旅館で資料展示されているという話も聞きません。湯治客向けに売っていたお土産物屋さんまであったそうなのですが。
小澤博士ですら『有馬温泉史話』の中で「とにかく私はこの『龍筩』もしくは『かくし上戸』に太だ興味を感じたので、有馬において百万これを索ねてみたが終に見當らぬ。」と書いています。
明治15、16年頃まではお客に貸し出されていたらしいのに、昭和初期の時点で、小澤博士が探しまわっても既にどこにも見当たらないとはどうした事でしょう。
ところ変わって、同じく「子宝の湯」として有名な群馬県の伊香保温泉では、明治時代の帝室侍医頭の樫村正徳医学博士が考案したという「子宮洗い器(こつぼあらいき)」が現存し、レプリカが「温泉資料館」に展示してあるそうです。こちらも「子宝」を目的としたもので、形状は指サックの大きい版の様な形でやや真ん中辺がプクツと膨れた様な形で、全体に穴がポコポコと開いています。素材は桜の木をくり貫いたものとか。嘗てはお土産としても売られていたそうですが、子供の笛と間違って買って行ったお客もあるという笑い話もあるそうです。東西広しと云えども同じような湯治場に、形は違えど同じような歴史があるのだなあと思います。
有馬にも残っていたらなあ…と、思っているところにやって来られたのは、普段からいろいろとご教授いただいている郷土史に詳しい藤井清氏。「かくし上戸」の話をすると、「写真やったらあるで」との有難いお言葉!
果たして数日後持って来られたのは昭和40年(1965年)有馬温泉観光協会発行の『ワンダフル・ありま』という定価200円也の有馬温泉ガイドブック。(現在の目で見ると大変面白く、改めて紹介したいと思います。)昭和40年といえばあの東京オリンピックの翌年。有馬では「旅館案内所」が出来た年です。
「秘蔵拝見」と名打たれたページに奥の坊所蔵「温泉子宝漏斗」と2点の写真入りで紹介されていました。写っている2点とも『有馬見屋家』で紹介されている挽物細工の物とも形が異なります。どちらも漆仕上されているようで艶があり、指サックの大きい版のような形に穴がいくつも開いていてます。一方は穴が縦に並んだ状態でポコポコと開いています。良く見るとサイド面に細長いスリットのような縦穴もありますが、見る角度によっては笛と間違えそうです。もう一方のは細長い縦穴が六方(恐らく)に開いています。もしこれらが最終形とすると龍州の考案した物が1世紀近い年月分のバージョンアップの積み重ねでこのような形になったのかもしれません。製作者によるモデルチェンジや同じ時期にもいろんなバージョンがあったのかもしれません。形の共通性から見ると伊香保温泉の物との繋がりを感じさせるような気もしますが、或いは機能を追い求めた末、共通性のあるフォルムに落ち着いたという事なのかも知れません。奥の坊さんは代々お医者様をされておられた家系という事で今に残っているそうです。女将にも確認させていただいたところ、今でも家宝として所蔵しておられるとの事。現在ウエブサイト等でもあえて写真公開はしておられませんので、当サイトでも写真は控えさせていただく事にします。とにかく実物が残っていて良かったです!小澤博士も奥の坊さんに聞けば良かったのに…或いは文献に登場している古い形の物を探しておられたのかもしれませんが。
先日、元湯龍泉閣の逸郎社長が司馬遼太郎短編全集の中に『妬の湯』(うわなりのゆ)という短編小説があり、有馬温泉の事が書かれていて面白いからと本を貸してくれました。短編とはいえども、有馬温泉の古い町並みの描写が、まるで見てきたかの様に描かれていて、しかもかなり考証されているところがすごいのですが、この小説の中でキーグッズとして描かれているのが、何と「かくし上戸」なのです。登場人物の女性が温泉に浸かりながら使用する場面もあります。又「有馬温泉史話」を参考にしたと思われるようなエピソードも描かれていて面白かったです。ご興味のあられる方は是非読んでみてください。
今回は、資料を読み進むうちに、「子宝の湯」としてのうんちくもさる事ながら、江戸時代に柘植龍州という有馬温泉の大変な恩人がいて、深く知る程に魅力的な人物だったのだという事も知ることができ、私にとってはとても大きな収穫となりました。今も「金の湯」の前に立っている「日本第一神霊泉」の碑には「柘植龍州の温泉論を読むべし」の意の漢文が刻まれています。
子宝を求めておられる方も、そうでない方も、こんなエピソードいっぱい、効能たっぷりの有馬温泉のお湯で、ゆったりと身体を暖められてはいかがですか。
参考文献:『有馬温泉史話』(小澤清躬著 昭和13年10月16日発行)
『江戸の温泉学』(松田忠徳著 2007年5月25日発行)

