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有馬温泉は六甲山系の北斜面にあり、大まかではありますが東、南、西の三方向を山に囲まれた山間の街です。残る一方向の北には、三田(さんだ)盆地を挟んで遥かに北摂の山並が横たわっています。今回はその山々の中でも江戸時代の『有馬六景』(有馬湯泉神社所蔵)にも選ばれ、昔から『有馬富士』と呼ばれ親しまれてきた山について書きたいと思います。





鼓ケ滝松嵐 落葉山夕照 功地山秋月 温泉寺晩鐘 有明桜春望

『有馬六景手鑑』の『有馬富士雪』 (有馬湯泉神社所蔵、写真藤井清氏)
明和6年(1769年)有馬の観光活性化の為、有馬の役家である余田、河上氏らが予め六景を選定し見本の画巻を添え、京都の左大臣九条尚実邸を訪れ堂上公家の詩歌を得て神宝とすべく製作依頼したもの。絵は円満院門跡祐常前大僧正。明和7年(1770年)に完成し有馬三社の神前に奉納された。
有馬富士 ありまふじ<三田市>
角山(つのやま)ともいう。 三田市の北東部に位置し、花山院の西側に向かい合う山。標高373m。 周囲の山地から孤立し、有馬温泉付近からの遠望が富士山に似ているためにこの名がある(摂津名所図会)。 流紋岩の差別浸食の結果形成された。 残雪の景観は有馬六景にあげられ、秋には盆地特有の霧が発生し、雲海に浮かぶ島のように見える。 花山法皇の歌として『有馬ふじ麓の霧は海に似て波かと聞けば小野の松風』が伝えられている。 かつては山麓まで松林に覆われていたが、近年宅地化が進行している。(『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』より)

稲荷神社より雲海に浮かぶ有馬富士(昭和40年頃)花山院から見た有馬富士(いずれも藤井清氏撮影)
なるほど確かに三田盆地は霧が良く発生しますから、有馬温泉側から見ても、花山法皇のように有馬温泉とは反対側の花山院側から見ても霧に浮かび、その姿を富士に例えたという訳です。
ここで素朴な疑問が浮かびます。
「有馬温泉付近からの遠謀が富士山ににているためにこの名がある」とありますが、それならば有馬温泉で勝手に名付けている訳なのに山の位置する地元の三田でも「有馬富士」と呼ばれて愛されているのは何故でしょう?三田も旧有馬郡(ありまぐん)だからでしょうか。では何故、三田が郡の中心地だったのに「有馬郡」という名前なのでしょうか?またいつから「有馬郡」なのでしょうか。益々謎は深まるばかりでした。
先日、三田の郷土史研究家の高田義久氏が「三田本町史」(六甲タイムス紙)の「三田の地名の由来」の中で『奈良時代前期の大化元年(645)孝徳天皇と妃小足姫との間に有間皇子が生まれた。有間郡は有間皇子の所領で、今の五社に残る有間神社も皇子の旧跡ではないだろうか。』と書いておられるのを見つけ、成る程と頷いた次第です。尚、「ありま」に「有馬」の漢字が当てられるようになったのはアバウトですが平安時代頃からのようです。それまでは「有間」「在間」中には「蟻毛」「阿利萬」の表現もあるそうです(何でもアリ?)。〈以降の文中では有馬と表記します。〉
又、『三田の地名についてはこの地方が有間皇子の御田(みた)であったことに起因するが、有間皇子の菩薩を祀る金心寺のご本尊弥勒菩薩の体内から「当山一帯を松山の庄と号す。これを金心寺恩田・悲田・敬田の御田を以て三田と改む」とあったことより、これが三田の地名の起こりだとされている。』とお書きになっておられ、ついでに三田の地名のいわれまで理解できました。
ただ、三田を「みた」ではなく「さんだ」と発音するようになった契機には追加の説があり、作家としても有名で三田の歴史研究家でもある北康利氏は著作の中で次のように書かれています。
『誰か「さんだ」という地名を作り出した人物がいるはずである。これについては、後述する有馬則頼(1533―1602、有馬法印ともいう。)がその人物であるという説が有力である。有馬則頼はかつて淡河三津田(満田)城を居城としていたが、一旦遠州に移封され、関ヶ原の戦いの後、三田藩に入封した。そして自分の故地三津田(満田)と『みた』が紛らわしいことから三田(さんだ)と呼ばせるようにし、更に、紛らわしい深田と他の土地(三田)との間に土地境界線(榜示)を設けたのが榜示山だとされる。ひょっとしたら、深田を「ふかた」と読ませるようにしたのも則頼なのかもしれない。 すなわち、有馬則頼が積極的に地名として三田(さんだ)という表記と呼び方を定着させていった結果今に至っているというのである。地名の由来は兎角諸説あるものだが、「三田市史」もこの説を有力としており、私も支持するところである。』(『北摂三田の歴史』(六甲タイムス、2000,8)より)
私のここ暫く抱いていた疑問のナゾが解けた思いがしたので紹介させていただきました。かなり説得力のあるこれらの地名由来説に基づくと、三田(みた)が『さんだ』と呼ばれるようになった戦国時代よりも遥か昔、花山法皇が生きておられた平安時代よりも前から、この山は『ありまふじ』だった訳です。
では、地名や山の名前の由来ともなったと思われる『有間皇子』(ありまのみこ)とはどんな人なのでしょう。何故『有間』と名付けられたのでしょう。
有間皇子(舒明12年(640)~斉明4年(658)) は、大化の改新の時、中大兄皇子、中臣鎌足らによって立てられ即位した第36代孝徳天皇(596~654年)の皇子。母は阿倍倉梯麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)。『有間皇子』と名付けられたのは次のような経緯がある為だそうです。
「孝徳天皇が44歳で軽皇子時代、舒明天皇10年(638年)義兄の舒明天皇と一緒に有馬温泉に行き舒明天皇が帰京した後もしばらく滞在していたところ同行していた妃の小足媛が、懐妊。翌年の出産まで有馬に滞在し有間皇子の誕生に立ち会った。」(「ビジュアル日本の歴史№90デアゴスティーニ2005,11,1」より要約) これが本当なら「どれだけヒマやねん!」と突っ込みたくなりますね。
又、当時は、皇子に母方の氏族ゆかりの地名等をつける習慣があり、妃の小足媛の出身の阿部氏は有馬のある摂津地域を基盤とする有力豪族でしたから、それにならったものでもあるようです。
「釈日本紀」には、孝徳天皇が大化の改新から2年後の大化3(647)年にも10月11日から大晦日還幸までの82日間(!)、左大臣(阿部倉梯麿呂)・右大臣(蘇我石川麿呂)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があり、まさに孝徳天皇の有馬温泉好きも極まれりといった感がありますが、阿部氏との太いパイプの上に実現した事なのでしょう。(阿部氏は平安初期頃から安倍氏と名乗るようになり平安中期には陰陽師として安倍晴明が活躍します。)
しかし、唯一の皇子として溺愛されたであろう有間皇子は、やがて皇位継承をめぐる複雑な争いの中に巻き込まれて行きます。大化の改新を成功させた中臣鎌足と、斎明天皇(孝徳天皇の姉。654年孝徳天皇の崩御の後即位)の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)は、その権力を強化するために自らの政治路線を妨げるものを排除しようとしました。その一人に孝徳天皇のただ一人の皇子、有間皇子がいました。留守官であった蘇我赤兄は功をなして大化の改新で権力の座を奪われた蘇我氏の勢力を挽回する為か、機を見て皇子に謀反を仕向け、罠にはまった皇子を謀叛の罪で訴え出ます。囚われた有間皇子は、詮議を受ける為、斎明天皇と中大兄皇子親子の滞在する牟婁(白浜)の温泉に護送されます。その途中磐代(和歌山県南部町)で一夜を明かした時に詠んだ詩が万葉集に残されている有名な次の2首の歌です。
「家にあれば 笥に盛る飯を草まくら 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(家にいる時はちゃんとした器に盛っている食事を、思いがけない旅に出ている今は椎の葉に盛っている)
「磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む」
(磐代の浜松の枝を引き結んで、幸いにして無事でいられたら、またここへ戻って眺めよう)
その後、有間皇子は中大兄皇子の尋問を受けますが、「天と赤兄と知らむ、吾全ら解らず(天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない。)」と、述べ、その帰路、藤白坂(現和歌山県海南市)において謀反の罪で絞殺により処刑されました。「有間皇子の変」と呼ばれるこの事件はいろいろな謀略説があり真相は今尚謎に包まれています。
前述の三田金心寺の開祖定慧上人は藤原鎌足の長子ですが、実は小足媛が孝徳天皇の子を身篭ったまま、政略か何らかの理由で鎌足に嫁いで後に出来た子で、有間皇子の弟であるという説があります。そして唐で修行した後帰国し、兄有間皇子の菩提を弔う為に母小足媛の出所である阿部一族が支配していたこの地に金心寺を建てたといわれています。しかし唐から帰国してたった3ヶ月後に何者かに毒殺されたといいます。実に恐ろしい時代ですね。
花山院と花山法皇(安和元年(968年)~寛弘5年(1008年))について触れておきますと、冷泉天皇の第一皇子。第65代天皇。17歳で即位し花山天皇となりましたが藤原氏との政争に敗れ19歳で譲位、花山法皇となりました。熊野修行、西国観音堂巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間隠棲・仏道修行した地が東光山菩提寺、花山院で、現在、西国33所巡礼の番外霊場となっています。付近には法王を慕って11人の女官たちがかつて法王に寵愛深かった弘徽殿女御の遺骨を奉じて訪れ、女人禁制の花山院に踏み入れず尼となって住み着いたという「尼寺(にんじ)」、山中で修行する法皇に聞かせようと琴を奏でたという「琴弾坂」「琴弾峠」などが地名として残っており、十二尼妃の墓も現存します。僧籍にありながらも様々な女性関係があったり(もっとも当時のモラルは現代とは全く異なり一概には語れない)狂気と紙一重のような性格もあったようですが、芸術(和歌や建築、作庭、工芸絵画)にも秀でた才能を発揮しました。 『拾遺和歌集』(1005~1006に成立)は自らの手で編纂したとされています。また西国巡礼の再興者とされており有名な『補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬』で始まる西国三十三ケ所のすべてのご詠歌を詠まれたのは花山法皇で、お盆等で詠まれるご詠歌は後世に節が付けられたものです。熊野を通して陰陽師安倍晴明ともさまざまな関わりを持っており数多くの説話が残されています。
有間皇子と花山法皇には、時代こそ違え、その境遇に大変共通点があります。いずれも政略に巻き込まれて運命を狂わされた人です。どちらも19歳がターニングポイントです。片や19歳で処刑され人生を終え、片や同じ19歳で譲位、仏門に入り隠棲しながらも宗教・芸術面で大きな成果を残しました。花山法皇当時、有間皇子の説話はすでに古典として語られており、花山法皇自身も自身と有間皇子の境遇を重ね合わせていたでしょう。


