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久しぶりの更新となりました。
今回は有馬温泉の旅館などが発行した有馬温泉の鳥瞰図や地図をいろいろ紹介します。それぞれビューポイントが違っていたりして面白いです。

まずは有馬温泉観光協会発行の現行案内地図です。

img888_20160319221925bed.jpg

昨今は方角や距離など正確な情報を求められる向きが多いため機能性を重視し、デフォルメの多い鳥瞰図でなく真上からの地図となっている。隅々まで入れ込まないといけないという事でニーズのある中心部が小さくなってしまう。飲食店や物産店の情報まで入れ込むのは無理が出てくるし、出店閉店に伴う情報の更新も大変。いろんなジレンマを抱えながらバランスをとって出来たのが現在のもの。

では昔のものをあれこれ紹介していきます。昔のものは基本、鳥瞰図ですのでデフォルメのオンパレード、方向なんかもグニャグニャです。でも絵としてはとっても面白いです。

●大正後期「有馬全景」

有馬全景

ポケットサイズで発行元も分からないがきれいな版だ。太閤通りも未だ暗渠になっていないし、本温泉の建物も大正15年以前の唐破風の庇の物が立派に描かれている。「神戸行き電車」の記載はあるが建物のイラストはないので未だ計画段階だった時期の印刷物だろう。手前、省線(今のJR)有馬駅舎や汽車が立派に描かれている。

この図では滝川の川筋を湾曲させ、滝川と六甲川の合流地点からラヂュム温泉、さらに省線駅までの間を思い切り省略するというデザイン上の力技で省線駅を入れ込んでいるが、同じ様な手法は以降の絵図ではお約束となっている。



●大正14年有馬町役場発行「有馬温泉名所図会」(岩村清春作)部分。

岩村

手前に鉄砲山、左手に瑞宝寺や文化村(画面から切れていますが)。右手は省線有馬駅、有馬楽園(パラダイス)。突き当たりに鼓ケ滝のレイアウト。旅館だけでなく飲食店や物産店まで名前が書き込まれているし、なんと墓地まで描き込まれている。実に念の入った絵図だ。未だ神有電車は開通しておらず計画段階だが、「神戸行き電車のりば」の丸いシールがていねいに上から張られている。印刷段階では間に合わなかったのだろう。

描かれている本温泉は明治36年~大正14年にあった唐破風の庇が特徴の建物。「本」が付くのは同じ期間に存在した高級家族風呂「高等温泉」(今の阪急バス駅)と区別するため。この図ではその「高等温泉」の上から「有宝乗合自動車のりば」とシールが貼られている。

今の「太閤橋」は平成12年以前は「太古橋」と呼ばれていたが、さらに昭和3年以前は「延年橋」と呼ばれていた。また今の「太閤通り」は以前は通称「有馬銀座」と呼ばれていたが、川を暗渠化した上に通された道路で、この時期(暗渠化された昭和3年以前)は川であり上流側の若狭屋さんの前に「太古橋」、下流側の現在観光案内所の前に「榮久橋」があった。

今の明石焼きの「有馬十八番」さんの場所に郵便局、林渓寺の向いに警察署、「有馬ロイヤルホテル」さんの場所の一部に町役場があった。

地図の右下、省線駅向い側に「金線サイダー」の工場がある。大正6年に有馬鉱泉合資会社の有馬サイダー工場が杉ヶ谷の炭酸泉源前からここに移転して来たが大正13年に金線飲料㈱に買収された。しかし金線飲料㈱は大正14年に日本麦酒鉱泉㈱に買収された。そして大正15年3月にこの工場での製造は中止となり、全従業員が川西の平野工場に移った。

この絵図では川筋を湾曲させる力技の代わりに巻物のように極端に横幅を広くすることで省線駅まで入れ込んでいる。お陰で吉高屋も割愛される事なく表示されている。因みに大正頃の吉高屋は「亀寿堂」の屋号を名乗っておりこの地図にはその名で記されている。


