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摂津名所絵図『有馬温泉』の一部
江戸時代は『有馬千軒』といって有馬温泉が現在を除くと最も栄えた時代だったそうです。
戦いの時代は過ぎ、天下泰平の世みたいですから、もしタイムトリップが可能だったら是非行ってみたいですね。江戸時代の有馬の湯を想像してみて下さい。天然の湯が底の敷石の間から湧き出し、お風呂はもちろん男女混浴!…あっちにはふんどし姿のチョンマゲ、こっちには腰巻姿の女性が…灯明の薄ら明かりで照らされた部屋の隅には湯女の姿が…
今回から数回に渡り江戸時代中頃の有馬温泉にタイムトリップしてみたいと思います。
今回はまず、時代背景、有馬に関する書物、有馬までの一般的な行程をプロローグ的にご紹介します。
摂津の国の果ての山奥に、”恋の病以外は万病に効く”という、潮よりも塩辛く血のように赤い不思議な湯がこんこんと湧き出しているという、その名も天下に轟く別天地、有馬の湯へ足を進めましょう。
『江戸時代の”パラダイス”有馬の湯へ いらっしゃ~い!』
【湯治は庶民の娯楽】
豊臣秀吉による源泉の保護や六甲川の改修工事、浴場改築などが実を結んだ事もあり、有馬温泉は、続く江戸時代に大変繁栄することになります。
江戸時代に入り幕府の直轄領となった有馬には公家や大名、幕臣、僧、医者、文人らが度々訪れるようになります。1621年には徳川三代に仕えた儒学者林羅山が訪れ『摂州有馬温湯記』を著して日本三名泉に有馬・草津・下呂を上げています。
江戸時代も中期以降(元禄頃~)には五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整った事で、庶民も娯楽的に社寺参拝や湯治に出かけるようになりました。なかでも有馬温泉は古くから知られており京、大坂にも近く、不思議な泉質の霊験あらたかな養生湯であり、『有馬湯治』は、特に大坂圏の庶民を中心に『伊勢参り』『熊野詣で』と並ぶ人気のある、憧れのレクリエーションであったようです。(今でも大坂圏に有馬温泉ファンが多いのは昔からの流れがあるみたいですね。)
【まずは江戸時代の読み物で有馬温泉研究】
客数の増加の一助になったのが有馬温泉を知らしめる手引書でした。江戸時代に入ってから現代のガイドブックにあたる実用本位の旅行案内記は数多く刊行されましたが、有馬のものは特に多かった様です。前述の林羅山『摂州有馬温湯記』元和7年(1621)、有馬の地誌としては最初のものである黒川道祐『有馬地誌』寛文4年(1664)、読み物として人気を集めた平子政長『有馬私雨』寛文12年(1672)、有馬のめいよ権三郎『有馬小鑑』延宝3年(1675)、生白堂行風『迎湯有馬名所鑑』延宝6年(1678)、有馬の菊屋五郎兵衛『稲野笹有馬小鑑』貞享2年(1685)、貝原益軒『有馬湯山記』宝永8年(1711)、有馬一の湯奥坊かもん『増補有馬手引草』享保2年(1717)、有馬榎並氏『有馬温泉古由来』享保13年(1728)などがあります。


摂州有馬温湯記 (1671年版) 有馬地誌(1664年版)


有馬私雨(1672年版) 有馬小鑑(1675年版)


迎湯有馬名所鑑(写本) 稲野笹有馬小鑑(1685年版)


有馬湯山記(1716年版) 増補有馬手引草(1717年)

有馬温泉古由来(1728版)


有馬之日記(1738年版)


有馬の日記(1781年) 摂津名所図会(1798年成立)