摂津名所図会の有馬富士(寛政10年1798年成立。画像は大正8年発行の物)


有馬私雨 寛文12年(1672) 迎湯有馬名所鑑 延宝6年(1678)

有馬山温泉小鑑 貞享2年(1685) 有馬温泉古由来 享保2年(1717)
(図版資料提供 藤井清氏)
上の図版は有馬六景と同じく江戸時代の本の挿絵です。当時ですからもちろん木版です。
左上の『有馬私雨』のチョンマゲの人の頭に手をかざした「遠くを見る人」の定型ポーズや、画面上の斜線による強調(ちびまるこの額の線みたい)、枠の中に描くところ、文句のスペースをとっているところ、実物以上に大げさに強調する所まで含めて、手法的にはまさに現代のコミックのルーツですね。
それにしても、大げさというか、これらの図だけ見ていたら一体どんな大きな山だろうと思いませんか?これを見せられたらきっと有馬温泉に湯治に行って実物を拝みたくなるでしょうね。
さてその有馬富士なんですが、実は私(吉高屋店主の吉田49歳)は、つい最近まで大きな勘違いをしていました。何と、吉高屋から見える全然違う山を有馬富士と思い込んでいたのです。
(恥) 本当の有馬富士が解った今となってはバカみたいな事なんですが、有馬温泉の中では標高が低く、張り出す山並に遮られ視界の狭い場所である吉高屋からは実は有馬富士は全然見えないのです!私が49年間、ついこの間まで有馬富士と思い込んでいた山は…

実は大船山(653m)という山だったのです。上の写真が吉高屋から見える山並です。どう見ても一番高くて綺麗な大船山が『富士』に見えるでしょ?その左隣の山も綺麗な山ですがこれは羽束山(524m)です。昔は鹿舌山とも呼ばれていたそうです。どちらも古くから修験道の修行場としても知られた由緒ある山だそうです。では本当の有馬富士は何処に?何処から見れば有馬富士が見えるのでしょうか?吉高屋からは北東に200m程の高台に在る有馬小学校の屋上に行ってみました。下の写真はそこからの展望です。

全然眺めが違います。大船山と羽束山は解りますが、どれが有馬富士かさっぱり解りません。これだけ視界が広い訳ですからこの山並の何処かに有馬富士があるはずです。そこで郷土史に詳しい藤井清さんや登山のキャリア豊富でNPO法人有馬保勝会の副理事長でもある磯部道生さんにお伺いしたりしてやっと最近判明した訳です(遅)。山の名前を入れてみたのが下の写真です。

実は、有馬富士は兆楽さんの建つ山並の向う側にあったのです。私が有馬富士と思い込んでいた大船山からは、とんでもなく離れていました。少なくとも有馬小学校の屋上からだと山並の左端の方だし、しかも富士と言うわりには低い!正直何でこんな山が有馬六景として絵に描かれているの?と思いました。こんな勘違いは私だけ?と思い、有馬在住のいろんな方にそれとなく聞いてみたところやはりというか…、有馬富士の名前や、それが有名な山である事は皆知っているのですが、年配の方も含めて10人中9人くらいは、つまりほとんど誰も本当の有馬富士がどれかを知りません!自分だけでなくてちょっと安心しました。(安心してる場合では無い。) でも、その風景が江戸時代に有馬六景に選ばれる程、有馬温泉からの遠望が美しいはずなのに長年住んでいる人がほとんど知らないなんて実に不思議ですね。
有馬富士がどれかは解ったのですが、ただ、有馬小学校のように有馬の東側からだと、見えることは見えても全然富士に見えません!もっと富士らしく見える山が何個もあるんですから…
有馬六景というからには、それなりのポイントからそれらしく見えるはずです。こんどはそっちの事の方に興味が湧いてきたので、ある日、改めてカメラを持って街に出て、有馬の街の中で山並の見えそうなビューポイントを探してみました。