カラスが現在の様に、「ずる賢い」とか「不吉!」とか「烏合の衆」などと喩えられたり忌み嫌われるようになったのは、実は江戸時代くらいからだそうで、それまでは、「賢い」とか「山の神の使い」とか言われて大切にされていたそうです。なまじ知恵があるのと(遊んだり物まねをしたり道具を利用したり出来ることから、最も知能の発達した鳥類と言われています。)見かけが悪いばかりに実にかわいそうな鳥です。今回はそんなカラスと有馬温泉のとても深い関係を考察してみたいと思います。
一般に「ある方面、或いは、門下や部下の中の優れた三人」の事を「三羽ガラス」と言います。カラスは賢い鳥だからかもしれませんが、それだけでは何でカラスなのかスッキリしません。その語源のひとつと言われているのが有馬の古い伝説に登場する「三羽ガラス」で、文字どおり鳥のカラスです。因みにこれは有馬温泉の鎮守であり、温泉寺の守り神でもある湯泉神社に伝わるお話です。

湯泉神社


湯泉神社に最も古くから祭られている神様である大己貴命(=大国主命)・少彦名命の二神が、足を痛めた三羽のカラスが水溜りで足を浸して休んでいるのを見て有馬温泉を発見したというものです。動物が発見したとか、神様が発見したとされる温泉は数え切れないくらいありますが、カラスは珍しいです。(というか一般的に知られている温泉では他にはありません。)しかも「カラスが温泉で傷を癒すのを神様が見て発見した」なんて、一つのストーリーの中で動物と神様が絡んでくるところなど、他にはありません。(そんなところ突っ込み所じゃないって言われそうですがココが私の突っ込み所!)
実はこの「三羽ガラス」の伝説、文献としては、「古くからの言い伝え」として江戸時代頃の湯泉神社の文書に初めて登場するらしいのです。いつどんな意図でそういうお話ができたのでしょう。何で「カラス」で、何で「三羽」なんでしょう。「カラス」といえば日本サッカー協会のシンボルマークにも採用されている熊野三山の「ヤタガラス(八咫烏)」が有名ですが、こちらのカラスは同じ三でも三本足です。有馬温泉の「三羽ガラス」とは「カラス」と「三」が共通していて何か関係がありそうなので、ちょっと調べてみました。
熊野三所権現〈「権現」は、奈良時代以降の神仏習合思想で仏が民の救済の為、神の姿になって現れたとするもの。熊野信仰は平安時代以降世に広まり院制時代には上皇・法皇・貴族・権勢家の参拝が後を絶たず「蟻の熊野詣」と呼ばれた。〉=熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社)においてカラスは神の使いとして信仰されており、八咫烏は単なるカラスではなく太陽神の象徴と考えられています。熊野神社等から出す護符、牛王宝印(ごおうほういん)は、近世には起請(神仏に対する誓い)文を起こす用紙ともされましたが、これを使った起請を破ると、熊野ではカラスが三羽死に、その人には天罰が下るといわれているそうです。


