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タイムスリップ

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そろそろ桜の季節。
桜の似合う有馬温泉にとって最高の季節だ。
今回は有馬温泉の桜の古い風景を紹介する。 
有馬温泉と桜の関係や歴史、名所などは過去の紹介記事「有馬温泉と桜」もご参照ください。

さて最初にご紹介するのは昔の有馬名所鼓ヶ滝入り口にあった『有明桜』だ。
ヤマザクラの巨木であったと伝えられている。
昔の有馬名所有明桜
この写真は有明桜の写る最古の写真で、明治時代の写真。
細い山道の傍らの石碑のところにあるのが「有明桜」。
白黒なのは致し方のないところ。進行方向をもう少し行けば鼓ヶ滝がある。(写真提供藤井清氏)

昔の有馬名所有明桜
(絵はがきの部分拡大)大正後期頃の同じ場所。枝ぶりから同じ木である事がわかる。 
同じ場所かと見紛うほど道は広げられ、小屋や、案内看板が立ち、観光地の雰囲気になっている。

昔の有馬名所有明桜

こちらは同じ場所の昭和初期の彩色絵はがき。上の写真とほとんど変化は無い。

神戸後藤製有明桜の絵はがき

こちらは「神戸後藤製」と書いてある彩色絵はがき。(色は画像処理で現物より強調しています。)
「有馬温泉鼓ヶ滝有明桜」とあるが、写っている桜はどうも上の桜とは枝ぶりが違う。
こちらにも石碑らしきものが建っているがその形も違いそうだ。
道の細さ、道先案内の白い柱の同一性から、この彩色写真は明治中期の最古の写真に
近い時代のようだが…。絵はがきの普及は明治33年以降なのでそれ以降。
しかしいったいどういうことだろう。

昔の有馬名所有明桜

ヒントになったのはこの絵はがきの写真。
石碑がこちらとあちらのどちらの桜の根元にもあり合計2つ写っている。
道先案内の白い柱は左側。ということは「神戸後藤製」と同じ方向から撮った写真だ。
こちら側の『有明桜』の根元の石碑が「神戸後藤製」ではギリギリ、フレームから外れている訳だ。
そして『有明桜』はこの時代には2本あったのだ。と個人的には推論したいと思う。
どの写真にも写っている、道の反対側の枯れた古木も桜みたいだから、
群生自体は2本と言わず何本もあったと考える方が自然かもしれない。

さて「神戸後藤製」の彩色絵はがきだが、道先案内の白い柱には
「右とりぢごくたんさん水左きよ水おんせん」と書いてある。三差路になっていたようだ。
直進方向は「とりぢごくたんさん水」方面写真手前が鼓ヶ滝方向だろう。
しかし、この写真で気になるのは桜より、柴を背たらって行き来している人たちだ。
当時の燃料は薪で、焚付けには燃えやすい柴を利用していたから、
宿屋の多い有馬温泉では山で刈った柴を頻繁に運ぶ必要があったのだろう。

働く子供
よく見ると、柴を担いで運んでいるのは皆、どうみても現代ならゲームに夢中になっている年頃の
坊主頭のかわいらしい少年たち。この子たちも社会的な分業をきっちりとになっていたわけだ。
昔の人は偉かったのだなーとつくづく思う。


話題変わって下の素敵なモノクロ写真は郷土史に詳しい藤井清氏の撮影。
多彩な藤井氏は写真もプロ級だ。(ちなみに”アジサイ”研究では日本有数の研究者だ。)

昭和40年頃だろうか。モノクロの写真の微妙なトーンから春の色を感じて欲しい。
写真に写る有馬川沿いの桜並木は今はもう無い。神戸電鉄駅横の桜並木もほぼ無い。
昭和40年代の有馬温泉の桜
昭和40年代の有馬温泉の桜
有馬川沿い。木調のコンクリート製手すりが懐かしい。自動車の通行量が増えた為、
安全な通行を確保する為の張り出し歩道設置に伴い、桜も手すりも撤去された。致し方の無いところ。
昭和40年代の有馬温泉の桜
神戸電鉄駅横の坂道。
昭和40年代の有馬温泉の桜

神戸電鉄駅横の桜並木の坂を悠々と下ってくる自動車。バンパーが輝き、まるで時間が止まっている様。

しかし、自分の住む街の写真。何気ない日常風景や、特に人が写っているヤツ。
撮っておく事の大切さを改めて痛感する。


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              『ワンダフル有馬』


1965年(昭和40年)に有馬温泉観光協会が発行した『ワンダフル有馬』という小冊子に面白い未来図が載っていたので紹介します。
『ワンダフル有馬』に見る有馬温泉の未来図

山の頂には有馬タワー。遊園地のような施設やジェットコースター。立体交差の自動車道路。大きなヘリポート。大型バスを収容できる立体駐車場。モノレールのような乗り物がいくつもの山を貫通して通っています。高速道路のインターチェンジから分岐した道路も山を貫通して一気に有馬温泉へ…。遠くに見える明石海峡には夢の架け橋が…。もちろんイメージのイラストではありますが、少なくとも、どんな物や事を未来に夢見ていたのかが何となく感じとれるのではないでしょうか。
『ワンダフル有馬』に見る有馬温泉の未来図