これは有馬小学校とは逆で有馬の中心街よりもやや西よりの場所。旅館やまとさんのある愛宕山北斜面の細い道からです。青く輝くように綺麗な北摂の山々。

上の写真のアップ。大船山、羽束山が綺麗です。北六甲台の街並みも良く見えています。左方向(西側)は三田クリーンセンターの白い煙突が、かろうじて見えていますが、残念ながら有馬富士は全く隠れています。

有馬温泉のほぼ中心に位置する有馬温泉の鎮守湯泉神社境内にやって来ました。今は鬱蒼とした杉に囲まれています。下の屋根は温泉寺です。遠くの山を良く見ると…

見える!先ほどの有馬小学校(有馬の東の方)からは、山並の左端にポツンとある小山にしか見えず、又、同じ愛宕山の北斜面でも少し西側に外れるだけで前の山が邪魔をして全く見えない『有馬富士』が、湯泉神社からならば良く見えます。しかも山並のド真ん中!さっきまで大意張りだった大船山や羽束山などのもっと大きい山は全く見えませんから、まさに『富士』の風格ではないですか!(後のもっと大きい壁のように見える山並は壁と考えてこの際無視してください。霧の掛かった時には見えないハズですし。)

さらにアップにです。後の大きな山は千丈寺山。右後ろの少し低い山は飯盛山。手前の低い山並の稜線がほぼ水平なので、三田盆地特有の霧が掛かる季節や時間には、まさに波に浮かぶ富士に見えそうですね。当然、後方の千丈寺山は遠いので霧で隠れてしまいます。想像してみてください。またシャッターチャンスに改めて撮影してみたいと思います。(左の白煙突は羽束山左の三田クリーンセンターの物とは異なります。)
ただ湯泉神社は明治17年(1884年)の遷宮以前には少し下った温泉寺の横にあり(下の絵図)、現在の場所は愛宕山の山中でした。江戸時代に有馬六景に選ばれたくらいですから、もっと誰もが足を運んだ、一般的なビューポイントがあったはず。そこで、そんな所からでは建物が邪魔で見えないだろうと思い込んでいたのですが、念のため温泉寺へも行ってみました。そして…

有馬温泉寺之絵図(江戸時代 温泉寺蔵)

温泉寺鐘楼の向うに角の坊さんの駐車場 角の坊さんの駐車場の向うに!!

温泉寺の鐘楼の辺りからカメラを構えてビックリ!兆楽さんの真上に見事な有馬富士が見えるではありませんか!待てよ…このアングル有馬六景の雪を被った有馬富士に似ていませんか?後の飯盛山の形まで…。有馬六景が実物を見て描かれたのではなく有馬の人達の用意した下絵を基に描かれたという事を差し引いて考えると、構図的にはまさにドンピシャといえるのではないでしょうか。欲を言えば、鐘楼の上に上がれたら電線が視界から消え有馬富士の左の木々が下に下がるので、よりベストショットかもしれません。

同じ大きさの枠に入れてみました。偶然にも屋根の勾配が同じ構図を作り出しました。(後の大きな山並はあくまでも壁ですから無視!)
昔は湯治と信仰が結びついていて、有馬温泉に湯治に来た人は皆、温泉寺に来てお薬師さんに手を合わせましたから、この辺りが本温泉と並んで昔の有馬温泉のまさに中心でしょう。お参りを終えて山門から出た時、遥かに見える有馬富士の姿にお薬師さんと同じように手を合わせたのかもしれません。(現存する鐘楼は天保15年(1844)に建てられたもので江戸時代の絵図には描かれていません。当時の山門[仁王門]は、石段を登った所にあり現在の鐘楼のすぐ横ですからビューポイントとしてはほぼ同じでしょう。)有馬六景の『有馬富士雪』は、有馬温泉に来た人は誰もが立ち寄った温泉寺境内周辺、もっと言えば山門からの眺めだったと結論づけましょう。
それにしても、有馬温泉の人がほとんど 「有馬温泉付近からの遠謀が富士山ににているためにこの名がある」はずの有馬富士が実際どの山なのかを知らないのはどうしてでしょう。近年、ホテル旅館等大きな建物が林立するようになった為に相対的に山の存在感が薄れてしまった事とビューポイントが減った事、地球温暖化による気候変化による見え方の変化(雪を被らない)、等など物理的な事もあるとは思いますが…昔を知るはずのかなり年配の方でも知りませんので、そればかりが原因ではないようです。新たな謎は深まります。
有馬の歴史に詳しい藤井清氏に伺いました。
実は江戸時代には、すでに有馬富士と羽束山、大船山を誤認(勘違い)している文献が多々見受けられるそうです!
あの貝原益軒も『有馬山温泉記』(宝永8年1711)の中で「有馬富士 鹿舌山にならべり、富士に似たり」と書いており、鹿舌山は羽束山の事ですから、私と同じく大船山と誤認しているようです。
大船山や羽束山と勘違いしている人に教えてもらった人はもちろん勘違いしてそう思い込みます。どうでもいいと言えばどうでも良い事なので、あえて話題にもしない…そういった感じで有馬富士の名前は知っているがどの山か解らなかったり、勘違いされたままである。そういう状況に違いありません。きっと忙しくて山を眺めている余裕がなかったのでしょうね。ちょっぴり人間的で微笑ましい気もしますが…
とはいえ現在、有馬富士の麓には兵庫県と三田市が連携して作った県内最大の都市公園『有馬富士公園』があり人々の憩いの場所として機能しています。それに対してその名のもとである有馬で、江戸時代の人が、有馬六景としてあれだけ大げさに(!)観光資源として宣伝したのに、今や写真の絵ハガキすら無く、どれが有馬富士なのかを誰も知らないなんてちょっぴりさびしい気がします。
温泉寺の鐘楼が老朽化しそろそろ手を入れる話がありますが、鐘楼から有馬富士が良く見えるよう望遠鏡でも設置したらどうでしょう。





鼓ケ滝松嵐 落葉山夕照 功地山秋月 温泉寺晩鐘 有明桜春望


『有馬六景手鑑』の『有馬富士雪』 (有馬湯泉神社所蔵、写真藤井清氏)
明和6年(1769年)有馬の観光活性化の為、有馬の役家である余田、河上氏らが予め六景を選定し見本の画巻を添え、京都の左大臣九条尚実邸を訪れ堂上公家の詩歌を得て神宝とすべく製作依頼したもの。絵は円満院門跡祐常前大僧正。明和7年(1770年)に完成し有馬三社の神前に奉納された。
有馬富士 ありまふじ<三田市>
角山(つのやま)ともいう。 三田市の北東部に位置し、花山院の西側に向かい合う山。標高373m。 周囲の山地から孤立し、有馬温泉付近からの遠望が富士山に似ているためにこの名がある(摂津名所図会)。 流紋岩の差別浸食の結果形成された。 残雪の景観は有馬六景にあげられ、秋には盆地特有の霧が発生し、雲海に浮かぶ島のように見える。 花山法皇の歌として『有馬ふじ麓の霧は海に似て波かと聞けば小野の松風』が伝えられている。 かつては山麓まで松林に覆われていたが、近年宅地化が進行している。(『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』より)