牛王宝印の烏文字の一部 熊野本宮大社のヤタガラス

日本サッカー協会のマーク
話の中で八咫烏は神武東征の際、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされています。昔から、足が三本あると云われていますが、日本書記には頭が八咫(約144cm!)の烏、古事記には「大烏」と記されており、どちらにも三本足との記述は無く、後に伝わった中国の伝説に登場する三本足のカラスと一緒になっていつの頃からか脚が三本であることになったと考えられています。(大国主命と大黒天が習合した様な具合かも。)
古来、中国では、太陽の中に三本足のカラスが住むと考えられ、また、太陽はカラスによって空を運ばれるとも考えられていました。太陽黒点が烏に見えたからとする説もあります。因みに烏龍茶の烏は太陽、龍は皇帝の象徴だそうです。太陽の象徴であるカラスの足を三本足とするのは、陰陽五行思想上、二本足だと陰数(偶数)であり表象にずれが生じるので、陽数(奇数)である三本とされました。この三本足のカラスが日本に伝わり、日本でも同じく、太陽の象徴とされたといわれているわけです。
ヤタガラスの三本足は、後に熊野大社の主祭神家津美御子大神の御神徳の「智」「仁」「勇」、又は「天」「地」「人」、或は、同地方で勢力を張っていた熊野三党、などなど後にいろいろな意味を重ねていますが、まずは熊野三山をさしているのではないでしょうか。
調べてみると、この熊野、実は有馬温泉とは深い関係があったのです。有馬温泉に伝わる古い伝説では、「鎌倉時代(建久元年1191年)に熊野権現の霊夢によって有馬に導かれた吉野郡川上村高原の寺の僧仁西上人が、高原に落延びた平家の残党を祖とする木地師を従えやって来て、天変地異で荒廃していた有馬を再興し、薬師十二神将を象徴して十二坊の宿坊を営ませた」と云われ、仁西上人は有馬温泉を再興した恩人のひとりとされ尊ばれています。又、有馬の湯泉神社は、平安時代初期927年の「延喜式」の中には「大社」のひとつに数えられており、当初祭神は大己貴命、少彦名命の二神でしたが、いつからかは不明ながら、治承年間(1177~1180)の「色葉字類抄」にはすでに湯泉神社の熊野権現(熊野久須美命)合祀の記述があります。平安時代末期の院政時代には、熱狂的な熊野信仰者であった白川法王の有馬温泉入湯(大治三年1126年)、後白河上皇の入湯(安元二年1175年)なども記録されています。
元々、六甲山系は、奈良時代に興り、平安時代に隆盛を極めた神仏習合の山岳宗教「修験道」の修行場の一つであったともいわれ、恐らく、熊野勧進僧、熊野修験者など布教者も、さかんに熊野合祀社、湯泉神社のある有馬を訪れていたであろうと思われます。「愛宕山」「天狗岩」「鼓ケ滝」「晴明地藏(因みに平安時代の陰陽師安倍晴明も熊野で修行している。)」など有馬の随所に「修験道」絡みと思われる痕跡が多いのがそれを物語っています。(当トピックス「有馬と風水」でもご紹介しました。


湯泉神社の重要文化財「熊野曼荼羅図」 温泉寺の傍にある行基上人像と三羽烏像
(有馬の名宝ー蘇生と遊興の文化ー 神戸市立博物館編より)