説明文に目を遣って見ましょう。「日本最古の歴史を誇る有馬温泉は、その規模においても施設においても、いまや日本最大といわれるまでに発展をとげた。六甲の山ふところ深く、ミドリの風に湯けむりがやわらかくとけこむ有馬特有の自然はむかしと少しも変わらない。しかし、まわりの山々の頂きにまで登りつめたホテル・旅館群やスポーツをふくめたもろもろのレジャー施設、アミの目のように張りめぐらされた完全舗装の回遊道路など、まったく目をみはるばかりの盛観を呈している。ことに、有馬温泉にとってなによりの強みは国立公園六甲山と有機的に一体化し、バラエティーに富んだ観光ルートの一環が完成したことだ。これによって有馬はだれにでもいたって気やすく、かつ十二分に楽しめる保養センターとしてますますその機能を高めることになった。今日の有馬温泉の繁栄をもたらしたもう一つの要因はいうまでもなく交通事情の発達だ。神戸電鉄の全線複線化、神戸~六甲山~有馬を結ぶ高速モノレール、六甲山上から有馬へのロープウエイ、神戸の都心から十五分の六甲トンネルの開通は数年前の話。ユメとまでいわれた明石・鳴門両海峡のかけ橋、名神高速道路につながる中国縦貫道、さらには国鉄の山陽新幹線と世紀をかざる事業が近年つぎつぎと完成した事は、自然公園・有馬温泉への道が地球のすみずみにまで直結したとしても過言ではあるまい。」

どうやら既に夢に到達しているに違いない未来に於いて書かれているであろうハズの解説であるらしい。多分に、作文の要素はあるでしょうが…。2009年現在、既に達成できた夢もあれば、モノレールや、スポーツを含めたレジャー施設、アミの目のように張りめぐらされた完全舗装の回遊道路など、残念ながらそうはならなかった夢もあります。どちらかというと、そうならなくて良かったような気がするのは私だけでしょうか。第一、今なら真っ先に求められると言っても過言ではない『温泉情緒』とか全然考えてないでしょ?

1965年といえば45年前。1958年生まれの私が8歳の時です。日本航空の海外旅行パックツアー『ジャルパック』が発売開始され、万博の大阪開催とテーマ『人類の進歩と調和』が決定された年。東海道新幹線開通し、初の国産旅客機YS-11が就航した年です。高度経済成長の真っ只中。日本中が猫も杓子も観光に沸き立った…何とまあこれ以上無いと思われる意気揚々の時代ですね。

有馬温泉でも5年後に万博を控え、旅館案内所が出来、今となっては惜しまれる木造の旅館建築がどんどん鉄筋のビルに建て替えられて行った時代です。これに先立つ1961年には、唐破風の屋根が特徴的な木造3階建ての本温泉は神戸市によって鉄筋コンクリート建築に建て替えられましたし、芦有道路(芦屋・有馬間のドライブウエイ)も開通。1967年には六甲トンネルも開通しました。そして迎えた1970年、施設改築で収容キャパシティーを格段に増やした有馬温泉は未曾有の万博景気に沸きました。日本一距離が長い六甲有馬ロープウエイが開通したのもこの年でした。時代の空気そのものが、成熟期の今とはまったく違う、トンデモナイ時代だったんですね。

45年後の2009年現在から見たらトンデモ未来図に見える『有馬の未来図』ですが、有馬、いいえ、日本中の誰もがそういう夢を見た時代だったのだと思います。考えて見ればたったその26年前に焼け跡から出発した日本だったのですから…。ありまサイダーのラベル研究でも触れましたが、ここでもやはり、人間の感性や価値観は時代背景が作り出すのだという事が分かります。町並みに『郷愁』や『温泉情緒』や『癒し』をもとめる現在の価値観も、今後絶対に変わらないとは言い切れません。

個人的な理想像ですが、50~100年後位の将来の有馬温泉は、”外見的”には、”ビル的”な建物が消滅したもっと”古めかしい”明治時代のような町並みになればいいなと思います。高層建築も何百年も前からあったかのような木造風の意匠です。太閤通りの暗渠も取っ払って滝川に日を当ててやり、両側の歩道間にはいくつも橋を架けて人が回遊できるようにするのです。相反するようですが、建築技術や、交通手段などの、より一層のテクノロジーの進歩が、逆にそれを可能にするような方向も考えられるのではないでしょうか。現在の我々が描く有馬温泉の来予想図が、50年後100年後の識者にとって『トンデモ未来予想図』で無い事を祈るばかりです。


話題は大きく逸れますが、当時子供だった私が覚えているのは、1964年放送の『0戦はやと』『忍者部隊月光』『風のフジ丸』『ビッグX』、1965年放映開始の『スーパージェッター』『宇宙人ピピ』『宇宙少年ソラン』『宇宙エース』『遊星少年パピイ』『ワンダー3』『オバケのQ太郎』『ジャングル大帝』『宇宙パトロールホッパ』等の番組の記憶です。これらは全部、白黒テレビに噛り付いて見ていた記憶がありますから、しっかりテレビっ子だった訳です。又、暗い話題ではアメリカが北ベトナムに対する爆撃を開始した年で、私と同じ名前の『よしのぶちゃん誘拐殺人事件』の犯人が逮捕された年でもあり、それ以来50歳に成った今も私は町では"その名前"で呼ばれている次第です。
先ずは写真を紹介します。水辺の東屋に子供達がいます。
明治時代の”横浜写真”に写る有馬温泉
女の子は着物ですが男の子は当たり前の様に裸です。
水辺の子供たち

この大判サイズの写真は明治時代のもので”横浜写真”と言われた外国人観光客向けのものです。写真右下にはARIMAと文字が入っています。
ところでここは有馬の何処でしょう?船が浮かべてあるくらいですからそこそこの大きさの池か、川辺の様に見得ますが…。

先日郷土史に詳しい藤井清氏にお尋ねしたところ。「ああ、これは瑞宝寺公園や」とのこと。瑞宝寺公園と言えば”日暮の庭”が紅葉の名所となっていて、秋には茶会も開かれ、大勢の人が訪れるあの場所です。石垣との位置関係から見る限り公園の横に流れる六甲川の河原でもない様です。どこにこんな水辺があったのでしょう。右側の石垣がヒントになるものと思います。石組みはひょっとしたら積み替えをしているかもしれませんが、多少の手掛りは残っているかも知れませんので機会があれば検証してみたいと思います。恐らく下の写真の辺りは池だったのではないかと思われます。