稲荷神社より雲海に浮かぶ有馬富士(昭和40年頃)花山院から見た有馬富士(いずれも藤井清氏撮影)
なるほど確かに三田盆地は霧が良く発生しますから、有馬温泉側から見ても、花山法皇のように有馬温泉とは反対側の花山院側から見ても霧に浮かび、その姿を富士に例えたという訳です。
ここで素朴な疑問が浮かびます。
「有馬温泉付近からの遠謀が富士山ににているためにこの名がある」とありますが、それならば有馬温泉で勝手に名付けている訳なのに山の位置する地元の三田でも「有馬富士」と呼ばれて愛されているのは何故でしょう?三田も旧有馬郡(ありまぐん)だからでしょうか。では何故、三田が郡の中心地だったのに「有馬郡」という名前なのでしょうか?またいつから「有馬郡」なのでしょうか。益々謎は深まるばかりでした。
先日、三田の郷土史研究家の高田義久氏が「三田本町史」(六甲タイムス紙)の「三田の地名の由来」の中で『奈良時代前期の大化元年(645)孝徳天皇と妃小足姫との間に有間皇子が生まれた。有間郡は有間皇子の所領で、今の五社に残る有間神社も皇子の旧跡ではないだろうか。』と書いておられるのを見つけ、成る程と頷いた次第です。尚、「ありま」に「有馬」の漢字が当てられるようになったのはアバウトですが平安時代頃からのようです。それまでは「有間」「在間」中には「蟻毛」「阿利萬」の表現もあるそうです(何でもアリ?)。〈以降の文中では有馬と表記します。〉
又、『三田の地名についてはこの地方が有間皇子の御田(みた)であったことに起因するが、有間皇子の菩薩を祀る金心寺のご本尊弥勒菩薩の体内から「当山一帯を松山の庄と号す。これを金心寺恩田・悲田・敬田の御田を以て三田と改む」とあったことより、これが三田の地名の起こりだとされている。』とお書きになっておられ、ついでに三田の地名のいわれまで理解できました。
ただ、三田を「みた」ではなく「さんだ」と発音するようになった契機には追加の説があり、作家としても有名で三田の歴史研究家でもある北康利氏は著作の中で次のように書かれています。
『誰か「さんだ」という地名を作り出した人物がいるはずである。これについては、後述する有馬則頼(1533―1602、有馬法印ともいう。)がその人物であるという説が有力である。有馬則頼はかつて淡河三津田(満田)城を居城としていたが、一旦遠州に移封され、関ヶ原の戦いの後、三田藩に入封した。そして自分の故地三津田(満田)と『みた』が紛らわしいことから三田(さんだ)と呼ばせるようにし、更に、紛らわしい深田と他の土地(三田)との間に土地境界線(榜示)を設けたのが榜示山だとされる。ひょっとしたら、深田を「ふかた」と読ませるようにしたのも則頼なのかもしれない。 すなわち、有馬則頼が積極的に地名として三田(さんだ)という表記と呼び方を定着させていった結果今に至っているというのである。地名の由来は兎角諸説あるものだが、「三田市史」もこの説を有力としており、私も支持するところである。』(『北摂三田の歴史』(六甲タイムス、2000,8)より)
私のここ暫く抱いていた疑問のナゾが解けた思いがしたので紹介させていただきました。かなり説得力のあるこれらの地名由来説に基づくと、三田(みた)が『さんだ』と呼ばれるようになった戦国時代よりも遥か昔、花山法皇が生きておられた平安時代よりも前から、この山は『ありまふじ』だった訳です。
では、地名や山の名前の由来ともなったと思われる『有間皇子』(ありまのみこ)とはどんな人なのでしょう。何故『有間』と名付けられたのでしょう。
有間皇子(舒明12年(640)~斉明4年(658)) は、大化の改新の時、中大兄皇子、中臣鎌足らによって立てられ即位した第36代孝徳天皇(596~654年)の皇子。母は阿倍倉梯麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)。『有間皇子』と名付けられたのは次のような経緯がある為だそうです。
「孝徳天皇が44歳で軽皇子時代、舒明天皇10年(638年)義兄の舒明天皇と一緒に有馬温泉に行き舒明天皇が帰京した後もしばらく滞在していたところ同行していた妃の小足媛が、懐妊。翌年の出産まで有馬に滞在し有間皇子の誕生に立ち会った。」(「ビジュアル日本の歴史№90デアゴスティーニ2005,11,1」より要約) これが本当なら「どれだけヒマやねん!」と突っ込みたくなりますね。
又、当時は、皇子に母方の氏族ゆかりの地名等をつける習慣があり、妃の小足媛の出身の阿部氏は有馬のある摂津地域を基盤とする有力豪族でしたから、それにならったものでもあるようです。
「釈日本紀」には、孝徳天皇が大化の改新から2年後の大化3(647)年にも10月11日から大晦日還幸までの82日間(!)、左大臣(阿部倉梯麿呂)・右大臣(蘇我石川麿呂)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があり、まさに孝徳天皇の有馬温泉好きも極まれりといった感がありますが、阿部氏との太いパイプの上に実現した事なのでしょう。(阿部氏は平安初期頃から安倍氏と名乗るようになり平安中期には陰陽師として安倍晴明が活躍します。)
しかし、唯一の皇子として溺愛されたであろう有間皇子は、やがて皇位継承をめぐる複雑な争いの中に巻き込まれて行きます。大化の改新を成功させた中臣鎌足と、斎明天皇(孝徳天皇の姉。654年孝徳天皇の崩御の後即位)の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)は、その権力を強化するために自らの政治路線を妨げるものを排除しようとしました。その一人に孝徳天皇のただ一人の皇子、有間皇子がいました。留守官であった蘇我赤兄は功をなして大化の改新で権力の座を奪われた蘇我氏の勢力を挽回する為か、機を見て皇子に謀反を仕向け、罠にはまった皇子を謀叛の罪で訴え出ます。囚われた有間皇子は、詮議を受ける為、斎明天皇と中大兄皇子親子の滞在する牟婁(白浜)の温泉に護送されます。その途中磐代(和歌山県南部町)で一夜を明かした時に詠んだ詩が万葉集に残されている有名な次の2首の歌です。
「家にあれば 笥に盛る飯を草まくら 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(家にいる時はちゃんとした器に盛っている食事を、思いがけない旅に出ている今は椎の葉に盛っている)
「磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む」
(磐代の浜松の枝を引き結んで、幸いにして無事でいられたら、またここへ戻って眺めよう)
その後、有間皇子は中大兄皇子の尋問を受けますが、「天と赤兄と知らむ、吾全ら解らず(天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない。)」と、述べ、その帰路、藤白坂(現和歌山県海南市)において謀反の罪で絞殺により処刑されました。「有間皇子の変」と呼ばれるこの事件はいろいろな謀略説があり真相は今尚謎に包まれています。
前述の三田金心寺の開祖定慧上人は藤原鎌足の長子ですが、実は小足媛が孝徳天皇の子を身篭ったまま、政略か何らかの理由で鎌足に嫁いで後に出来た子で、有間皇子の弟であるという説があります。そして唐で修行した後帰国し、兄有間皇子の菩提を弔う為に母小足媛の出所である阿部一族が支配していたこの地に金心寺を建てたといわれています。しかし唐から帰国してたった3ヶ月後に何者かに毒殺されたといいます。実に恐ろしい時代ですね。
花山院と花山法皇(安和元年(968年)~寛弘5年(1008年))について触れておきますと、冷泉天皇の第一皇子。第65代天皇。17歳で即位し花山天皇となりましたが藤原氏との政争に敗れ19歳で譲位、花山法皇となりました。熊野修行、西国観音堂巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間隠棲・仏道修行した地が東光山菩提寺、花山院で、現在、西国33所巡礼の番外霊場となっています。付近には法王を慕って11人の女官たちがかつて法王に寵愛深かった弘徽殿女御の遺骨を奉じて訪れ、女人禁制の花山院に踏み入れず尼となって住み着いたという「尼寺(にんじ)」、山中で修行する法皇に聞かせようと琴を奏でたという「琴弾坂」「琴弾峠」などが地名として残っており、十二尼妃の墓も現存します。僧籍にありながらも様々な女性関係があったり(もっとも当時のモラルは現代とは全く異なり一概には語れない)狂気と紙一重のような性格もあったようですが、芸術(和歌や建築、作庭、工芸絵画)にも秀でた才能を発揮しました。 『拾遺和歌集』(1005~1006に成立)は自らの手で編纂したとされています。また西国巡礼の再興者とされており有名な『補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬』で始まる西国三十三ケ所のすべてのご詠歌を詠まれたのは花山法皇で、お盆等で詠まれるご詠歌は後世に節が付けられたものです。熊野を通して陰陽師安倍晴明ともさまざまな関わりを持っており数多くの説話が残されています。
有間皇子と花山法皇には、時代こそ違え、その境遇に大変共通点があります。いずれも政略に巻き込まれて運命を狂わされた人です。どちらも19歳がターニングポイントです。片や19歳で処刑され人生を終え、片や同じ19歳で譲位、仏門に入り隠棲しながらも宗教・芸術面で大きな成果を残しました。花山法皇当時、有間皇子の説話はすでに古典として語られており、花山法皇自身も自身と有間皇子の境遇を重ね合わせていたでしょう。