湯治とは縁が深い薬師如来をご本尊とする温泉寺

温泉寺天井画のヤタガラス
又、現在、湯泉神社には、国の重要文化財指定の「熊野曼荼羅図」(神社なのに仏教的!)が所蔵されています。(写真) 又、湯泉神社とはある意実一心同体ともいえる、仁西上人が再興したとされる温泉寺の天井画には、三本足の「ヤタガラス」そのものが、描かれているのです(お寺なのに神道的!)。(写真) そんな訳で、有馬と熊野の間には、宗教的な面で、仁西上人の再興以前、以後とも深い関係が存在したのです。
そういった歴史的な背景を考えると「有馬温泉を発見した知恵の在る三羽のカラス」のモデルはひょっとしたら「熊野修験者」だったのかも知れません。そういえば良く知られている「烏天狗」も修験者の格好をしていますし!いや、もっと突き詰めるならば「熊野権現」そのものの象徴だったのではないでしょうか。熊野の象徴であるカラスが、三本足から、三羽へ形を変えて有馬温泉にやってきた可能性は充分あるハズです。
「しかし、伝説の中で、温泉で傷を癒す三羽のカラスを発見したのは、熊野久須美命の合祀以前に古くからお祭りしていた大己貴命、少彦名命の二神だから、熊野由来のカラスが登場する訳はないよ。」って言われそうですね。でも伝説が新しく作られたものであるとすれば、どうでしょう。もし熊野のカラスが有馬に来た、つまり有馬の三羽ガラスが熊野信仰の影響であるとするなら、この「三羽ガラスの伝説」は湯泉神社の熊野久須美命合祀前後、或いは以後に造られたお話で、温泉を使って傷を癒す「知恵の在る三羽のカラス」は実は「熊野権現」そのものの象徴でありその発見者をあえて歴史の古い祭神である大己貴命・小彦名命の二神としてあったのは、カラスを象徴とする熊野権現の合祀の必然性を暗示させる為に考え出されたお話であったという風にも考えられるのではないでしょうか。三本足から三羽になったのは、きっと三本足だと、そのまんま なので、暗示にならないと思ったからかもしれません!?
熊野でヤタガラスの三本足に「熊野三山」などいろんな意味を重ねた様に、有馬では三羽ガラスにどんな意味を重ねたのでしょうか。古書では湯泉神社を「三社権現(熊野権現を含めて三社の意)」、「三輪明神」とも記しており、その事も意味していたでしょうが、さらに昔から「有馬三山」と呼ばれている三つの山の事であったかも知れません。有馬温泉を取り囲む湯槽谷山(標高801m)、灰方山(標高619m)、落葉山(標高526m)です。湯槽谷山は行基上人がその山の木で湯槽を作る為の木材を切り出した事が、その名の謂れ。落葉山は仁西上人に薬師如来さまが一枚の木の葉を投げて源泉を指し示されたとの謂れから付いた名前です。 或いはもっと意味を広げ、山岳信仰においてカラスは山の神の使いであり、有馬温泉は有馬川沿いに開けた北以外の三方向(東、南、西)を山々に囲まれている事から、その「三方向」を三羽のカラスに当てたかもしれません。仏教思想や陰陽思想(今でいう「風水」)が根付いていた昔の人は、これら有馬三山、或いは有馬温泉を三方向から取り巻く山々が有馬温泉を脅威から守っていると考えたかも知れません。
六甲山の北麓に立地し北に面していた有馬温泉にとって、東、南、西の三方向は山に囲まれ、つまり三羽のカラスに守護されており、唯一、陰陽上脅威に晒されるであろう方角は北だったのです。そこで登場させた秘密兵器が、北方の鎮め神「玄武」=カメだったというわけです。改めて湯泉神社の屋根の彫刻をご覧になってみてください。カラスとカメの有馬温泉にとっての関係性が何となく理解できそうに思えませんか。(有馬温泉とカメの深い関係は前々回のトピックスでご紹介した通り。
三羽のカラスやカメ達は有馬温泉を脅威から守っている訳です。喩えは変かもしれませんが、安倍晴明における式神、或いはウルトラセブンにおける眷属ミクラス、ウインダムのような役割なのかも知れません!

屋根の彫刻:手前にカメ、奥に三羽烏(=有馬を三方向から取り囲む山並か?)
以上は、おこがましくも私、吉高屋店主吉田の素人解釈であることをお断りしておきます。もし不備な点や間違い等お気付きの点があれば、メール等にてご指摘いただければ幸いです。
参考文献: 藤井 清 氏 提供歴史資料
(長濃丈夫氏「有馬温泉の坊名の起源について」他)
今回ご紹介するのは、有馬温泉と弊店のトレードマークのモチーフでもある「カメ」との意外と深い関係です。少々小難しいお話にどうぞお付き合いを。
■ 当店のトレードマーク「カメ印」は『有馬温泉原薬カメ印湯の花』の商標として、有馬温泉の鎮守「湯泉神社」のご紋(厳密には裏紋)である亀に肖って明治時代にデザインしたものです。つい先日、神社に行ってみました。屋根飾り(拝殿唐破風、かえるまた等)に亀の力強い彫刻が、幕にも昇り亀のご紋がありました。お社の向かって右側には弊店が明治時代にご奉納した大黒様の石像が鎮座していました。台座には「カメ印」と「元祖湯の花」」「吉田」「温泉堂」と刻印されています。(「温泉堂」は、吉高屋が「湯の花」を販売するために創った屋号です。)
因みに、弊店の屋号「吉高屋」は判る範囲で江戸時代末期には既に在り、「吉高」は「キッコウ」とも読め「亀甲」に通じますし、一般に「吉田」姓は古くは亀卜(キボク:亀の腹甲を焼いて出来る割れ目を見て吉凶を占う事。)に繋がっているようなので関連が無いのかどうか興味深いです。 面白いのは、私ども吉高屋(吉田家)のお墓が、亀に見立てたと伝わるずんぐりした自然石を使用している事で、少なくとも有馬の墓地統合があった明治9年には在り、「カメ印湯の花」発売の明治26年のはるか以前から「亀」にこだわっていた事になります。ルーツ探しは店主個人的にとても興味深いテーマで、六甲山上にある「吉高神社」も関係ありそうですが解りません。手掛かりをご存知の方居られましたらお教え下さい。)
吉高屋の亀