●昭和3年発行「神戸有馬電鉄沿線名所図」(吉田初三郎作)有馬温泉部分。

吉田初三郎 007b

鳥瞰図の世界では超有名な吉田初三郎先生の作。構図といい色使いといい、やはり素晴らしい。神戸有馬電鉄沿線名所図なので終点湊川、三田までの沿線が紹介されているが有馬温泉部分だけをピックアップしても構図が成立している。川のラインなど達筆な書のようだ。今回は有馬温泉部分を紹介しているが絵図全体の中にはハワイ、香港、台湾、旅順、大連、釜山、富士山、樺太、青森、天の橋立などまで入れ込んである。先生の絵のお約束である。

手前に鉄砲山、左手に瑞宝寺や文化村。右手に妙見堂や神有電車駅。突き当たりに鼓ケ滝のレイアウト。ほぼ前者を踏襲したアングル。しかも昭和3年発行なのに大正15年に廃止されたはずの高等温泉(今の阪急バス駅)が記され、昭和3年に暗渠になったはずの今の太閤通りも、この図ではまだ暗渠になっていない。その代わりというのはおかしいがこの図では本温泉が大正15年以降の新しい3階建ての物になっている。もちろん神有電車は描かれているが、立派な駅舎のビルは描かれていないから作画時点と発行日にかなりのタイムラグがあったのだろう。

この絵図では六甲川と滝川の合流地点から下流のラジウム温泉に至る間はデザイン上省略されている。また、神有電車の発行だからか省線の駅はほぼ割愛されている。小さい尖がり屋根のある建物がそう見えない事もない。

●昭和3年以降 神戸有馬電鉄発行「有馬温泉名所図会」(湖南作)

img889.jpg

吉田初三郎作の絵図をほぼ踏襲している。この絵図では現太閤通りも暗渠化し道路になり、神有電車の駅もビルになっているので昭和3年以降の絵図である事は間違いないのに、本温泉は逆に大正15年までの姿に戻っているのがちょっと不思議だ。さらに「高等温泉」の表記まで復活している。

この版のスポンサー「堂かや」(現上大坊さん)が地図上に目立つようにマーキングされている。そしてこの絵図では省線の駅は完全に割愛されている。

●昭和4年以降 神有電車発行「有馬名所案内」

img892.jpg

栞の表面にはラヂウム温泉の貸室旅館「銀水荘」休憩室「楽水亭」の案内が刷られ「神鉄直営のラヂウム温泉云々」と記されている。町立のラヂウム温泉は省線有馬駅開業に合わせて大正4年に華々しく開業したものの、昭和4年経営不振により神有電車に無償貸与され、以降神有電車の経営となった。従って裏面の絵図も昭和4年以降の様子といえる。

この図では六甲山の一軒茶屋に至る四十八滝道や魚屋道なども描き入れられている。四十八滝道が開通したのは昭和4年。又同じく昭和4年に現在地に移り変わった有馬小学校まで、観光名所でもないのに大きく描かれているところをみるとやはり昭和4年過ぎのものだろう。


●昭和6年以降 宝塚有馬自動車発行「有馬温泉案内」

宝有自動車

絵図発行元の宝塚有馬自動車株式会社は昭和2年に設立された。 (昭和14年に現在の阪急バスに吸収合併されるまで存在した。)

大正14年町役場発行の絵図に似たレイアウトだが、さすが宝塚有馬自動車の発行だけあり、宝塚の旧温泉、新温泉、有馬行き自動車のりばなどを入れ込んである。さらに六甲山ホテル(昭和4年開業)や六甲登山ロープウエイ(昭和6年阪急の系列会社「六甲登山架空索道」により営業開始、昭和19年不要不急線とされ廃止された)、裏六甲ドライブウェイ(昭和3年開通)なども描かれており、自動車の普及をはじめとした交通手段の進歩や多様化、有馬を取り巻く環境の変化を感じることができる。