摂津名所図会の有馬富士(寛政10年1798年成立。画像は大正8年発行の物)


有馬私雨 寛文12年(1672) 迎湯有馬名所鑑 延宝6年(1678)


有馬山温泉小鑑 貞享2年(1685) 有馬温泉古由来 享保2年(1717)
(図版資料提供 藤井清氏)
上の図版は有馬六景と同じく江戸時代の本の挿絵です。当時ですからもちろん木版です。
左上の『有馬私雨』のチョンマゲの人の頭に手をかざした「遠くを見る人」の定型ポーズや、画面上の斜線による強調(ちびまるこの額の線みたい)、枠の中に描くところ、文句のスペースをとっているところ、実物以上に大げさに強調する所まで含めて、手法的にはまさに現代のコミックのルーツですね。
それにしても、大げさというか、これらの図だけ見ていたら一体どんな大きな山だろうと思いませんか?これを見せられたらきっと有馬温泉に湯治に行って実物を拝みたくなるでしょうね。
さてその有馬富士なんですが、実は私(吉高屋店主の吉田49歳)は、つい最近まで大きな勘違いをしていました。何と、吉高屋から見える全然違う山を有馬富士と思い込んでいたのです。
(恥) 本当の有馬富士が解った今となってはバカみたいな事なんですが、有馬温泉の中では標高が低く、張り出す山並に遮られ視界の狭い場所である吉高屋からは実は有馬富士は全然見えないのです!私が49年間、ついこの間まで有馬富士と思い込んでいた山は…

実は大船山(653m)という山だったのです。上の写真が吉高屋から見える山並です。どう見ても一番高くて綺麗な大船山が『富士』に見えるでしょ?その左隣の山も綺麗な山ですがこれは羽束山(524m)です。昔は鹿舌山とも呼ばれていたそうです。どちらも古くから修験道の修行場としても知られた由緒ある山だそうです。では本当の有馬富士は何処に?何処から見れば有馬富士が見えるのでしょうか?吉高屋からは北東に200m程の高台に在る有馬小学校の屋上に行ってみました。下の写真はそこからの展望です。

全然眺めが違います。大船山と羽束山は解りますが、どれが有馬富士かさっぱり解りません。これだけ視界が広い訳ですからこの山並の何処かに有馬富士があるはずです。そこで郷土史に詳しい藤井清さんや登山のキャリア豊富でNPO法人有馬保勝会の副理事長でもある磯部道生さんにお伺いしたりしてやっと最近判明した訳です(遅)。山の名前を入れてみたのが下の写真です。

実は、有馬富士は兆楽さんの建つ山並の向う側にあったのです。私が有馬富士と思い込んでいた大船山からは、とんでもなく離れていました。少なくとも有馬小学校の屋上からだと山並の左端の方だし、しかも富士と言うわりには低い!正直何でこんな山が有馬六景として絵に描かれているの?と思いました。こんな勘違いは私だけ?と思い、有馬在住のいろんな方にそれとなく聞いてみたところやはりというか…、有馬富士の名前や、それが有名な山である事は皆知っているのですが、年配の方も含めて10人中9人くらいは、つまりほとんど誰も本当の有馬富士がどれかを知りません!自分だけでなくてちょっと安心しました。(安心してる場合では無い。) でも、その風景が江戸時代に有馬六景に選ばれる程、有馬温泉からの遠望が美しいはずなのに長年住んでいる人がほとんど知らないなんて実に不思議ですね。
有馬富士がどれかは解ったのですが、ただ、有馬小学校のように有馬の東側からだと、見えることは見えても全然富士に見えません!もっと富士らしく見える山が何個もあるんですから…
有馬六景というからには、それなりのポイントからそれらしく見えるはずです。こんどはそっちの事の方に興味が湧いてきたので、ある日、改めてカメラを持って街に出て、有馬の街の中で山並の見えそうなビューポイントを探してみました。

これは有馬小学校とは逆で有馬の中心街よりもやや西よりの場所。旅館やまとさんのある愛宕山北斜面の細い道からです。青く輝くように綺麗な北摂の山々。

上の写真のアップ。大船山、羽束山が綺麗です。北六甲台の街並みも良く見えています。左方向(西側)は三田クリーンセンターの白い煙突が、かろうじて見えていますが、残念ながら有馬富士は全く隠れています。

有馬温泉のほぼ中心に位置する有馬温泉の鎮守湯泉神社境内にやって来ました。今は鬱蒼とした杉に囲まれています。下の屋根は温泉寺です。遠くの山を良く見ると…

見える!先ほどの有馬小学校(有馬の東の方)からは、山並の左端にポツンとある小山にしか見えず、又、同じ愛宕山の北斜面でも少し西側に外れるだけで前の山が邪魔をして全く見えない『有馬富士』が、湯泉神社からならば良く見えます。しかも山並のド真ん中!さっきまで大意張りだった大船山や羽束山などのもっと大きい山は全く見えませんから、まさに『富士』の風格ではないですか!(後のもっと大きい壁のように見える山並は壁と考えてこの際無視してください。霧の掛かった時には見えないハズですし。)

さらにアップにです。後の大きな山は千丈寺山。右後ろの少し低い山は飯盛山。手前の低い山並の稜線がほぼ水平なので、三田盆地特有の霧が掛かる季節や時間には、まさに波に浮かぶ富士に見えそうですね。当然、後方の千丈寺山は遠いので霧で隠れてしまいます。想像してみてください。またシャッターチャンスに改めて撮影してみたいと思います。(左の白煙突は羽束山左の三田クリーンセンターの物とは異なります。)
ただ湯泉神社は明治17年(1884年)の遷宮以前には少し下った温泉寺の横にあり(下の絵図)、現在の場所は愛宕山の山中でした。江戸時代に有馬六景に選ばれたくらいですから、もっと誰もが足を運んだ、一般的なビューポイントがあったはず。そこで、そんな所からでは建物が邪魔で見えないだろうと思い込んでいたのですが、念のため温泉寺へも行ってみました。そして…

有馬温泉寺之絵図(江戸時代 温泉寺蔵)


温泉寺鐘楼の向うに角の坊さんの駐車場 角の坊さんの駐車場の向うに!!