湯の花ラベル 封筒の印刷 明治時代の看板 使用していたロゴの一つ天使がいます。
湯泉神社の亀

湯泉神社 右端に当店奉納の大黒様が。 屋根の飾りにも亀。とても威圧的でかっこいいです。

明治時代に当店主が奉納した大黒様。 台座に「亀印」「元祖湯の花」「吉田」「温泉堂」とある。

幕の「のぼり亀」
■ では何故、湯泉神社のご紋が亀なのか、その起源は年代も含め文献が存在せず不明です。いつもご教授頂いている郷土史研究家の藤井清氏の推測の一つは、元々湯泉神社は薬師堂(温泉寺)の守り神でもあり、お社が地理的な制約から寺に向かって右、愛宕山斜面に、風水的には忌み嫌われる北向きに建てられており、中国の四神思想の影響を受け、今で言う風水的見地から鎮めの神として北の守り神「玄武」(亀)を奉ったのではないだろうかと言うもの。
奈良時代、有名な行基菩薩が有馬に来て温泉を開き有馬温泉の発展の基礎が作られたのが神亀元年(724)といわれていますから、それも関係が在るかも知れません。そうすると何故年号に「亀」が入っているのでしょうか。
もともと古代中国では、とても寿命が長く、毎年、冬眠から覚めて再生する姿を見て、不死の生命力、未来予知の霊力を持つ物と考えたようです。亀卜は中国で新石器時代の亀山文化期に始まり、殷王朝の時代に広まったそうです。 日本にも、古墳時代後期に亀卜が伝わり、飛鳥時代には霊力のある亀を崇める考えが一般化したようです。平成12年に奈良明日香村で発掘された酒船石遺跡(飛鳥時代)の「亀石」などにもそれが覗えます。(四神思想の「玄武」説や神仙思想における「大亀」の説があります。)
奈良時代の「神亀」や「霊亀」「宝亀」、室町時代の「元亀」といった年号は、霊力を持った亀が天皇に献上されたときに改元されたらしいです。
■ 湯泉神社に隣接する愛宕山には豊公(豊臣秀吉)が茶の湯を楽しんだと言われる「遊楽館」の跡があります。豊公遺愛の物と伝えられている真ん中が鉢状にくり貫かれている亀の形をした岩が在り、『亀の手洗い鉢』と呼ばれていますが、加工された時代は不明です。付近にも同じような安山岩の岩が散見されるので、愛宕山頂上付近の天狗岩と同じく、火山であった愛宕山に有史以来あった岩を後に、穴をくり貫いた物ではないでしょうか。それはひょっとすると、秀吉以前に遡るかも知れません。「亀の御紋」を持つ湯泉神社の昔の場所の裏手になるので湯泉神社と関係のある物でしょうか。
愛宕山:豊公遺愛の『亀の手洗い鉢』
愛宕山の豊公遺愛と伝えられる「亀の手洗い鉢」 奈良明日香村の亀石(12,2,23読売新聞より)

昔の絵図と松の木が生えていた頃の写真。公会堂(大正15年に旧本温泉を解体し愛宕山に移築した物。)の傍らにあった。

「亀の手洗い鉢」の今。梅林の片隅にひっそりとある。説明看板もありません。自然の岩に穴を開けただけで、どう見ても何処が頭で何処が尻尾か良く分かりません、何故「亀の手洗い鉢」とネーミングされているのでしょう。亀に似ているかどうかより、そこに興味が湧きます。
付近に同様の岩群がありました。右下写真は、山上の「天狗岩」。いずれも安山岩の岩石群です。
愛宕山が、火山だった証です。
■ 有馬の西側にそびえる落葉山の頂上に妙見寺が在ります。元古城の跡に大正9年に建立されたもので、廃寺になっていた日蓮宗の金剛寺(今の有馬ロイヤルホテル奥側の場所)の本尊が移されています。ご本尊である北極星(北辰)を神格化した妙見菩薩は北方の守り神である玄武(亀)や蛇を眷属としているので、信者から奉納された海亀の剥製がお堂に奉ってあります。
落葉山上妙見寺。お堂に最大の海亀であるオサガメの剥製が奉ってある。古い信者によるご奉納物。かなりの迫力。亀の写真はお堂の格子の隙間からのショット。バチは当たりませんよネ??
真夏に山上まで登るのは、正直かなりキツかったです。
■ 落葉山の北の麓、旧神戸街道(今のねぎや陵風閣さんの下の道)の下に懸かっている水の少ない滝を昔から『亀の尾の滝』と呼んでいます。現在は傍に「亀の尾不動尊」が祭られています。幾筋もの水の滴る様を、絵に描かれた「亀の尾」に見立てているのでしょうか。滝の傍らの岩肌に「暁桜」と彫られており、享保11年(1726)藤堂高豊が刻ませたと言われています。滝の下には幅1m程の謎の横穴の洞穴があります。自然の物か誰かが彫ったのか、どこかに通じているのか、文献にも無く全然解りません。滝が亀の尾っぽなら洞窟はさしずめお尻の穴、或いは産道でしょうか。
亀の尾の滝