有馬 瑞宝寺公園
有馬 瑞宝寺公園

藤井氏によると庭は何度もレイアウトが替えられているそうです。昭和初期と思われる下の絵はがきでは庭をズドンと横切って一直線に道が付いています。
有馬 瑞宝寺日暮の庭
10176052.jpg

まだ今の方が趣きあるような気はしますが、しかし今の環境も、笹を植え込んであったり、歩道を舗装してあったり、紅葉にとっては決して良い環境ではないという意見もあります。
摂州有馬細見図独案内(部分)
 摂州有馬細見図独案内(部分) 江阿弥画 元文2年(1737)版

さて今回は、いよいよ江戸時代中期の有馬温泉に踏み込んで行きましょう。主人公はあなたです。(『滑稽有馬紀行』を参考にしましたが、ある程度は私の想像である事をお断りしておきます。)

【有馬に到着】

 船坂からのルートの最後、うねうねとした山道を抜け、瑞宝寺の門前を横切り、有馬の東側に流れる六甲川まで下ります。川原の岩塊を飛び越え対岸の堤を登り切るといよいよ街の入口です。さて京から2日間も掛けてたどり着いた有馬温泉はどんな様子でしょう。

 町の入り口『京口』から続く4メートル幅ほどの細い道には、途中、水天宮下辺りから道の真ん中に幅1メートル程の排水路が通っていて、道の両側に添う様に木造の店屋の家並みがなだらかに下って続いていました。家々の屋根は殆どが瓦葺ですが、中には板屋根にごろ石を載せている家や板葺の家もあります。水路には所々には石橋も渡してあります。道に沿って坂を下るに従い家屋も密集の度合いが増し、2階、3階建ての建物が多くなってきました。たいてい1階は、店屋で2階,3階が宿屋になっていて、長屋になっている家並みも結構あります。1階の店屋では土間の奥に畳敷きの座敷があって、客が座敷の縁に腰掛けて買い物をしています。奥では職人がそれぞれの店の商品(竹篭細工や筆など)を手さばき良く加工しています。(今の西田筆店さんの様な感じでしょうか。)店先には格納式の縁台を広げ、商材の竹篭などを並べ、軒下からも商品を吊ったりしてディスプレイしています。筆の絵の描いた木の看板を吊っている店もあります。上の階の宿の宿泊客は縁側に腰を掛けたりして、のんびり涼んでいる様子です。

 京口から200メートル程下った道の左側に「うわなりゆ」と書いてある温泉の井戸があります。美人が覗くと嫉妬して呻く様な音が鳴ると云われ名所になっています。それを過ぎた辺りには酒と肴を出すお食事処もありました。さらに60メートル程下った、同じく道の左側に名所と思しき「眼洗い湯」という井戸があり、小さな社が設けてあります。(今たこ焼き屋さんのある場所の少し奥辺りだそうです。)人々が賑やかに集まっています。周辺には竹細工屋、筆屋の他にも休み処や、季節には山盛りの松茸を売る八百屋、山の中の町なのに新鮮な海の魚が並んでいる魚屋などもあります。狭い通りにはくつろいだ格好の人々が途切れる事なく行き交っています。毎日がお祭りのような不思議な雰囲気が漂っていて、何処か桃源郷の趣きです。さらに80メートル程下ると、いよいよ左側に檜肌葺平屋の元湯の、『二の湯』入り口が見えてきました。周りの宿屋と比べても案外こじんまりとした建物です。『合幕』と白い文字で書かれた藍染の暖簾が掛かっており、その上の軒下には夜には火が燈るであろう灯籠が吊ってありました。何やら厳かな雰囲気です。


 当時の宿屋の数は豊臣秀吉が「坊」と呼ばれる宿坊数を12から20に増やして以来20坊のままながら、江戸時代中期以降はそれぞれの系列に「小宿」と呼ばれた庶民向けの滞在型の宿などが増え充実していました。記録によると「小宿」は1670年代で45軒(『迎湯有馬名所鑑』)、1737年で一の湯に33軒、二の湯に34軒計67軒(『摂州有馬細見図独案内』)、1850年には80余軒(『有馬温泉紀行』)あったようです。小宿は商屋(竹細工屋、筆屋、魚屋、八百屋、糸細工屋、その他)の2階,3階である場合がほとんど(所謂“商人宿”)で、数軒が長屋作りになっている場合もありました。言い伝えで『有馬千軒』といわれた繁栄の時代を迎えるのもこの頃からです。(但し『○○千軒』は数が多い例えとして良く使われる表現で、実際には千軒もあった訳ではなく、実際の記録上で最も多かった宝永7年(1710年)で長屋も含めても560余軒でした。)

宝永7年(1710年)の『有馬山絵図』

宝永7年(1710年)の『有馬山絵図』(上図)を見ると、やはり有馬温泉は温泉寺を中心にした町であることがとても良くわかります。篭屋町・鍛冶町・筆屋町・魚の棚町などの町名もあり、篭や筆、刃物などを製造する職人が効率よく仕事を分業するために固まって住んでいたと思われます。またこの地図で見る限り(家屋を記号的に表現しているのかもしれませんが、)ほとんどの家屋が平屋造りのように見えますから、、1700年~1800年位の間に、客数増加に対応する為、「坊」「小宿」増設の目的で家屋の複層化が進んだのかもしれません。


【宿に到着】

二の湯向かいにある「兵衛」に滞在する事にします。これからしばらくあなたも世間の柵(しがらみ)を抜け出して江戸時代の有馬温泉でしばし理想のスローライフを満喫しましょう!