●昭和12年前後 中の坊発行「有馬温泉と名勝」

中の坊発行部分

中の坊が顧客向けに発行したもので折りたたむとハガキとなる。「通信文ヲ認メタル時ハ3銭切手認メザルトキハ2銭切手」とありハガキの通信費が2銭に値上がりした昭和12年以降と考えられる。昭和13年の阪神風水害の被害で閉鎖したラヂウム温泉や流失した赤橋(高橋)も描き入れられており、昭和12年頃だろう。

吉田初三郎版に似た構図だが、こちらは省線有馬駅も入れ込んである。また山越しに神戸港も描かれていて立地が分かるようになっている。この絵図には宿泊施設の名も入っているが、記載されている中で今は無い名前も多い。」「山月」 (現観光案内所の場所) 「ほととぎす」「うろこ」 (いずれも現川重泉郷荘敷地内) 「二階坊」 (現御所坊一部) 「玉川楼」 (現池の坊駐車場一部) 「花の坊」 (現花小宿) 「温泉旅館」 (現炭酸泉源公園内) 「堂加屋」 (現上大坊)、外国人向けでは「有馬ホテル」 (現クルーズヴィラ有馬) 「杉本ホテル」 (現やまと駐車場)  「マスダホテル」 (現摂泉荘)


●昭和13年以前 池の坊発行「有馬温泉ご案内」

p 012

池の坊旅館のパンフレットなので「池ノ坊」「池ノ坊山別荘」省線駅前の「池ノ坊待合所」が大きく描かれている。きれいな色合い、桜を描き入れる事、2つの川が街を丸く取り囲む構図などにより風水的理想郷、楽園感を醸しだしている。中央の愛宕山には今は無き「大悲閣」や「公会堂」が建っている。ラヂウム温泉が建っているので阪神大水害で流失した昭和13年以前のものだろう。


●昭和25年以降  神戸市貿易観光課、有馬温泉観光協会 発行

観光協会発行1-1

発行元のひとつ有馬温泉観光協会が発足したのが昭和24年10月だからそれ以降の絵図だ。

今までの絵図とアングルが異なっているし、筆致も昔の「キンダーブック」等の児童向け雑誌の絵に似ていてほっこりする。北から南を見ている訳だが、山を背にしている事で構図が落ち着いている。過去の有馬の絵葉書でよくある聖天宮からの俯瞰に近いということもあるが、個人的には一番しっくりと入ってくる。生活者からみても来訪者から見ても恐らくそうではないだろうか。 

絵図には太古橋近くの「袂石泉源」 (昭和14年ボーリング、現古泉閣泉源) 「有明泉源」 (昭和17年ボーリング ) 「天神泉源」 (昭和23年ボーリング25年説もあり) 「御所泉源」 (昭和26年ボーリング)  などの櫓が描かれている。昭和28年に開発された極楽泉源や、昭和30年に開発された妬泉源は描かれていないので、それ以前の発行であろう。

神鉄が昭和25年に開発した鱒養魚場が描かれているのでそれ以降と分かる。杖捨橋から稲荷神社の下に抜ける外周道路はまだ出来ていないのが分かる。またこの絵図には泉郷荘、三菱寮、逓信寮、白雲荘、有馬荘、鉄道保養所など保養所も黄色で記入されていて戦後一気に保養所が増えたのであろう様子がうかがえる。



《つづく》

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旅館、酒屋、土産物屋、など業種を越えた有馬温泉の8人の仲良しスケベー集団!?「合資会社有馬八助商店」で有馬サイダーを復活させようという事になったのは2002年でした。一員である私、当店主が少々器用なのを買われラベルデザインを任されましたが、プロのデザイナーでもない私としては変にオリジナリティーに拘ったり、モダンな要素を加味する必要もなく「過去からそのまま飛び出して来た!」様な復刻的なものを作りたかったので、古い資料にデザインソースを求めました。