『亀の尾の滝』とみごとな「岩タバコ」の群生。 巨石の上に不動尊のお社がある。

傍の岩肌に「暁桜」の大文字。 滝下には謎の洞窟が! ゆけむり坂より。
江戸時代の有馬山絵図に亀発見!?
■ 下の図は江戸時代、宝永7年(1710)に描かれた有馬では有名な「有馬山絵図」です。下がオリジナル。
次の図は参考までに藤井清氏の現代語訳を入れてみました。

宝永7年(1710) 有馬山絵図(神戸市立中央図書館蔵) 町名を解り易く入れてみました。(現代語訳は郷土史研究家藤井清氏)
じっくり見てみて下さい。じっと見ていたら大きな亀が浮き出て来ませんか?…浮き出てこない圧倒的大多数の方の為に無理やり亀を書き入れちゃったのが下の図です。

何となくこんな風に亀に見えてきませんか?
亀の眼の部分なんか、まるで眼を描きいれてくれとばかりに丸い形に空白があります。とてもよく出来ていると思うのは、何と亀のお尻の辺りの地名はその名も「かめのを(亀の尾)」!先ほど紹介した「亀の尾の滝」が在ります。他にも陰陽道の影響を示唆するかのように東のはずれには有名な平安時代の陰陽師安倍晴明の名を冠したその名も「晴明地蔵」が記載されているではありませんか!

左 「かめのを」 右 晴明地蔵
まさか絵図の作者が意図したとは思えませんが、滝川と六甲川に囲まれた有馬の街全体が何となく亀に見えてくるところが不思議です。真北にお尻と尾っぽ、おまけにお尻の穴まで向けて(亀の尾の滝)、頭を真南に向けています。愛宕山は大亀の背中に乗った小亀に見えます。
湯泉神社の亀とは対照的に、ちょっとオマヌケなところが吉高屋の亀にも似ていてキュートじゃないですか!
古代の中国やインドの神話には共通して、大地或いは世界を支える大亀が出てきます。有馬の街も大亀に支えられているのかもしれませんね。
■ 有馬温泉が山に守られ、風水的にほぼ理想的な所謂「蔵風徳水」の地であることは、既に当コラム『有馬と風水』でも紹介しました。唯一、街自体が六甲山を背に「北向き」である事を除いて!…と言う事は、有馬の鎮守である湯泉神社に北方の守り神、玄武(亀)をあしらうのは、お社が北向きである事のみならず、実は有馬全体を風水(陰陽)上の難から回避させようとの意図があったからではないでしょうか。絵図の亀に関しては私のこじつけであるにしても、亀にまつわる物がいろいろあるのも何となく頷けるような気がします。湯泉神社の屋根飾りの鬼気迫る亀の形相ににただならぬものを感じたのは、そういう事だったのかと、ひとり納得するのでした。