 宿の暖簾を潜ります。女中が出迎え人数を聞いてきました。あなたが人数を答えると、暫くして人数分のお茶と、タライでの足湯の接待を受けます。次に宿泊や入浴のシステムとコースの説明を受け、滞在期間やどの方法での入浴かを決め返事します。『合幕』という数組抱き合わせ入浴で、1人1週間2匁のコースを選びました。 そして、3階の部屋に案内されます。 部屋の中を見ると釜などの自炊設備が整っています。あなたはこの部屋が気に入り、滞在期間中借りる事を返事しました。あなたが再度階下に下り待機している間に、下女や宿の女将が部屋を掃除し、荷物を運び入れてくれました。掃除し終わった部屋に通されると下女が火鉢・煙草盆を持って来ました。

 暫くして宿専属の仕出し屋が生活用品(布団、箸、布巾、下駄、薪、割り木、炭、白米、 魚、野菜、油、醤油、塩等)を、明細を通い帖(納品書お客様控え帖)に記入した物を添え、納めに来ました。割り木は普段自分で釜を焚いた事が無い人にも簡単な様に燃えやすく配慮されています。又、醤油や油は竹筒入りで、縄で台所の柱の折り釘に掛けるようになっています。布団にはグレードがありますが、折角ですから“上”を頼むことにします。風呂に行っている間にでも届いているのでしょう。
後、忘れずに下女に頼んで、夜の宴に『湯女』を呼んでもらう手配をしてもらっておきましょう!太鼓と三味線も。それと酒宴の肴も料理屋に注文してもらっておきましょう。

≪宿泊料金≫

 実は元々有馬の宿は「宿坊」という性格なので、一般的な他の土地の宿とは違い、基本的に決まった泊まり賃の設定は無く、客は諸々の道具等の借り賃を支払い、「心付け」を渡したそうです。

 ◆自炊宿泊の場合: 泊り賃(=心付け)、七厘、鍋、釜の借り賃は宿に、布団、薪、炭、米、 魚、野菜、油、醤油、塩などの生活道具や食材代等は仕出屋に払いました。
◆食事付宿泊の場合: 泊り賃(=心付け)は宿に、食事代、布団代は仕出屋に支払いました。

 安政元年(1854年)に大火があり、有馬全体が焼けてしまった折の申合書(今後の取り決め)には、旅籠一人(朝食、夕食付)上2匁5分、中2匁、下、1匁8分とあり、そのころにはそういう風に泊まり賃を取るシステムに変わっているのが分かります。

 宿には現在のように一夜客も泊まれ、宿に手配して貰い食事を頼むことも出来ましたが、当時、ほとんどの客は滞在型で、湯治客自身が自炊しました。 小宿の宿泊階には自炊の為のかまどや調度もあり、部屋毎に使用した塩、醤油、野菜、魚、薪などの注文を控える通い帳を折釘に掛けて滞在しました。米や、薪は女中が運び、仕出し屋が日常の生活に必要なものを売りに来て、売った物の明細を客の控えとして通い帳に書き込んでいきます。

 厠は大抵建物の裏手の庭に離れて在ります。落語『有馬小便』はそういったシチュェーションが解るとより良く理解できますね。

 湯治の滞在期間は「一廻り」が基本の契約単位で、有馬では、1週間の事でした。(ちなみに城崎温泉では一廻りは5日間だったとか。)長期滞在もこの単位が基本になります。
それにしても1週間が基本なんて、現在と比べて何と優雅ではないですか!交通手段が基本的に徒歩で、何日も掛けて歩いて有馬に来た訳ですから、やはり1泊や2泊では納得できませんね。

≪宿泊にともなう付帯費用≫

 一間駆り切りの湯治客には、町内を掃除し衛生を維持するための費用負担である『間の銭』として40数文(時代によって変動しました。)を集める決まりがあり、町内の担当者が一廻り(1週間)の前日に集めに廻りました。
又、宿への心付けの他に湯女への心付け(かんざし代)や下男、下女(女中)への心付けなど、金額に決まりはありませんでしたが渡すのが常でした。宿の子供や娘に渡したりもした様で、長期滞在ならではのほのぼのとした心の通った交流が垣間見られます。

有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 温泉浴舎の図有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 本温泉の図

有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 嘉永3年(1850)西尾市岩瀬文庫蔵

【ついに元湯に入る!】

 前帯の綺麗な着物を着た若い女性が、元湯の入浴時間が来た事を知らせに、あなたの坊舎に息せき切って走ってきました。噂に聞く『湯女』です。年の頃なら17、18歳でしょうか。少し幼さの残る色白美人ですが、眉を剃り白粉を塗ってお歯黒まで注したその姿には不思議な色香が漂います。坊の若い下女が客の部屋に行き客の手ぬぐい、浴衣、替えの下着、湯を掛ける杓を預かり、あなたに下駄を履くように促し、あなたを先導して元湯まで案内します。彼女は、名前を「みや」と言い、この兵衛の湯女は代々「みや」と名のる事や、湯女には彼女ら若い『小湯女』と年配の「かか」と呼ばれる『大湯女』がある事を教えてくれました。程なく神社風の建物の元湯に到着しました。『合幕』と染められた暖簾を潜ると、中にも天井に金灯籠が吊ってありました。薄暗い中にいろんな坊舎の担当の湯女達や宿の下男・下女が何人も腰掛けに座っています。どの湯女もやはり若く、中には未だ少女といっても良い程の幼い娘もいます。みやが建物両側にある畳敷きの脱衣場へ案内します。みやはあなたが帯を解き着物を脱ぐと浴衣を着せ、下女が下駄を整えると、あなたはそれを履き、正面の浴場の観音開きの入り口まで足を進めます。湯女が又浴衣を脱がし手ぬぐいを渡します。それを受け取ると下駄を脱ぎ浴室の板間に上がり、いよいよ部屋の真ん中にある3m半四方の湯壷に向かいます。