温泉寺の鐘楼の辺りからカメラを構えてビックリ!兆楽さんの真上に見事な有馬富士が見えるではありませんか!待てよ…このアングル有馬六景の雪を被った有馬富士に似ていませんか?後の飯盛山の形まで…。有馬六景が実物を見て描かれたのではなく有馬の人達の用意した下絵を基に描かれたという事を差し引いて考えると、構図的にはまさにドンピシャといえるのではないでしょうか。欲を言えば、鐘楼の上に上がれたら電線が視界から消え有馬富士の左の木々が下に下がるので、よりベストショットかもしれません。


同じ大きさの枠に入れてみました。偶然にも屋根の勾配が同じ構図を作り出しました。(後の大きな山並はあくまでも壁ですから無視!)
昔は湯治と信仰が結びついていて、有馬温泉に湯治に来た人は皆、温泉寺に来てお薬師さんに手を合わせましたから、この辺りが本温泉と並んで昔の有馬温泉のまさに中心でしょう。お参りを終えて山門から出た時、遥かに見える有馬富士の姿にお薬師さんと同じように手を合わせたのかもしれません。(現存する鐘楼は天保15年(1844)に建てられたもので江戸時代の絵図には描かれていません。当時の山門[仁王門]は、石段を登った所にあり現在の鐘楼のすぐ横ですからビューポイントとしてはほぼ同じでしょう。)有馬六景の『有馬富士雪』は、有馬温泉に来た人は誰もが立ち寄った温泉寺境内周辺、もっと言えば山門からの眺めだったと結論づけましょう。
それにしても、有馬温泉の人がほとんど 「有馬温泉付近からの遠謀が富士山ににているためにこの名がある」はずの有馬富士が実際どの山なのかを知らないのはどうしてでしょう。近年、ホテル旅館等大きな建物が林立するようになった為に相対的に山の存在感が薄れてしまった事とビューポイントが減った事、地球温暖化による気候変化による見え方の変化(雪を被らない)、等など物理的な事もあるとは思いますが…昔を知るはずのかなり年配の方でも知りませんので、そればかりが原因ではないようです。新たな謎は深まります。
有馬の歴史に詳しい藤井清氏に伺いました。
実は江戸時代には、すでに有馬富士と羽束山、大船山を誤認(勘違い)している文献が多々見受けられるそうです!
あの貝原益軒も『有馬山温泉記』(宝永8年1711)の中で「有馬富士 鹿舌山にならべり、富士に似たり」と書いており、鹿舌山は羽束山の事ですから、私と同じく大船山と誤認しているようです。
大船山や羽束山と勘違いしている人に教えてもらった人はもちろん勘違いしてそう思い込みます。どうでもいいと言えばどうでも良い事なので、あえて話題にもしない…そういった感じで有馬富士の名前は知っているがどの山か解らなかったり、勘違いされたままである。そういう状況に違いありません。きっと忙しくて山を眺めている余裕がなかったのでしょうね。ちょっぴり人間的で微笑ましい気もしますが…
とはいえ現在、有馬富士の麓には兵庫県と三田市が連携して作った県内最大の都市公園『有馬富士公園』があり人々の憩いの場所として機能しています。それに対してその名のもとである有馬で、江戸時代の人が、有馬六景としてあれだけ大げさに(!)観光資源として宣伝したのに、今や写真の絵ハガキすら無く、どれが有馬富士なのかを誰も知らないなんてちょっぴりさびしい気がします。
温泉寺の鐘楼が老朽化しそろそろ手を入れる話がありますが、鐘楼から有馬富士が良く見えるよう望遠鏡でも設置したらどうでしょう。
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ウチョウラン
「摂北温泉誌」辻本清蔵著(大正4年発行)には「有馬蘭 蘭科の小草にして「ウテフラン」といふものなり、山中の南渓に多し、茎の高さ五、六寸、三、四葉茎を擁して互生す、五月下旬より六月中旬の間に紫色の花を開く、形蘭花の如くにて幽致愛すべきものなり」とあります。ウチョウランは産地により多くの変種があり、有馬のものも、濫獲のため今では大変珍しいものになってしまいましたが、昔は豊富な自生があったそうです。著名な植物学者故牧野富太郎博士は度々、当時の文化人のたまり場でもあった有馬温泉の文化村(有馬町の東端。温泉街からは離れた閑静な場所)で過ごされたそうですが、有馬蘭の名の由来は牧野博士によるものだそうで、蘭愛好家者の間では知られているそうです。


明治中期。当時の兵衛旅館案内所(善福寺下)の店先。左隅の台に有馬蘭の鉢植えが見えます。集うのは、兵衛旅館のご主人を中心に別荘主の面々だとか。 のんびりしていていいですね。
上の写真のようにかつて有馬温泉では有馬蘭の鉢植えを店先や玄関口に飾る風習があったそうです。実に優雅ですね。ウチョウラン(羽蝶蘭)は今でも園芸種としては大変多くの愛好家を抱えるメジャー品種ですが、藤井さんによると,変異種の作り易さなどから質的には花の大きさや数や模様などの見事さを競うものになっており原種の持つ味わいや雅やかさは別ものらしいです。今では人の踏み入る事の少ない山間の岩肌などの険しいところに、ごく稀にしか生えてないという幻の野生の有馬蘭の原種を探し出して、何とか増殖復活できないものかと思います。
お話を伺っている内に、ひょんな事から明治時代に書かれた『レイ夫人の世界周遊日記』という文献の話題になり、夫人が日記に書いている『青い花』がひょっとすると有馬蘭かもしれないとのお話を聞きました。この日記は1998年に神戸市立博物館で開催された『有馬の名宝-蘇生と遊興の文化-』展の図録にも載っていましたので紹介しましょう。
古くは江戸時代の慶応年間より、有馬温泉には数々の異邦人が訪れていますが、特に多かったのは明治元年(1868年)の神戸、大阪開港以降で、海洋航路や鉄道が加速的に開け、資力と時間のある『世界漫遊家』たちが次々と日本を訪れました。有馬温泉にも外国人向けの宿泊施設が、たくさん出来ました。有馬ホテル、杉本ホテル、増田ホテル、清水ホテル、キングジョージホテルなどです。有馬を訪れた外国人のお国も英国、アメリカ、ドイツ、オランダ、インド、中国、革命後のロシアなどなど、職種も宣教師、商売人、観光避暑客などバラエティーに富んでいます。


明治時代の清水ホテル。(写真左右、道の両側とも。今の有馬山叢 御所別墅敷地内)この道を真っ直ぐ行けば滝川沿いに出ます。道には白人の子供たちが。)
英国人のアリス・メアリー・レイ夫人もお金持ちの世界漫遊家で『レイ夫人の世界周遊日記』(横浜開港資料館蔵)は夫人が41歳当時夫とともに、明治14年(1881年)から翌年にかけて10ヶ月半の世界一周旅行をした際のペン書きの直筆の日記で、全691ページの内101ページが日本の部分です。一般に知られるような有名な物ではありませんが西洋人の目から見た明治時代の日本の風俗などの様子が生き生きと描かれており貴重な資料です。上記図録によると、3週間の太平洋横断の後横浜に入港。約2週間滞在した後神戸、京都、大阪、有馬、長崎などを訪れています。夫妻は明治15年1月5日の朝ヒョーゴ・ホテル(現神戸郵船ビルの場所)から友人夫妻と4台の人力車に乗り天王越(神戸街道)で4時間かけて有馬に到着します。一行は尼僧の経営する茶店(恐らく清水寺の尼僧清林の経営する外国人向けの宿泊施設「清水ホテル」であろうと思われています。)で昼食をとり有馬の竹細工を買います、温泉には入っていないようすです。と、このように紹介されています。
藤井さんから聞いた『青い花』の事が気になって、有馬の事が紹介されているとされる図録の写真に写っている見開き1ページの日記をスキャナーで読み込み拡大して解読にチャレンジしてみました。挿絵の茅葺屋根の家がどこなのかは良く分かりませんが、「日本の茅葺の民家」と説明されています。文字の癖もあり、難航しましたが、解る限りではこんな事が書いてある事が解りました。