■ 当店のトレードマーク「カメ印」は『有馬温泉原薬カメ印湯の花』の商標として、有馬温泉の鎮守「湯泉神社」のご紋(厳密には裏紋)である亀に肖って明治時代にデザインしたものです。つい先日、神社に行ってみました。屋根飾り(拝殿唐破風、かえるまた等)に亀の力強い彫刻が、幕にも昇り亀のご紋がありました。お社の向かって右側には弊店が明治時代にご奉納した大黒様の石像が鎮座していました。台座には「カメ印」と「元祖湯の花」」「吉田」「温泉堂」と刻印されています。(「温泉堂」は、吉高屋が「湯の花」を販売するために創った屋号です。)
因みに、弊店の屋号「吉高屋」は判る範囲で江戸時代末期には既に在り、「吉高」は「キッコウ」とも読め「亀甲」に通じますし、一般に「吉田」姓は古くは亀卜(キボク:亀の腹甲を焼いて出来る割れ目を見て吉凶を占う事。)に繋がっているようなので関連が無いのかどうか興味深いです。 面白いのは、私ども吉高屋(吉田家)のお墓が、亀に見立てたと伝わるずんぐりした自然石を使用している事で、少なくとも有馬の墓地統合があった明治9年には在り、「カメ印湯の花」発売の明治26年のはるか以前から「亀」にこだわっていた事になります。ルーツ探しは店主個人的にとても興味深いテーマで、六甲山上にある「吉高神社」も関係ありそうですが解りません。手掛かりをご存知の方居られましたらお教え下さい。)
吉高屋の亀




湯の花ラベル 封筒の印刷 明治時代の看板 使用していたロゴの一つ天使がいます。
湯泉神社の亀


湯泉神社 右端に当店奉納の大黒様が。 屋根の飾りにも亀。とても威圧的でかっこいいです。


明治時代に当店主が奉納した大黒様。 台座に「亀印」「元祖湯の花」「吉田」「温泉堂」とある。

幕の「のぼり亀」
■ では何故、湯泉神社のご紋が亀なのか、その起源は年代も含め文献が存在せず不明です。いつもご教授頂いている郷土史研究家の藤井清氏の推測の一つは、元々湯泉神社は薬師堂(温泉寺)の守り神でもあり、お社が地理的な制約から寺に向かって右、愛宕山斜面に、風水的には忌み嫌われる北向きに建てられており、中国の四神思想の影響を受け、今で言う風水的見地から鎮めの神として北の守り神「玄武」(亀)を奉ったのではないだろうかと言うもの。
奈良時代、有名な行基菩薩が有馬に来て温泉を開き有馬温泉の発展の基礎が作られたのが神亀元年(724)といわれていますから、それも関係が在るかも知れません。そうすると何故年号に「亀」が入っているのでしょうか。
もともと古代中国では、とても寿命が長く、毎年、冬眠から覚めて再生する姿を見て、不死の生命力、未来予知の霊力を持つ物と考えたようです。亀卜は中国で新石器時代の亀山文化期に始まり、殷王朝の時代に広まったそうです。 日本にも、古墳時代後期に亀卜が伝わり、飛鳥時代には霊力のある亀を崇める考えが一般化したようです。平成12年に奈良明日香村で発掘された酒船石遺跡(飛鳥時代)の「亀石」などにもそれが覗えます。(四神思想の「玄武」説や神仙思想における「大亀」の説があります。)
奈良時代の「神亀」や「霊亀」「宝亀」、室町時代の「元亀」といった年号は、霊力を持った亀が天皇に献上されたときに改元されたらしいです。
■ 湯泉神社に隣接する愛宕山には豊公(豊臣秀吉)が茶の湯を楽しんだと言われる「遊楽館」の跡があります。豊公遺愛の物と伝えられている真ん中が鉢状にくり貫かれている亀の形をした岩が在り、『亀の手洗い鉢』と呼ばれていますが、加工された時代は不明です。付近にも同じような安山岩の岩が散見されるので、愛宕山頂上付近の天狗岩と同じく、火山であった愛宕山に有史以来あった岩を後に、穴をくり貫いた物ではないでしょうか。それはひょっとすると、秀吉以前に遡るかも知れません。「亀の御紋」を持つ湯泉神社の昔の場所の裏手になるので湯泉神社と関係のある物でしょうか。
愛宕山:豊公遺愛の『亀の手洗い鉢』


愛宕山の豊公遺愛と伝えられる「亀の手洗い鉢」 奈良明日香村の亀石(12,2,23読売新聞より)

昔の絵図と松の木が生えていた頃の写真。公会堂(大正15年に旧本温泉を解体し愛宕山に移築した物。)の傍らにあった。




「亀の手洗い鉢」の今。梅林の片隅にひっそりとある。説明看板もありません。自然の岩に穴を開けただけで、どう見ても何処が頭で何処が尻尾か良く分かりません、何故「亀の手洗い鉢」とネーミングされているのでしょう。亀に似ているかどうかより、そこに興味が湧きます。
付近に同様の岩群がありました。右下写真は、山上の「天狗岩」。いずれも安山岩の岩石群です。
愛宕山が、火山だった証です。
■ 有馬の西側にそびえる落葉山の頂上に妙見寺が在ります。元古城の跡に大正9年に建立されたもので、廃寺になっていた日蓮宗の金剛寺(今の有馬ロイヤルホテル奥側の場所)の本尊が移されています。ご本尊である北極星(北辰)を神格化した妙見菩薩は北方の守り神である玄武(亀)や蛇を眷属としているので、信者から奉納された海亀の剥製がお堂に奉ってあります。