滑稽有馬紀行

滑稽有馬紀行

浴室は薄暗く隅の棚で焚かれている灯明の揺らめく炎が揺らめいています。浴場の上には神棚が祀られています。湯壷は深くて立ったまま入浴しますが、端の方から石段になっていてゆっくりと段を下りて行きます。底の敷石の隙間から3,4箇所温泉が湧き出しています。男も、女もそれぞれ入浴用のフンドシ、腰巻をつけたまま入浴します。『合幕』の時間なので何組かの限定ですから、楽しく世間話のやりとりなどもあります。“お湯の中にも花が咲く”とはこの事でしょう。湯女は元湯の入り口を入った所で客を待っています。耳を澄ますと浴室の外から大勢の湯女や下女達が楽しそうに雑談している声が聞こえてきます。湯から上がり浴室から出る時はあなたの坊の名「兵衛」と呼びましょう。担当の湯女みやが前に下駄を置き、後ろから浴衣を着せ、上がり場へ案内します。そこで湯女が背中を拭いてくれ、預けていた衣類と帯を渡され着ます。暖簾を出ると下女を引き連れ、宿に戻ります。

 部屋に戻って暫くすると下女が濡れた浴衣・手拭・下帯を縁側に干しに来ました。みやは元湯での仕事が終わった後、8時過ぎ頃に座敷に来るそうなのでゆっくり休むことにしましょう。
 申の刻(4時)、遠くから善福寺の御勤め太鼓の音が聞こえてきました。しばらく寛いでいると夕方になりました。暗くなってきたので行灯に火を燈しましょう。下女がご飯を焚きに来ました。又しばらく後、今度は年配の湯女が入浴案内に来ました。下女が縁に干した浴衣、手拭、フンドシを竿から降ろして持ってきました。

 昼と同じように元湯へ行きます。元湯の暖簾を潜ると、昼間は灯っていなかった真ん中の金灯籠に火が入って、ゆらゆらと艶かしい光りを放っていました。残念ながら(?)夜の湯女は皆4,50歳台でした。夜は若い湯女だと酒の一杯入った客が物騒だからでしょうか。或いはお座敷の準備で忙しいのでしょうか。ちょっと残念です。でも8時からのお座敷が楽しみです。

 宿泊施設の増加に対し、当時の有馬温泉は今と違い温泉の湧出量も少なく温泉施設も自噴の元湯がひとつあるだけでした。それも南北に七間、東西に三間ほどの檜肌葺きの建物が1棟あっただけで、浴槽も、南北に2丈余り、東西1丈余りで中央に板仕切りがありました。仕切り板の南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸(約115cm)で皆立って入浴しました。元湯の観音開きの戸を入ると金灯籠があり温泉寺が毎晩火を灯しました。(西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850年)浴室内正面には神棚があり、湯船の隅の棚には昼夜問わず、巻貝に盛った蝋燭の灯明が焚かれました。(布門『有馬日記』1738)

 湯治客は皆、各坊舎、小宿からひとつしか無いこの元湯に出かけるシステムになっていましたから大変混雑しました。何分湯量が少なかった為、道後温泉のような身分の高い人専用の湯船等は無く、時間差はあれ身分の違いに関係なくすべての人が同じ湯船に浸かりました。当時ですから男女混浴でしたが、基本的に客は入場時に渡された入浴用の浴衣(腰巻、ふんどし)を付け局部は隠した状態のまま入浴しており、風紀は保たれていた様です。

 効率的かつ混乱の無い様客をさばく為に「一の湯」に10坊とその系列の小宿、「二の湯」に10坊とその系列の小宿、それぞれ決まった坊舎の客が割り当てられ、時間制限制や人数制限、又、『幕湯』という貸切りの設定などもありました。そしてこれらをうまくコントロールするのが『湯女(ゆな)』と呼ばれた人たちの役目でした。制限時間になっても湯から上がらない客は手に棒を持った湯女に「上がれ、上がれ」と追い立てられ、慌ただしく逃げるように湯から出たそうです。

 湯船の底にひかれた敷石の間から新鮮な温泉が自噴していたといわれています。(今でも本温泉『金の湯』は湯治の元湯と同じ場所ですが、当時は現在のようにボーリングして地中の温泉をそのままポンプで吸いだしているのではなく、完全な自噴だったので、自然と適温になっていたのかもしれません。只、時代により温度も変化しているようで、林羅山が1621年に入湯したおりは非常に熱く、本居太平『有馬日記』1782年や1827年『滑稽有馬紀行』ではぬるかったといいます。)

≪入浴施設の料金≫

霊験あらたかな有馬温泉は「薬師の湯」として、温泉寺を中心とした寺院が管轄していました。寺院は、入浴客から入浴料にあたる『灯明銭』を取り、温泉や寺院の運営費用や収益にあてていました。

  湯治客の場合、一廻り目の前日に「灯明坊主」(集金人)が宿泊の部屋まで出向き『灯明銭』を集めました。(江戸末期まで)  一の湯は施薬院(現天神泉源横)、二の湯は報恩寺(現「有馬の工房」の場所)それぞれの寺が灯明の担当(天野信景随筆集1733年)、一の湯は御所坊、二の湯は兵衛が灯明を献じ、『灯明銭』は温泉寺が集金。(西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850年)と、やはり時代の流れでシステムは少しずつ変わって行った様です。

又、湯治客の場合の灯明銭は下記の様に選択する入浴形態により異なっていました。(一見の入浴の場合の灯明銭は記録が見つからずわかりません。)

 ◆『幕湯(本幕)』 (貸切り)入り口に貸切する坊屋の印などの好みの染のれんを吊り、他の客が入らない様にした。
 料金:人数に関係なく何廻りでも 銀1枚  (『滑稽有馬紀行』1827)

 ◆『合幕』 入り口に「合幕」と白抜きした藍染ののれんを掛け、2~3組の知り合い同志が入り、他の客が入らない様にした。
料金:1人1廻り(1週間) 2匁(もんめ)  (『滑稽有馬紀行』1827)   3匁5分 (西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850)

 (『幕湯』、『合幕』は日に3度程泊り客に案内が来た。)

 ◆『入り込み(追い込み)』   雑多な湯治客による自由入浴  料金:無料 (『滑稽有馬紀行』1827)
1人1週間2匁(西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850)
 (料金も、年代により少しずつ変化しているみたいです。)