滑稽有馬紀行(1827年) 有馬温泉の紀行(1850年)
やがて案内書に留まらず、紀行文といえる文学的なものが出てきました。大坂の俳人井上布門『有馬之日記』元文3年(1738)や本居太平『有馬の日記』天明2年(1782)などはいずれも温泉紀行の名作といわれています。 又、大坂の歌舞伎狂言作者、西沢一鳳軒の旅日記『有馬温泉の紀行』嘉永3年(1850)には当時の温泉浴舎の挿絵や、湯殿の有様が克明に描写されており、大変資料的価値があります。有馬のみを取り上げたものではありませんが、摂津国12郡の地理、名物を説明した、絵入の地誌『摂津名所図会』寛政10年(1798)成立、の中でも有馬温泉が12図もの挿絵を用いて紹介されています。
文政10年(1827年)刊の『滑稽有馬紀行』(文・さし絵とも浮世絵師 福智白瑛、狂歌名:大根土成。木版墨摺3冊)は滑稽本の体裁で有馬温泉を案内した手引書で、文学形式としては式亭三馬『浮世風呂』文化2年(1805)や十返舎一九『東海道中膝栗毛』享和元年(1801)などの影響も色濃く見受けられます。京男の恵来屋太郎助(えらいやたろすけ)と居候で東男の才六の浮かれたデコボココンビによる珍道中を狂歌を交えて描いています。道中、道に迷ったり、有馬の湯では湯壷におぼれかけたり、女中や他の客たちとの軽妙なやり取りなどそそっかしい彼らの体験の中から当時の有馬温泉に於ける旅籠や湯治のシステム、湯女の事、湯治に必要なもの、費用などが良くわかるようになっています。又、温泉よりも湯女の方が気になる下世話なコンビの面白可笑しい掛け合いの中に、現代人と余り変わらない人間味と笑いのセンスも垣間見れます。
そしてここでは霊験あらたかな湯もさることながら、湯を共にする湯治客、有馬独特の色を売らない湯女や女中などの人との心の触れ合いに、有馬温泉ならではの居心地の良さ、別天地、パラダイスを見出しているようです。
手引書とは異なりますが、上方落語の祖である米沢彦八の笑話本で『軽口御前男』元禄16年(1703)の中に「有馬の身すぎ(仕事の意)」という話があります。仕事の無い男が有馬温泉へ行き、二階の客に下から竹筒で小便を受ける商売を始め、竹が細すぎてモノが収まらない客にはジョウゴを差し出したという笑い話です。離れの暗闇にひっそりと在る厠へ行くのが面倒だったり、怖かったりする宿屋の宿泊客の心理を突き、ちゃっかりと商売に繋げる大坂的な抜け目の無さを、ある種かわいらしく受け止めたこの話は後に脚色され、上方落語の演目『有馬小便(しょんべん)』として今でも度々演じられています。(もっとも、約120年後の1827年の『滑稽有馬紀行』では「2,3階にも雪隠・小便器がある」となっていますから、ちょうど受け入れ客数増加に伴う時代分の進化があったのかもしれません。)

摂津名所図会の明神祭図
桟敷席のような2階の縁から身を乗り出して開放感たっぷりの風情
あくまで元禄時代の落語のネタですから本当にそういう商売があったとは思えませんが、当時の人がそんな事を考え付く程、有馬温泉が開放的なハレ(晴れ)の場だった事は間違いありません。2階の縁側から身を乗り出して開放感たっぷりにくつろいでいる湯治客の姿が目に浮かびます。できるならタイムスリップして小宿の二階から竹筒に”しょんべん”してみたいものです。
【有馬の湯を目指していざ出発】