落葉山上妙見寺。お堂に最大の海亀であるオサガメの剥製が奉ってある。古い信者によるご奉納物。かなりの迫力。亀の写真はお堂の格子の隙間からのショット。バチは当たりませんよネ??
真夏に山上まで登るのは、正直かなりキツかったです。
■ 落葉山の北の麓、旧神戸街道(今のねぎや陵風閣さんの下の道)の下に懸かっている水の少ない滝を昔から『亀の尾の滝』と呼んでいます。現在は傍に「亀の尾不動尊」が祭られています。幾筋もの水の滴る様を、絵に描かれた「亀の尾」に見立てているのでしょうか。滝の傍らの岩肌に「暁桜」と彫られており、享保11年(1726)藤堂高豊が刻ませたと言われています。滝の下には幅1m程の謎の横穴の洞穴があります。自然の物か誰かが彫ったのか、どこかに通じているのか、文献にも無く全然解りません。滝が亀の尾っぽなら洞窟はさしずめお尻の穴、或いは産道でしょうか。
亀の尾の滝


『亀の尾の滝』とみごとな「岩タバコ」の群生。 巨石の上に不動尊のお社がある。



傍の岩肌に「暁桜」の大文字。 滝下には謎の洞窟が! ゆけむり坂より。
江戸時代の有馬山絵図に亀発見!?
■ 下の図は江戸時代、宝永7年(1710)に描かれた有馬では有名な「有馬山絵図」です。下がオリジナル。

次の図は参考までに藤井清氏の現代語訳を入れてみました。

宝永7年(1710) 有馬山絵図(神戸市立中央図書館蔵) 町名を解り易く入れてみました。(現代語訳は郷土史研究家藤井清氏)
じっくり見てみて下さい。じっと見ていたら大きな亀が浮き出て来ませんか?…浮き出てこない圧倒的大多数の方の為に無理やり亀を書き入れちゃったのが下の図です。

何となくこんな風に亀に見えてきませんか?
亀の眼の部分なんか、まるで眼を描きいれてくれとばかりに丸い形に空白があります。とてもよく出来ていると思うのは、何と亀のお尻の辺りの地名はその名も「かめのを(亀の尾)」!先ほど紹介した「亀の尾の滝」が在ります。他にも陰陽道の影響を示唆するかのように東のはずれには有名な平安時代の陰陽師安倍晴明の名を冠したその名も「晴明地蔵」が記載されているではありませんか!


左 「かめのを」 右 晴明地蔵
まさか絵図の作者が意図したとは思えませんが、滝川と六甲川に囲まれた有馬の街全体が何となく亀に見えてくるところが不思議です。真北にお尻と尾っぽ、おまけにお尻の穴まで向けて(亀の尾の滝)、頭を真南に向けています。愛宕山は大亀の背中に乗った小亀に見えます。
湯泉神社の亀とは対照的に、ちょっとオマヌケなところが吉高屋の亀にも似ていてキュートじゃないですか!
古代の中国やインドの神話には共通して、大地或いは世界を支える大亀が出てきます。有馬の街も大亀に支えられているのかもしれませんね。
■ 有馬温泉が山に守られ、風水的にほぼ理想的な所謂「蔵風徳水」の地であることは、既に当コラム『有馬と風水』でも紹介しました。唯一、街自体が六甲山を背に「北向き」である事を除いて!…と言う事は、有馬の鎮守である湯泉神社に北方の守り神、玄武(亀)をあしらうのは、お社が北向きである事のみならず、実は有馬全体を風水(陰陽)上の難から回避させようとの意図があったからではないでしょうか。絵図の亀に関しては私のこじつけであるにしても、亀にまつわる物がいろいろあるのも何となく頷けるような気がします。湯泉神社の屋根飾りの鬼気迫る亀の形相ににただならぬものを感じたのは、そういう事だったのかと、ひとり納得するのでした。