 寺院は又、温泉に入る際の諸注意や心構えを書いた『湯文(ゆぶみ)』を発行しました。『湯文』は各坊に備えられ、湯治客に配られました。一見の入浴客の場合は、まず『報恩寺』で『灯明銭』を払い『湯文』をもらってから元湯に入ったようです。『湯文』自体がチケットの役割になっていたのかもしれません。

【小湯女はアイドル】

 元湯で温まって宿に戻って暫くすると女将が料理屋に頼んでおいた料理を持ってきました。間も無くお待ちかねの湯女みやが艶やかな衣裳に身を包み手には燭台を持って、下女は太鼓を持ってきました。三味線を持ったかか(大湯女)も来ました。「旦那さん、今宵は(お呼び頂いて)おありがとうございます。」と湯女達がお辞儀をします。宴の始まりです。一通りお酒が入った頃お定まりの「有馬節」が三味線や太鼓に合わせて披露されます。その後は「けん」遊びで負けた人が杯の酒を飲み干すゲームです。大湯女に京で流行っているという「豆けん」(ちょっとエッチなジャンケン)を教えてもらい散々盛り上がってしまいます。”歌って踊れるアイドル”小湯女との楽しい時間はあっと言う間に過ぎていきます。

滑稽有馬紀行

滑稽有馬紀行

 「今宵はおありがとうございます。お早うお休みあい成りませ」湯女達が挨拶をして帰って行きました。ちょっと寂しい気もしますがひと時を楽しく過ごせた事に感謝して今夜は大人しく床に就く事にしましょう。何せ有馬には養生に来ている訳ですから!

 元々有馬の湯女は鎌倉時代仁西が有馬温泉を復興し12坊を建てた折、温泉管理のためにあてがわれたといわれていますが、詳細は不明です。残存文献では室町時代長享元年(1487)の『政覚大僧正記』にはじめて「湯女」の記述が出て来ます。言い伝えでは、昔は白衣赤袴の装束を付け、歯を染め眉を描き、公卿や高僧の入浴の際その座で碁を囲んだり琴を弾いたり和歌を詠じたり謡などによって旅のつれづれを慰めることを勤めにしていたそうで、相当な教養と格式が必要だったそうです。豊臣秀吉も扶持米を与え優遇しましたが、寛永頃(1624~43)徳川家光の時代に扶持米が廃止され、扶持米という収入源を失い格式も薄れた湯女はそれ以降、前帯をして酒席にも出、地歌・替歌・即興の踊りを披露するようになったそうです。

 江戸時代には、20坊すべてにそれぞれ、元湯で湯治客のお世話をする係りである2人の湯女がいました。一人は『大湯女(かか湯女)』と呼ばれ40歳~50歳台半ばでした。もう一人は『小湯女(娘湯女)』と呼ばれた13,14歳~22,23歳(平均年齢17,18歳)の娘で、地元の色白の美人で、処女であることが第一条件でした。言わば各坊の”看板娘”今で言う「アイドル」であった小湯女は、通り名が決まっており、世代交代で人が入れ替わっても同じ通り名でした。 通り名を名のる権利である”湯女株”は相当な額で取引されたといいます。有馬温泉で一般に湯女と言われるのはこの『小湯女』の方です。

 《一の湯の小湯女の通り名》

 御所坊:まき 奥の坊:なつ 伊勢屋:たけ 中の坊:つね 尼崎坊:ゆり ねぎや:すぎ 大門:たつ 角の坊:つた 上大坊:くり 若狭屋:いち

《二の湯の小湯女の通り名》

 池の坊:まつ 下大坊:なべ→しげ 休 所:たけ 川崎屋:やや 芽の坊:きい 川野屋:みつ 大黒屋:たけ 素麺屋:ふじ 兵衛:みや 水船:つじ

五渡亭国貞1864没摂州有馬湯女  春芝画

五渡亭国貞1864没摂州有馬湯女   春芝画

御所坊まき 雪圭斎昌房明和頃 上大坊 くり
   
御所坊まき 雪圭斎昌房明和頃  上大坊 くり
芽の坊 きい        兵衛 みや
  芽の坊 きい         兵衛 みや

 小湯女は朝から午後3時まで、それ以降の時間は大湯女が浴場の係りをしました。湯女はそれによって貰う心付け、さらに小湯女をメインにお座敷にも呼ばれ座興を披露し、花代の設定は在りませんでしたが、心付けを貰い収入を得ていました。まだ13、14歳の若い小湯女さえ眉を剃り歯にお歯黒を塗り、酒の席に呼ばれれば『有馬ぶし』を歌い、太鼓を打ち、舞を踊ったそうで、古風で雅やかなその姿は男性客には心引かれるものがあったようです。

 只、有馬温泉は行基、仁西以来、薬師信仰と密接に結びついた養生湯ということで、風紀にはことの他厳格であった様で、京や大坂の湯屋湯女と違い、有馬に於ける湯女はあくまでも湯の世話をする女性であり、客はどんなに沢山の心付けを渡しても酒宴を賑やかに楽しむだけで、恋仲になったり、一夜を共にする様な事はご法度でした。その事は『滑稽有馬紀行』をはじめとする数々の江戸時代の案内本等でも窺い知る事ができます。

 『滑稽有馬紀行』においても先に他の客に聞いて"その事"を知っている京男が、そうとは知らず躍起になって湯女を落とそうとする相棒の東男を面白がり、事の次第を知った東男が逆に京男を出し抜いてやろうと、秘密裏に下女(女中)にアプローチするのですが…という至って下世話なストーリー展開が時代を超えた男のサガを感じさせて笑えます。

 ご法度ゆえの添うに添われぬ恋の悩みからの悲劇も数あり、それがまた芝居として演ぜられたといいます。
二の湯、素麺屋の小湯女18歳の藤(ふじ)は当時の客、京の商人松屋と深い契りを交わしましたが、男の心変わりを憤り生瀬川に身を投げ蕾のまま花を散らせたといいます。『有馬ぶし』の中でも「松になりたや有馬の松に ふじに巻かれて寝とござる」と歌われています。