レイ夫人の世界周遊日記 明治14~15年 横浜開港資料館蔵(「有馬の名宝-蘇生と遊興 の文化-」神戸市立博物館編より)
「日本では民家に隣接する土地を巧みに配置しており、農耕できるスペースがあれば、庭のように狭い場所にも畑が作ってある。茅葺屋根の表面は薄い土の層で覆われていて、そこに群生している『青いユリ』が、春には満開になる。これらの『青いユリ』から日本人は『ピンクのオイル』を抽出し、女性の髪に付ける。」
??? 途中から意味不明です。

レイ夫人の日記の拡大 クセ字なので英語を使う人でも良く分からないそうです
文中の「blue Lilies」は直訳すれば「青いユリ」でしょうけど、品種を作ればノーベル賞物といわれている「青いバラ」と同じく、少なくとも彼女の知る欧米の現実世界の何処へ行ってもそんな物は在りません。茅葺屋根の上の土の層にに群生できる植物という事が、蘭類である有馬蘭の可能性のある所以だと思います。しかし有馬蘭とすれば厳密には紫色かピンク色です。しかもそこから「ピンクのオイル」を抽出なんて無理です。彼女が有馬に来たのは、真冬ですから、春に茅葺屋根の上に咲くと言う「青いユリ」も実際には見ていません。それが有馬蘭だとしても冬ですから葉さえ無いはずです。恐らく彼女は、つたない?通訳から話として説明を聞いたのでしょう。髪に付ける「ピンクのオイル」は恐らく椿油の事では無いでしょうか。「ピンクの花」の咲く椿の実から抽出する訳ですから。そして彼女の頭の中のミキサーでスクランブルされた?!
でもひょっとしたら「青いユリ」は富裕で教養があったであろう彼女のちょとした創作かもしれません。
というのは『青い花』と言えば著名なドイツ浪漫派の詩人ノヴァーリス(1772~1801)の未完の小説『ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン』(1802年刊邦題『青い花』世界的にも「青い花」の意味のタイトルで知られています。)で、主人公ハインリッヒが夢の中で見た理想への憧れの象徴として登場する有名なモチーフだからです。小説の冒頭、夢の中で、彼は苔むす岩をよじ登り山の奥へ奥へと入って行き、断崖の洞窟を貫け、光溢れる夢幻郷にたどり着きます。そこで彼は泉の畔に咲く淡青色の花に釘付けになります。彼が近寄ろうとすると花は徐々にメタモルフォーゼし、開いた花弁の中に見た優しい少女の顔が彼の脳裏に衝撃的に刷り込まれ、そこから物語が展開されるといったお話です。
ノヴァーリス
『青い花』
時は中世、ある夜夢に見た青い花の中の小女を求めて旅に出た主人公ハインリッヒがいろいろな体験を経て詩人となって成長する過程を描く(第1部「期待」)。詩と藍と信仰とによる現実からの開放がこの作品の主題であり、ここで詩人のあり方が高らかに宣言される。第2部「成就」ではその詩人の活躍と栄光が描かれるはずであったが、第一章のなかばで中断されたままに終わった。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」に対抗して書かれたこの作品はノヴァーリスの最高傑作であるばかりでなく、ドイツ・ロマン主義の代表作であり、彼のいう「魔術的観念論」の結晶といえる。ロマン的憧憬の象徴として現れる「青い花」の名はドイツ・ロマン主義の異称として、以降広く浸透した。(ブリタニカ百科事典)
『青い花』は日本の文壇にも大きな影響を与えており、詩人、童謡作家でもある彼の北原白秋も大正時代、詩人仲間を引きつれ『青い花』を求めて紀伊半島を旅したといいます。
「若き日本のロマン派詩人たちは、熊野をノヴァーリスにおける詩の故郷ヒンドスタンに、熊野の山陰に咲く花を詩の化身の青い花に見立てることで、ロマン主義の詩文学を日本に移植しようと試みたのだった。そのすばらしい発想に、私は驚嘆する。」(DeLi創刊号「特集の言葉」池田信雄2003,8より抜粋)
ひょっとするとレイ夫人は、はるばるやって来た異郷の山間で話に聞いた気品在る花の姿に想いを馳せ、ロマンの象徴としての『青い花』の意味を重ねて、実際には何処にも無い存在である「青いユリ」と表現したのかも知れませんね。意識的にか、或いは無意識的に。
レイ夫人の日記を語らずとも、幻の有馬蘭のその気品ある花姿、葉姿、香り、人の踏み入らない山間の険しい岩壁にひっそりと咲く様は、まさにノヴァーリスの『青い花』の趣たっぷりでは無いでしょうか。

使用写真「有馬の名宝-蘇生と遊興の文化-」神戸市立博物館編、
及び「ノヴァーリス日記」飯田安1933
それ以外は藤井清氏提供
参考文献:藤井清氏提供資料
「有馬の名宝-蘇生と遊興の文化-」神戸市立博物館編
DeLi創刊号「特集の言葉」池田信雄2003,8
「レイ夫人の世界周遊日記」伊藤久子横浜開港資料館紀要第8号
先日、有馬の「秘境」、鼓ケ滝の上流を探検する催しがあり、参加する事が出来ましたのでレポートします。なぜ「秘境」かというと、今回特別に有馬保勝会(有馬の自然を守る為のNPO法人)の方々の先導で探検できましたが、鼓ケ滝の脇の登り口は切り立った崖で、危険もあり、現在は立入禁止になっており、踏み入る事が出来ず、昭和13年の阪神大水害の時に崩れた部分を修復して以来、つい最近になってNPO法人有馬保勝会の方が踏み入るまでの60数年の間に、立ち入った人がほとんど無いからです。

元々は鼓ケ滝の左横の崖に手すりの付いた階段があり、登って滝の上の不動明王の祠に参拝したり、一段上にある夫婦滝を見物出来たそうです。水害後階段も無くなり、崩落した鼓ケ滝が修復されて以来、60数年間、立ち入った人のほとんど無い「聖域」。保勝会の方が踏み込むに当たって最初に心配したのは、白骨死体などがあるのではないかと言う事だったそうです。(幸いにもその心配はありませんでした。)さていったいどうなっているのでしょうか。いざ出発。
昔の絵葉書の「鼓ケ滝」。左の崖に階段がある。
滝はもっと低かった。右の写真は昔の夫婦滝。
夫婦滝は鼓ヶ滝が低かった分、今よりも、もっと高低差があった。
鼓ケ滝左側の崖切り立った崖を鉄の梯子にしがみ付いてよじ登ると四方を岩場に囲まれた居心地のとても良い空間が在りました。不動明王の祠の跡は完全に水没して土砂に埋まっていました。切り立った岩の間を清流がひたすら流れています。岩とロープにしがみ付きながら十数メートル上流に進むと、程なく夫婦滝に突き当たりました。