ラベル製作を依頼された私は有馬温泉観光協会前事務局長鷹取嘉久氏の著書『見て聞いて歩く有馬』(平成8年発行)に有馬サイダー関連の数点のラベルが紹介されているのを見つけました。その中で一番インパクトがあったのが明治から大正時代に掛けて存在した有馬鉱泉合資会社の「ARIMA TANSAN TEPPO WATER (有馬炭酸てっぽう水)」の物(図1)です。単純ですがパワーを感じさせる大砲のトレードマークに魅せられ、これしか無いと思いました。そしてこの小さな白黒図版を元に、横長楕円を一般的な縦長楕円にしたり、大砲のディテールを推測して起こしたり、文字を起こしたり変更したり(例えば、「水」は昔の崩し字だと殆どの現代人には読めないと思うので解りやすい書体に変えました。)、当時のビールラベルの現存カラー図版から色彩を推測したりして現代版有馬サイダーのラベルは完成しました。もちろん企業名も「有馬鉱泉合資会社」を「合資会社有馬八助商店」に変更しています。因みにラベルを縦長にするアドバイスと「嘗て杉ケ谷に湧出し毒水と恐れられし炭酸水が日本のサイダーの原点なり」のうんちくコピーは御所坊の金井社長の手になるもの。「サイダー」のカタカナ文字は、うちの親父に書いて貰いました。(図2)(尚、最新版ラベルには、さらに原材料、内容量等の情報が加えられています。)
有馬炭酸てっぽう水 縦5.5横6.5cmのモノクロ図版           cidera.jpg

(図1 有馬炭酸てっぽう水 縦5.5横6.5cmのモノクロ図版)    (図2 現代版有馬サイダーラベル)

この「ARIMA TANSAN TEPPO WATER (有馬炭酸てっぽう水)」は明治34年から製造された炭酸水の銘柄で、明治35年の内国勧業博覧会では銅牌、アメリカのセントルイス博覧会では金牌を得、大正2年には商標登録もされています。「てっぽう水」の名前は瓶に入れて持ち帰った炭酸水は固く栓をしないとガス圧で栓がてっぽう玉の様に飛び出すことから付けられました。明治34年の設立時から大正6年に有馬町乙倉谷に移転するまで在った炭酸泉源隣接の工場写真を見ても同じソースと思しき大砲のトレードマークの看板が掲げられています。

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(炭酸泉源隣接当時の有馬鉱泉合資会社)        (看板の拡大)
私が興味を持ったのは、「てっぽう」と聞くと普通は銃を想像すると思いきや、巨大な大砲をトレードマークにしたその感性でした。現代人の私の目から見ると殺傷兵器ではありながら、その前時代的な、如何にも大砲と言わんばかりのルックス、「てっぽう」のネーミングとのギャップにどこかユーモアを感じてしまいます。しかし、もし現代に例えるならICBMとかの弾道ミサイルを商標にする様なものなので、あまり洒落にならないと思うのですが…。富国強兵を国策とし日清(明治27~28年)、日露(明治37~明治38年)の2度の戦争に勝利したイケイケドンドン時代ですから、全然OKだったのでしょう。感性も時代背景が作り出すのだと改めて思います。
(図1の原版拡大)      cider3.jpg

(図1の原版拡大)                 (ディテールを起こして作ったトレードマーク)

さて、少し前から俄然気になり出した事があります。それは果たしてこの型の大砲は実在したのか、したのならばいつ何処で作られた如何なるスペックの物で、いつ頃何処でどんな戦いに使用された物なのかを知ってみたくなったのです。如何にも203高地辺りを連想させる様背景の線を延ばし、訳もわからず、無責任にも大砲のディテールを描き起こした責任上?知っておきたい。出来ればまだ何処かに存在していて欲しい…。そして5月のゴールデンウィークを挟んだ繁忙期でしたが合間を見てウェブ検索しました。
先ず先入観もあり「203高地」、「日露戦争」、「大砲」とかのキーワードで大砲の画像を探しまくりましたが、当時の日本軍のは巨大でズ太い不恰好なの(失礼)ばかりで、(下写真) それらしい格好の良いのは出てきません。(兵器としてのスペックは解りませんが、素人目には何となく「てっぽう水」の大砲くんは筒もスマートで、お尻のラインなどとてもカッコイイ様な気がします。)