 残念ながら有馬の湯女は、大火や洪水が重なり、有馬温泉自体が衰退していった江戸時代後期には廃業者も多く人数も減り、安政4年(1857年)には一の湯に5人、二の湯に6人とかなり減少しています。明治16年に本温泉が洋風建築になった時に廃止されてしまいました。現在、湯女が歌い踊ったという『有馬ぶし』の歌詞はいろんな古典に散見されますが、元々即興的であったと言われているそのメロディーは今はもう誰ひとり知りません。ちょっと寂しいですね。

【楽しい時間を過ごす】

床に就きながら、明日は何をして過ごそうかなと思いを巡らします。何しろ時間はたっぷりあります。しかもテレビもパソコンも無く「情報量」が現在とはかけ離れて少ない世界です。温泉で知り合ったいろんな所から来た人達との世間話や情報交換の時間がどう考えても一番楽しいだろうと想像できます。でも一廻り7日もありますから時間はたっぷりあります。街を散策して店々をチェックして回って掘り出し物探しとするか…。有馬富士も良く見えるという薬師堂をはじめ、たくさんある寺社詣で徳を授かるのも良し。鼓ケ滝、有明桜、来る時に通った「目洗い湯」、佛座岩、袂石、京の愛宕山も見えると言う愛宕山、その山上の天狗岩、亀の尾の滝など一通り見て回るのも良し…。ちょっと足を延ばして六甲山へ登る山道の途中にある蜘蛛滝、七曲がり滝などの滝見物もしてみようか。はたまた宿で囲碁、将棋三昧と行くか、貸本屋で気に入った本を数冊借りて来て読書三昧か、夜は暗くなったら大人しく寝るか、お金は掛かるけれど湯女を呼んで連夜の酒盛りと行くか…7日間は何をしようが自由なのですから少々困ってしまいそうです。

 現在ならお土産は差し詰め「炭酸せんべい」「松茸昆布」「竹籠・竹細工」「人形筆」「ありまサイダー」といったところでしょうが、さすがに江戸時代に「炭酸せんべい」(明治時代40年~)や「ありまサイダー」は在りません。「人形筆」は既にありましたが、今の様な緻密な模様の糸巻きではなく、もっとシンプルなものであったようです。正保2年(1638年)松江重頼『毛吹草』によると引き物(お椀等)、楊枝、竹柄杓、竹水嚢(水筒の様な物)、人形筆、眉作包丁、菜刀(なた)、鼓滝盆山蒔砂(盆景に使う綺麗な砂。六甲山系は花崗岩が多いため鼓ヶ滝上流でも取れた。)などいろいろと工芸品も製造販売されていたようです。引き物は木を轆轤で引いて作った器をいい、仁西が引き連れて来たといわれている吉野の木地師直系の伝統工芸で、江戸時代にも盛んに製造されていました。又、当時は気候的にも適していたのか、今では考えられませんが松茸が大変良く取れたそうで、西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850によると季節には山盛りで販売されていたそうです。延宝6年(1678年)生白堂行風『迎湯有馬名所鑑』でも人形筆、竹器は紹介されています。

【旅の終わり】

書き足りない事は山ほどありますが時間の制約もあり、少々中途半端な所で、余韻に浸りながら今回の旅は終わる事にします。本当にタイムトリップ出来たならどれだけ楽しいでしょう。昔の元湯に浸かってみたいですし、小湯女ともコミニュケーションしてみたいです。他所から来た湯治仲間との世間話もたっぷりしたいです。街を隈なく散策してみたいです。そして写真をバシバシ撮って現代に帰ってきて、絵葉書にして大儲けするのです!

有馬 昔の天神泉源

子供のいる風景、写真って何だかほっとしませんか。たとえ殺伐とした風景だとしても子供がいて無心に遊んでいたりすると、それだけで救われたような気になります。

今回は有馬温泉の古い写真の中に写っている無垢な子供の姿を探してみたいと思います。
どんな子に出会えるのでしょう。切り取られた一瞬から過去にタイムスリップしてみましょう。

有馬温泉の撮影スポットといえば昔は何故か鼓ケ滝と相場が決まっていたようで避暑地として人気だった明治時代には異人さんの記念撮影写真も数多く撮られています。滝という存在に何かに人を惹きつけるものがあるのでしょうか。かなり町外れの閑静なスポットなので今は観光客の姿もシーズン以外はまばらですし、地元の人もあまり行きませんが、昔の人は少々歩く事に何の抵抗も無かったのでしょうね。下の鼓ケ滝の写真は筆者の家の昔のアルバムからで筆者の身内が登場しています。

有馬鼓ヶ滝  
 
有馬鼓ヶ滝    有馬 鼓ヶ滝
それにしても有馬に住んでいるのにわざわざ撮影しに行ったんですね。 涼みがてら散歩に行って撮ったのなら昔は今よりずいぶん優雅だったんだなあと思います。上は昭和20年台前半、下の二点は昭和10年

有馬 鼓ヶ滝昭和20年頃の幼稚園の集合写真。何だか服装が素朴でかわいいです。アニメ映画「火垂るの墓」の節子みたいな感じの子がいっぱいいます。 どこかに叔母がいます。

明治20年代頃と思しき名所写真。原寸約6cm×9cmの小さな写真の中にも、拡大すると元気な子供の姿が…
有馬 炭酸泉源 有馬 炭酸泉源
炭酸泉源                【拡大】
有馬 虫地獄 有馬 虫地獄
鳥地獄                 【拡大】

着物が普通の時代。子供も赤ん坊も何となく今より骨太で丈夫そう。しかし、鳥地獄の向うの子は何であっちを向いているのでしょう。あちらに六甲山に通じる魚屋道(ととやみち)がある事を示しているのでしょうか。
(上の2枚の写真:風早章氏提供)


