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名湯有馬温泉の歴史・文化に関する興味深い話や古写真などを、有馬温泉にある明治創業の土産物店吉高屋店主が趣くままに調べて紹介します。
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     竹久夢二と彦乃      竹久夢二の絵
(左写真は夢二と彦乃。現代日本美人画全集8竹久夢二集英社より。右は『山へよする』有馬川の詩の挿絵。有馬の風景かどうかは判りません。)

奔放な愛の世界に生きた、大正ロマンで有名な画家竹久夢二を知らない人はいないでしょう。
若くして名声を得た人気アーティストでした。自らのデザイングッズショップ「港屋」に出入りする夢二ファンの画学生で、日本橋の紙問屋の一人娘だった12歳下の彦乃との恋の逃避行の話も当時から世間の知る所でした。彦乃は大正7年3月以降、何度も父親によって夢二と引き離された末、最後は夢二に会う事も許されず大正9年1月胸の病で23歳9ヶ月の儚い生涯を閉じます。そして夢二にとって永遠の女性となった訳です。この悲恋物語もご存知の方は多いと思います。
ところで、夢二と彦乃は、彦乃の父親が二人を引き離す直前の大正6年12月から大正7年1月にかけて、有馬温泉に約1ヶ月間程滞在していた事はご存知でしょうか。大正8年2月に出版された夢二の詩集『山へよする』は彦乃に捧げられた愛の記述でしたが、その中に有馬が詠み込まれた詩があります。

有馬笠笠に姿はつつめども わが恋妻は人も知りきや
有馬川瀬々に浮く波ゆらゆらに あやふく心きみにのりつつ

せつなさが溢れています。父親によって引き離された直後から彦乃は病魔に蝕まれて行きましたから、有馬滞在は二人の人生で一番楽しかった最後の時期辺りだったことになります。
 ところで夢二と彦乃の目に映った有馬の街ってどんな街だったのでしょう?
 やっぱり大正モダンの「ハイカラ」文化が花開いていたのでしょうか?最もタイムスリップして行ってみたい有馬のひとつです。ということで、今回は大正初期の有馬を散歩しようと思います。 

有馬温泉 吉高屋 温泉堂
今回のスタート地点は大正初期の吉高屋です。有馬では珍しい茅葺屋根で、後の昭和3年に神有電車の開業に合わせて、駅舎に合わせたモダンな意匠の木造モルタル建築に建て替えられました。今と同じ場所ですが、当時は神有電車も在りませんから、街外れのずいぶん寂しい場所だったに違いありません。元々本温泉付近から移転したらしいのですが、いつの事か記録にありません。遠くに見える石垣は現在、有馬御苑が建っている辺りです。ではもう少し前方へ進んで行きましょう。