京・姫路間宿駅絵図(神戸市指定文化財 江戸後期 浄橋寺蔵 神戸市立博物館『有馬の名宝』より)
江戸時代の旅を語る上でまず前提なのが基本的に庶民の移動手段は陸路では徒歩だったという事です。自分の足で何日も掛けてはるばる赴いた訳ですから現在の、林立する大型温泉施設と違い、さぞかしありがたみがあったでしょう。
江戸時代、有馬温泉は、全国でも1,2を争う名湯として各地からの湯治客で賑わったので、有馬へ至る道はたくさんありました。ここでは京の都から出発するとして、貝原益軒の『有馬湯山記』や大根土成の『滑稽有馬紀行』でも紹介されている当時の一般的なルートを辿ってみましょう。
旅は、未だ夜の間に暗がりの中を京の五条から出発します。京の外港、伏見から夜船で淀川を下り、神崎川に分岐し、夜明けに神崎へ上陸します。陸路で塚口を経て伊丹の町を右に眺め(昆陽で西國街道と交差します。)途中、中山寺、清荒神にも参って小浜宿(現宝塚市小林)に到着。一休み。武庫川を渡船し生瀬宿(現宝塚市生瀬)に着きました。そろそろ暗くなってきたので一泊します。(京都から徒歩で西国街道[171号線にほぼ沿った旧道。今でも辿る事ができる]を下る方法もありました。山崎(大山崎町)、芥川(高槻市)、郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、池田、米谷(宝塚市)を経て、武庫川を渡船し生瀬(なまぜ)宿に至りました。)、翌朝大多田川の河原から”四十八瀬”を遡り、 「座頭谷」(昔、盲人が湯治の為有馬へ行く途中迷い込み餓死したという伝説があり、今でもバス停の名前になっています。)などの難所を経てやっと舟坂の休み所(現西宮市山口町船坂)に到着。暫く休憩した後、再度河原等を伝って、午後になって遂に有馬にたどり着きました。

三十石船便覧の一部 (江戸末期) 本流の淀川から神崎川に分岐している。


滑稽有馬紀行より 『神崎渡口船の図』 同 『四十八瀬飛越の図』


有馬湯山記より『大剣小剣の景』 有馬私雨より 座頭が谷に落ちていく図

稲野笹有馬小鑑より『有馬交通図』
生瀬から有馬に至るこのルートは湯山道(生瀬街道)と呼ばれ、滑稽本『滑稽有馬紀行』でも紹介されていますが、面白いのは生瀬で間違って土橋を渡ってまっすぐ行くと丹波、播州に通じる道で、有馬へ行く湯山道(生瀬街道)は左側の大多田川の河原に下りて”四十八瀬”の道無き道を岩から岩に飛び移りながら行かないと行けなかった点で、しかも暴れ川だった為大水の度に微妙にコースが変わったそうです。(生瀬から有馬までは2里(約8km)。前述の『滑稽有馬紀行』では主人公の太郎助と才六は道を間違えて土橋を渡ってしまい、とんでもなく時間をロスしたり、四十八瀬ではずぶ濡れに成り裸になりながら船坂に到着するというお定まりのボケをかまします。
有馬へ至る道は他には、西国からの旅人のために姫路から三木を経由する湯の山街道(播磨街道北の道)、兵庫宿から北上し、箕谷、谷上村、唐櫃村を経由する兵庫道(湯山街道南の道)、道場川原宿から名来村、下山口村、上山口村、中野村を経て有馬に至る丹波道(三田道)、又もっぱら魚屋が利用した六甲越えの魚屋道(ととやみち)などの間道もいくつかありました。
最後に、タイムスリップして江戸時代の有馬温泉へ行く時の注意点を少々。
まず、手引書には書いてないかもしれませんが冬は避ける方が無難です。現代なら、「冬は温泉に浸かりたい!」となりますが、今のように温暖化が進んでいないので、冬は結構雪が降り、閑散期、冬篭りの時期になります。第一自動車も交通機関もない寒空の下でリスクを掛けて有馬まで歩いて旅する人も少ないハズです。その時期、小宿の主をはじめ有馬の住人はせっせと、竹かごや筆をはじめとしたお土産作りにいそしみます。元々閑散期ですから、住人も「お客様が少ない」と焦る訳でもなく、現代では考えられませんがお正月もゆっくりと過ごせたようで、我々、有馬温泉の住人としてはとてもうらやましい限りです。
次に、江戸時代は当然ながら今の様に目立つ道路標識はありません。石に行き先を彫った「道標」しかありませんから、見逃して道を間違わないように気をつけましょう。そして、言葉は通じると思いますので、せいぜい道行く人に尋ねるようにするといいかもしれません。現在の人よりもっと親切に教えてくれるかもしれません。
実は有馬温泉にはそんな「道標」が今でも道のそこ彼処にひっそりと佇んでいます。それをいろいろ見つけて過去を旅してみるのも歴史の街有馬温泉ならではのコアな楽しみ方と言えるでしょう。
さて、次回はいよいよ江戸時代の有馬温泉の街の中に入っていきたいと思います。
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