日露戦争で活躍した二十八センチ榴弾砲  靖国神社の二十八センチ榴弾砲

(日露戦争で活躍した二十八センチ榴弾砲。右は靖国神社の同砲。佐山二郎著『大砲入門』光人社2008年刊より)

検索していると、たまたま『大砲入門陸軍兵器徹底研究』佐山二郎著光人社刊という新刊本(2008年5月12日新装版発行)が出ている事がわかりました。有名な月刊『丸』を発行している出版社の本です。恐らく日本陸軍の大砲に違いないと思った私は早速アマゾンで取り寄せました。2日後、届いた本を満を持して開きました。そしてトレードマークと似た大砲の写真を探しました。どれも帯に短し襷に長しでピンと来ませんでしたが、48ページにとてもフォルムの似た小さな写真があり、少しだけ解説が付けられていました。(下写真)
t007.jpg      克式十二センチ加農

(克式十二センチ加農。佐山二郎著『大砲入門』光人社2008年刊より)


それによると「克式十二センチ加農。同砲は前心軸砲架。日清戦争で日本軍が鹵獲した清国軍の火砲である。」となっているのみでした。調べると「克式」とはドイツの「クルップ社製」の事でした。「加農」は「カノン砲」。それ以上の事はわかりません。そこで意を決した私は、出版社の光人社さんに著者である佐山二郎氏への取次ぎ願いと、「ありまサイダー」のラベルを添付した問い合わせ内容を書き駄目元でメールしました。
すると三日後、あろう事か何と著者で軍事技術史研究家の佐山二郎先生ご本人からメールが届いたではありませんか!

専門的な事が書かれているので、メールの文面をそのまま記載させて頂きます。(著書の写真使用共々佐山先生の許可を得ています。要点の部分の色分けは私がしました。)

『光人社からメールが転送されてきました。
拙著をお買い上げいただき有難うございます。

確かに48ページの大砲に似ていますが、トレードマークの大砲とは砲床以下が違います。48ページの大砲は砲床の前方に支点があり、発射すると砲架以上が後退して反動を吸収する仕組みを有していますが、トレードマークの大砲は砲架が砲床に固定されているようです。大砲のメーカーはドイツのクルップ社(克式)で間違いありません。年式は48ページの大砲より少し古いものです。1870~80年代(筆者注:日本では明治初期)の製品でしょう。大砲の種類は要塞に据え付ける要塞重砲です。口径は10cm~15cmでしょうか。

48ページの大砲は日本でも使用しましたが、トレードマークの大砲はあまりに旧式のゆえに陸軍では使用していません。
トレードマークの大砲は何を見て描いたかですが、トレードマークのデザイン化するときに多少の省略、誇張が入っているかもしれませんが、デッサンはしっかりしていますので、全体の構造とバランスは正確だと思われます。日清戦争では清国からたくさんの大砲を鹵獲しまして、その中にはトレードマークのような大砲もあったと思いますが、戦勝記念に各地の神社仏閣に展示したのです。その大砲を見て、戦勝を祝うためと商標の「てっぽう」にかけてトレードマークにしたのではないでしょうか。
それらの大砲は今はほとんど残っていませんが、靖国神社遊就館にはこれと似た大砲が1門残っているはずです。
明治も日露戦争になりますと大砲の形が一変しますので、トレードマークの大砲は日清戦争直後に描かれたものでしょう。
以上、確たることは分かりませんが、ご参考になれば幸いです。
佐山二郎』

正に鳥肌が立つ思いです。そうですか…日本も清国も、全部がそうでは無いにしろ同じメーカーの大砲で打ち合いをしていた訳ですね。そういえば『大砲入門陸軍兵器徹底研究』の中で似たような逸話が紹介してあります。日露戦争の折、日本軍の二十八センチ榴弾砲(上に写真あり)はイタリア式でありドイツのクルップ式を採用したもの。対するロシアの二十八センチ臼砲もクルップ社から購入したもので元をただせば同じ腹から生まれた兄弟。大体のスペックは同じだったそうです。日本軍が発射した弾丸は設定の問題で相当数が機能せず不発弾となりましたが、ロシア軍はそれをせっせと収集し、信管交換の上、日本軍めがけて発射。日本軍は元々自軍の発射したその弾丸により実際に相当の損害を受けたそうです。大勢の兵隊が亡くなっているでしょうから、笑い話ではすみませんが…。