有馬川沿い
大正初期頃の絵葉書です。有馬を発見したという伝説の三羽烏のスタンプが捺されています。今の太閤橋辺りからのアングルです。大正4年に護岸工事が完成し同年の有馬軽便鉄道開通のために道路整備された後と思われます。向うからクラシックカー、いえ最新式の自動車がやって来ました。上の吉高屋の写真と同じ石垣と木が見えていますからほぼ同じ時代である事がわかります。写真突き当たりは左側からの六甲川と右側からの滝川の合流点で、有馬川の始点です。今兵衛向陽閣の喫茶ギャラリーのある場所に「さどや」という宿屋が建っています。道なりに右側の滝川沿い(昭和3年に暗渠化され、道路になりました。今の太閤通り)に進んで行つて見ましょう。
有馬温泉 高等温泉
御所坊の手前に太古橋があり、高等温泉がありました。(今の阪急バスの駅の場所)左の橋が太古橋。今のおみやげ店の若狭屋さん側からの写真です。写真中央の高等温泉は当時の本温泉と同じ明治36年に建築された高級家族風呂で本温泉より料金が高く一人30銭。大正15年の本温泉改築(3階建、一般風呂と家族風呂を併設)と同時に廃止され取り壊されました。橋の対岸の道路沿いの手すりの意匠がひとつ上の写真と同じで、道続きになっているのがわかります。(今、有馬市や酒市場のある太閤通り商店街の場所) 写真右側から坂を上ると本温泉です。
有馬温泉 本温泉
明治36年に改築竣工した本温泉。写真は二の湯側(今の足湯のある側)で、湯本坂方向から見たところです。モダンな洋風の鉄柵と重々しい日本建築との組み合わせがハイカラな有馬らしくていいですね。後の大正15年解体され、写真奥側に見える隣接の二階坊旅館を町が買収、旧本温泉と合わせた敷地に3階建ての新本温泉を造りました。(本温泉の変遷は、改めて紹介したいと思います。)さて写真奥の二階坊の向うを鼓ケ滝方面に向かいましょう。
杉本ホテル
坂を上り切る辺りに杉本ホテルが見えてきました。明治10年頃から昭和14年頃までの間在った外人専用ホテルです。香港・上海経由のアメリカ人が中心で、滞在期は殆ど6月から9月の4ヶ月間だったのでコックも季節雇いでした。当時の主人杉本よねは英語がペラペラだったそうです。大正11年版鉄道旅行案内(鉄道省)には有馬ホテル、杉本ホテル、キングジョージホテルが外人専門ホテルとして紹介されています。なにしろ当時の有馬は軽井沢・雲仙と並び、外国人の三大避暑地だったのです。それでは外人専用ホテル繋がりで、今度は、上から2枚目の写真の有馬川の始点を六甲川方面に川沿いの坂道(新道と呼ばれている。)を登って行きましょう。
有馬ホテル
見えて来たのは、有馬ホテル。今の有明泉源の横辺りです。24部屋在りました。ビヤホールでは度々ダンスパーティーが催され、ビリヤードやベビーゴルフも楽しめました。経営権は推移しましたが、大正4年に同じ有馬の増田ホテルの手に移りました。後の昭和2年にはここで中国の蒋介石と宋美齢がお見合いをし婚約が成立しました。さらに後の昭和13年阪神大風水害で損壊、一部流失し閉鎖するに至りました。何となく植民地風ですね。別の文化の香りがします。
(有馬ホテルの写真は和田克己編著、神戸新聞総合出版センター「むかしの神戸」より)

有馬温泉 ラジウム温泉
今度は吉高屋から有馬川沿いを下流方向〔北向き)に200メートル程歩いて見ましょう。大正4年にオープンした町営のラジューム温泉が見えてきました。インド、サラセン様式で重厚です。流行だったのでしょうか、或いは当時の有馬の人が新しいモノ好きだったのでしょうか。すばらしい館内や庭園は改めてご紹介したいと思います。後の昭和4年、経営不振で神有電車に無償貸与され、さらに後の昭和13年阪神大風水害で土砂に埋まり使用不可と成り取り壊されてしまいました。2009年現在、マンション(エイジングコート)建設中の場所です。では、さらに川沿いを下り、次が今回の終着点です。
省線 有馬温泉駅舎
辿り着いたのは、これも大正4年にオープンしたばかりの有馬軽便鉄道の有馬駅です。これぞ大正ロマンと言った感じのモダン建築ですね。駅前には旅館の案内所が立ち並び人力車も活躍しています。大正8年には国有化されましたが、かなり後、戦時中の昭和18年、国策により廃止されてしまいました。車両は、篠山線での軍事輸送のお役に立ったそうです。駅舎は後に老朽化の為取り壊され、跡地には昭和42年先山クリニックが開業しました。ではそろそろ今回の散歩を終わりましょう。
 あの竹久夢二の目に映った有馬温泉は、やっぱり、こんな大正ロマン溢れる有馬の街だったという訳です。今でもこれらの古い建物が残っていたらどんなに素敵でしょう。でも天変地異とか戦争とか経営とかのどうしようもないネガティブな理由によっても、街の様子は変わっていくんですね。名残惜しい大正時代にお別れし、次回はまた違う切り口で昔を散歩したいと思います。
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