明治・大正時代の有馬には外人向けホテルもたくさんあったので異人さんの子供もたくさん写っていますが、とってもオシャレさんです。外国旅行するくらいだからお金持ちの子だと思いますけど、それにしても文化の違いと言うか、ファッションが決定的に違います。同時代の上の写真のボクと比べてみて下さい!
有馬杉本ホテル 有馬 杉本ホテル 有馬 清水ホテル
杉本ホテル前                清水ホテル前(左の杉本ホテルと同じ子達でしょうか。)

有馬 新道有馬 新道
新道。今の中の坊瑞苑の前の坂道。この道の先の有馬ホテル(外国人専用)から下って来たのでしょうか。

有馬 高等温泉
今の阪急バスの駅の場所にあった高等温泉(明治36年~大正15年)。高級家族風呂でした。窓から滝川を望む赤ちゃん連れの家族客。川は、神鉄が開業した昭和3年に暗渠化され、道路になりました。一つの風情が消えていくのは近代化の代償として止むを得なかったのでしょう。

時代は変わって下の写真は同じ場所の別角度からの物。戦前です。既に道路になっています(無舗装ですが)。高等温泉跡は「宝有自動車」(宝塚有馬間の連絡)の駅になっています。歩道にランドセルを背負った学校帰りの子供が歩いていますが、ランドセルの形や服装のシルエットがやはり何となく戦前ぽい感じがします。この歩道は戦後、商店街になりました。今の太閤通りです。
有馬 宝有自動車
戦前の宝有自動車の駅。今は阪急バスの駅になっています。
 有馬 宝有自動車
     【拡大】
有馬川沿い:戦後の絵はがき
戦後の絵はがき             
アップ
【拡大】
学校帰りの子供といえば戦後の絵はがきにもそんな子供が写っています。下の写真は有馬川沿いです。今の有馬御苑の手前をブラブラと何やら楽しく喋りながら帰宅途中の様です。後ろ姿だけですが上の写真に比べて、(ひょっとすると今の子供と比べても)何となく戦後の自由な雰囲気が漂っている様な気がしてきます。まさか自分達が絵はがきの写真になっているとは…しかし自動車が少ないのはいいですね。ゆったりしています。
有馬 奥の坊別荘 有馬奥の坊別荘
明治後期 奥の坊別荘門口          【拡大】

今の角の坊の敷地の辺りにあった奥の坊別荘の門口に立つ少女三人組。一番向うの子は顔がぶれています。手前の子のちらっと顔を覗かせているしぐさがかわいいです。この道の先に本温泉(現金の湯)があります。
 
有馬 本温泉
大正初期 本温泉裏の石段前

雪だるまの写真は本温泉裏側。左から2人目は郷土史研究家として知られ「有馬温泉史料」も出版された故風早恂氏。とても楽しそうな冬のひとコマ。後ろの石段を登った所に現在、吉高屋支店温泉堂があります。

有馬栄町 有馬栄町
大正か昭和初頭。増富神社の卯の花祭りに集う町内の人々。【拡大】 (筆者の家のアルバムより。)

今と違って子供がいっぱいです。この頃になると着物の子も洋服の子もいますね。何より町内の行事にこれだけ子供が集まっているのが驚きです。宗教行事が町内活動の中心としてきっちりと機能していたんですね。時代とはいえ羨ましい限りです。後ろには昭和3年まであった"茅葺屋根の"吉高屋。隣にあった増富神社は現在は有馬川の川向かいに遷座しており、写真の場所は今は炭酸せんべいの三津森本舗の支店になっています。

有馬中の坊を望む 有馬中の坊を望む
昭和初期 太古橋(現在の太閤橋)より赤橋(現在のねね橋付近)を望む
有馬太閤橋付近
昭和20年代前半 太古橋を望む (いずれも筆者の家のアルバムより。)

男の子は小さな子も皆丸坊主でした。一番小さな男の子は筆者の叔父です。近所の遊び友達でしょうか。バックの景色も木々が多く長閑な佇まいですね。子供もあちこち駆け回って、さぞのびのび遊べたでしょう。遠くに中の坊旅館が見えます。この太古橋は昭和7年に誕生し、遠くに見える赤橋はこの後、昭和13年の阪神大風水害で流され、消滅しますから、撮影されたのはその間ということになります。赤橋は近年になりほぼ近い場所に「ねね橋」として復活しました。太古橋は何度か架け替えられ現在の「太閤橋」に至ります。右写真は約10年後で、女の子は筆者の叔母です。伸び放題の雑草がいい感じです。
有馬 吉高屋前
昭和20年代
有馬 吉高屋 有馬 吉高屋
昭和30年代                   【拡大】

(いずれも筆者の家のアルバムより。)


いずれも吉高屋の店先です。
上:筆者の叔母とお友達。お正月でしょうか。着物姿の頭にリボンを結わえて羽子板持ってます。
下:誰かと思えば、筆者自身ではありませんか!ミゼットのYOSITAKAYA号に乗って発車オーライの図。
こんな写真を撮られた記憶はもうありませんが確かに私ですし、ボッチャン刈りの感触は確かに記憶にあります。吉高屋の向うを見ると「オーシャンウイスキー」の看板。ミゼット。後ろの方には昔の石原裕次郎みたいな頭のアルバイトのお兄さんが…映画のセットではありません。紛れも無いアノ昭和30年代です!こうして見ると自分自身もセピア色の昔に根っこの先の届くオッサンである事に改めて気付かされるのでした。

さて。きりが無いのでこの辺にしておきます。明治・大正・昭和の時代に生を受けた彼、彼女たちは一体どんな未来を夢見たんでしょう。そしてどんな人生を歩まれたのでしょう。
それにしても、写真に姿を残す事の意味を改めて考えさせられます。
        
(上の写真中、特に記載のない分は、郷土史研究家の藤井清氏提供)