長年有馬に住んでいながら、モノクロームの古い絵葉書でしか見た事の無いその姿をついに目の当たりにした感動の瞬間でした。昭和13年に崩落した鼓ケ滝の修復時に滝を高くした分土砂が埋まり、夫婦滝の高低差がかなり低くなってはいましたが、ちゃんと2本ならんで夫婦状態でした。

夏なのに驚くほど冷たい澄んだ水でした。ゴツゴツした岩場を保勝会の方が張って下さったロープを伝い夫婦滝の横を登って行きました。

奉られていたという不動明王の祠の跡は水没していた。
次から次と幾つもの小さい滝や、見慣れない草花を右に左に見ながら急で足元の悪い坂道をトボトボと上流に進みました。

いくつもの小さな滝
しばらく歩くと上流に人工的な砂防堰堤が見えてきました。堰堤横の土手をロープを伝い登りきり、又しばらく歩き今回の最終地点「高塚の清水」に到着しました。「高塚の清水」は16世紀末、豊臣秀吉が湯治に来るたびに茶の湯に使い、又わざわざ大阪城にも運ばせたと言われる伝説の水です。豊臣秀吉は、織田信長の家来として播磨方面を転戦した事が縁で、天下を取った天正11年頃から十数回湯治に訪れています。江戸初期の文献にも「いさぎよく、いとひややかにて味わいまた優れたり」と記されています。長い間人々の記憶から忘れられて何処にあるのかさえ分からなくなっていたのを、2002年春、有馬保勝会のメンバーが、伝承と古文献を元に探し出しました。2005年今現在は砂防工事区域を通らないと入れない為「高塚の清水」へは行けなくなくなっていますがこのおいしい水は工事業者さんのご好意でパイプで鼓ケ滝公園の茶店横まで引かれており、そちらでペットボトルなどで取水できるようになっています。沸かして「茶の湯」に使うときっと豊臣秀吉の気分が味わえるかも知れません。そんなこんなで、普通は立ち入れない鼓ケ滝の上流の「秘境」レポートでした。


元々は鼓ケ滝の左横の崖に手すりの付いた階段があり、登って滝の上の不動明王の祠に参拝したり、一段上にある夫婦滝を見物出来たそうです。水害後階段も無くなり、崩落した鼓ケ滝が修復されて以来、60数年間、立ち入った人のほとんど無い「聖域」。保勝会の方が踏み込むに当たって最初に心配したのは、白骨死体などがあるのではないかと言う事だったそうです。(幸いにもその心配はありませんでした。)さていったいどうなっているのでしょうか。いざ出発。


昔の絵葉書の「鼓ケ滝」。左の崖に階段がある。
滝はもっと低かった。右の写真は昔の夫婦滝。
夫婦滝は鼓ヶ滝が低かった分、今よりも、もっと高低差があった。
鼓ケ滝左側の崖切り立った崖を鉄の梯子にしがみ付いてよじ登ると四方を岩場に囲まれた居心地のとても良い空間が在りました。不動明王の祠の跡は完全に水没して土砂に埋まっていました。切り立った岩の間を清流がひたすら流れています。岩とロープにしがみ付きながら十数メートル上流に進むと、程なく夫婦滝に突き当たりました。


長年有馬に住んでいながら、モノクロームの古い絵葉書でしか見た事の無いその姿をついに目の当たりにした感動の瞬間でした。昭和13年に崩落した鼓ケ滝の修復時に滝を高くした分土砂が埋まり、夫婦滝の高低差がかなり低くなってはいましたが、ちゃんと2本ならんで夫婦状態でした。

夏なのに驚くほど冷たい澄んだ水でした。ゴツゴツした岩場を保勝会の方が張って下さったロープを伝い夫婦滝の横を登って行きました。

奉られていたという不動明王の祠の跡は水没していた。
次から次と幾つもの小さい滝や、見慣れない草花を右に左に見ながら急で足元の悪い坂道をトボトボと上流に進みました。


いくつもの小さな滝
しばらく歩くと上流に人工的な砂防堰堤が見えてきました。堰堤横の土手をロープを伝い登りきり、又しばらく歩き今回の最終地点「高塚の清水」に到着しました。「高塚の清水」は16世紀末、豊臣秀吉が湯治に来るたびに茶の湯に使い、又わざわざ大阪城にも運ばせたと言われる伝説の水です。豊臣秀吉は、織田信長の家来として播磨方面を転戦した事が縁で、天下を取った天正11年頃から十数回湯治に訪れています。江戸初期の文献にも「いさぎよく、いとひややかにて味わいまた優れたり」と記されています。長い間人々の記憶から忘れられて何処にあるのかさえ分からなくなっていたのを、2002年春、有馬保勝会のメンバーが、伝承と古文献を元に探し出しました。2005年今現在は砂防工事区域を通らないと入れない為「高塚の清水」へは行けなくなくなっていますがこのおいしい水は工事業者さんのご好意でパイプで鼓ケ滝公園の茶店横まで引かれており、そちらでペットボトルなどで取水できるようになっています。沸かして「茶の湯」に使うときっと豊臣秀吉の気分が味わえるかも知れません。そんなこんなで、普通は立ち入れない鼓ケ滝の上流の「秘境」レポートでした。



夏の風物詩のひとつである蛍。暗闇に浮遊する光は私たちを夢幻の世界に誘ってくれます。実はあの光、オスとメスが出会うための信号で、浮遊して光っているのはオスで、じっとして光っているのがメスです。幼虫からさなぎにかけての長い下積み生活(?)を経て最後に光を放ち、オスとメスが結ばれるなんて、実に良く出来たプログラムですね。

ゲンジボタルの光は西日本と東日本では、明滅の間隔が違います。西日本ではおよそ2秒に1回、東日本ではおよそ4秒に1回光ります。又西日本の方が明滅の集団同期の度合いが強いそうです。何が原因で違っているのでしょうか、興味深いです。東日本で生まれた個体を西日本に持ってきたらどうなるのでしょう。試してみたいものです。

(写真はホタルの幼虫とエサのカワニナ)
有馬では例年5月末頃から6月中旬ごろまでゲンジボタルを見ることが出来ます。なにぶん山間の急流なので、何万匹が乱れ飛ぶような所謂「蛍の名所」というわけには行きませんし、数も年によって多めだったり少なめだったりしますが、程よい数の蛍の光が、かえって有難味があり、趣き深いとも感じます。

蛍の出る場所は、鼓ケ滝のある滝川の鼓橋の辺りや、有馬川の太閤橋から下流の山口町に至る流域全体ですが、観光のお客様が夕涼みがてら軽く散策されるのでしたら、春の桜の名所でもある太閤橋から公園橋の間の通称「桜の小径」を歩かれるのが良いでしょう。川沿いにネットが張ってあるので安全ですし、歩く距離としても適当かと思います。 丁度、当店、吉高屋の裏手になりますので、是非散策にお越し下さい。5月末頃から6月中旬ごろの時期に有馬にお泊りでしたら、蛍を見逃すのはもったいないです!

当店の川沿いのテラス席からも見えますので、おいしいドリップコーヒーでも味わいながら、実際何秒に1回光るのか観察(笑)して見ませんか。
但し蛍は眺めて楽しんでください。昨年も、虫籠にたくさん採って持ち帰ろうとしている親子連れの方や、「孫に見せたい」と言って、採った蛍をいれるナイロン袋を分けて欲しいといって来られたおばあちゃん等がおられ、ちょっぴり複雑な気持ちになったものです。都会では見れませんから気持ちは良く分かるのですが、有馬川のゲンジボタルは数も少なく、自然保護の観点からも決して子供さんのお手本とは言えませんし、蛍にも蛍の予定がありますので…。