又、形が美しいと思ったトレードマークの大砲は「あまりに旧式のゆえに陸軍では使用していません。」との事ですし、巨大でズ太く不恰好と思っていた二十八センチ榴弾砲の方が新しくてうんとハイスペックだったわけです。当然かも知れませんがスペックとルックスの美しさは比例しないんですね。
そして、「トレードマークの大砲は日清戦争直後に描かれたものでしょう。」と書かれていますが、なるほど「てっぽう水」の製造開始は明治34年ですから日清戦争(明治27~28年)の6年後で、正に時代は合致します。
謎が解け興奮冷めやらぬ私に更なるサプライズが待っていました。
当サイトへの掲載許可を求めた私のメールに対し佐山二郎先生から次の様なメールが届きました。

『大砲のことをお書きになるのでしたら、ご自由にお使いください。似たような大砲の写真を添付しましたので。どれも日清戦争の戦利品です。
佐山』

今回のトピックスの最後に上記メールに添付頂いた写真をご紹介しましょう。

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佐山先生、お忙しい中、今回は本当にありがとうございました。
今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
有馬に便利で安い巡回バスが出来てしばらく経ちます。坂の多い街なので結構便利で、観光客の方にも大好評です。せっかく出来た巡回バスを盛り上げようと、有馬温泉旅館協同組合が企画したのが、『有馬ループバス炭酸せんべい』です。多少器用なのを買われ、それまでも各種イベントポスターを描かせて貰っていたりした関係で(無償です。)、当店主がデザインを依頼されました。
 コンセプトが昔の子供雑誌の付録の「肩掛け紐付紙かばん」との事でしたので、レトロ好きの店主はわくわくしながら取り組みました。かなり恥ずかしいのですが、パッケージが出来るまでの試行錯誤のプロセスをご紹介します。店主が真っ先に思いついたのは「すごろく」仕立てで有馬の名所を紹介する事でした。「子供向け」ですから「大探検双六」に決まりです。
 タイムリミットが迫っており、ゆっくり案を練る時間が無くてかなりきつかったので絵だけで堪忍してもらいました。出来上がったパッケージの文字の字体や絵とのバランスを見て、正直時間さえあれば文字までトータルに自分ですれば良かったとの思いは多少有りますが、内容的には、少ない時間で素人が良くやったとも思います。
 小さいお子様が買ってもらって肩から掛けているのを見ると堪らなく嬉しくなります。
表側にはモチーフのループバスを中心にした楽しい内容にしたかったので、いろいろ試行錯誤しました。以下はその試行錯誤のプロセスです。

製作プロセス
タイトルの両側にボクちゃんと女の子が。
製作
こんな文字入りでも良かったかも。
製作
おやおや動物が登場しちゃいましたヨ。

製作
バスのアングルは決定。ポストが前に。
製作
ほぼ出来ました。後は楽しく塗り絵。
有馬


出来ました。蓋の部分は、絵が多少ダブります。
製作
ラフレイアウト、内容とも試行錯誤を繰り返しました。『上がり』の炭酸せんべいの山に埋もれている場面は最後に思い付きました。小さい時に見て以来大好きなマックロスキーの『ゆかいなホーマー君』という絵本の中でドーナッツの山に埋もれている場面がありそのイメージで描きました。

有馬ループバス炭酸せんべい
サイコロは付いていません。念のため。

*実は「ループバス炭酸せんべい」は大変残念ながら2009年現在はお役目を終え販売していません。只、すごろくなどは良く出来ているので、今後新たな商品展開に利用してやろうかとも考えているところです。