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いろいろと忙しく、久しぶりの更新だ。前回に続き、炭酸泉源の事を取上げようと思う。とてもマニアックな話題で恐縮だが、誰かが残しておかないといけないという使命感も少しあり、書いている。良ければお付き合いください。実はネットオークションなどで、古い有馬の絵はがきを収集している。入手した炭酸泉源の古絵はがきに関しては、明治から昭和にかけてのものである事は間違いないものの、どの写真が古くて、どれが新しいのか良く分からなかった。ところが、スキャンして拡大してみると絵はがきとはいえ案外細かい情報が詰まっていて、良く見ると看板に書いてあるコップ1杯の価格も変遷していたり、看板などのスタイルが変遷していたり垣根が代わっていたり…少しずつだが変化しているのがわかる。そこで看板など共通の被写体などを分析して私なりに時代ごとに分類してみた。残念ながら何時コップ1杯の価格がいくらに上がったとかの記録は既に全く残っておらず、分からない。従ってそれぞれの写真の正確な年代は分からないが、例えば同じ組はがきの別の写真に写っている建物や構造物の様子などを元にだいたいの年代も推測してみた。但しとんでもない間違いをしている可能性もあり、新しい事実判明があったり、ご指摘で間違いが分かれば、修正していきたいと思う。何分専門家ではないので、その点御容赦下さい。 (H23年5月までに新しく手に入れた資料により判明した点や間違っていた点などを修正しています。緑字部分)
【コップ1杯 壱銭の時代:明治19年~明治40年頃】
(1)
(2)
(3)
(4)
(1)新しく入手した写真だが、これが最も古い写真と考えられる。裏の石垣や整備されたばかりの斜面がまだ真新しい。「霊泉」の看板他、表示物らしきものはまだ無く、千社札も貼られていない。御殿式の上屋が完成した明治19年9月からそう経ってない時期と思われる。絵はがきではなく実物は約6cm×9cmで、厚めの台紙に紙の薄い写真が貼り付けてある。
(2)既に何度もこのブログでは紹介済みの写真だ。大きさは(1)と同じだ。解像度を上げてスキャンすると女性の後ろの看板の文字が「炭酸水 一銭」と読める。左の柱の看板は「○飲ハ御断申候」(○は読み方不明。手偏に「夕」に見える。「タダ飲みはお断り申し候」かもしれない。)この写真の段階で(3)(4)の写真にあるガス燈が存在しているのかどうかはアングルのせいでよく分からないが、貼られている千社札が(3)にもあることから、明治20年代後半から、絵はがきが普及する明治30年代前半というところではないだろうか。
(3)絵はがき。カンカン帽らしき帽子の外国人が写っている。解像度の限界でコップ1杯の価格は分からない。手前にガス燈が取り付けてあるのが判るが、「TANSANSUI(以下英文)」の英語表記看板はまだ掛かっていない。
(4)明治40年に出版された「有馬温泉記 A GUIDE TO THE ARIMA HOT SPRING」というガイドブックに印刷されていた写真。同じ冊子に明治36年オープンの本温泉や高級家族風呂の高等温泉が写っているので、明治36年以降明治40年までだろう。ここで看板に「壱銭」とあるのが確認できるので、大体この頃まではコップ1杯の価格は一銭であったことが判った。また、これ以降の写真に写っている「TANSANSUI(以下英文)」の英語表記看板が、ここで初めて掛けられているのも判る。
ところで話題は逸れるが左の写真を拡大印刷していて、ある変なものが写り込んでいる事に気付いた。今までもこのブログで取上げた事がある写真だが、全く気が付かなかった。そこに写っているのは普通我々が日常的に全く目にすることが無い造形の謎の物体だった。
下の写真はその物体が写りこんでいる部分の拡大だ。

炭酸泉源のお社の向うにある多面体と思しき奇怪な造形の物体である。社の向うにありながらこれだけ大きく見えるということはかなりでかい!この時代にこんな道具があったのだろうか?何の機能を持ったものだろう?木製?金属製?掘削機?脱穀機?ゴミ箱?UFO?タイムマシン?見れば見るほど奇妙な物体だ。ポコポコと穴が開いているあたりはウルトラセブンの宇宙人のメカっぽいし、或いはエヴァンゲリオンの使徒に通じる得体の知れない未知の物体だ。恐怖心が芽生え、鳥肌が立ってきた。しかしその割りには前の子供連れのお母さんはいとも平然とカメラに向かっている。もし物体を意識していたならモロに被る場所に立ったりしないだろう…。ますます不可解だ。今度、有馬の歴史に詳しい藤井清さんが来られたら、聞いてみよう。「ああ、これは○○○○や。」とかあっさり答えをくれたりして…。
後日、藤井さんに尋ねてみたところ、明治26年に解体、炭酸泉源に移設され、休憩所、撞球場として使用された清涼院に使われていた仏具ではないかとのご意見だった。はたして事実は何なのだろう。
【コップ1杯 弐銭の時代:明治41年頃~明治44年頃】


(上左)絵はがき。 (上右)絵はがき。(下左)絵はがき。(下右)個人写真(藤井清氏資料)。
表示物の木製看板の共通性からほぼ同時期と思われる。いずれも「一コップ金弐銭(2銭)」となっている。「TANSANSUI(以下英文)」「NOTICE(以下英文)」など英語表記看板が2枚も付いている。玉垣手前に木製枠が補助的に取り付けてある。藤棚も設置してある。(上左)の写真を見ると井戸の周りに金属製のハカマを履かせてある。どういった機能を持つのかは分からない。
(上右)では看板類はほとんど同じながら、他の写真にも写っているガス燈や、藤棚らしき構造物はない。これと同じ組の絵はがきに明治41年に新調されたばかりの真新しい白い杖捨橋が写っているので、明治41年頃にコップ1杯2銭になった事が分かる。明冶19年に1円55銭であった米1俵の価格が明冶24年に3円64銭と大幅に高騰しているので恐らく同じようなタイミングでコップ1杯2銭になったのではないだろうか。

【コップ1杯 参銭の時代:大正元年頃~大正8年頃】



すべて絵はがき。少しずつ異なっている要素はあるものの、いずれも裏の石垣が新たに高く積み上げられている。以前の構造物とは少し異なる三角屋根の藤棚が設けられている。ガス燈は既に撤去されている。看板類は(左下)、(右下)ではいずれも「炭酸水一コップ参銭」「勝手くみのみ無用」の二つのみで以前に付けられていた英語標記の看板等はすでに取り外され、すっきりとしている。(左下)の広告付きベンチ(津村の中将湯のベンチではなく向かって左側の方、恐らく丹平商事の健脳丸)は右の写真にも写っているから、大体同時代と見て良いだろう。(左下)の表面通信文記載が2分の1に成っている(大正7年~昭和7年製作)ので恐らく大正7年頃と推測した。(左中)では電灯が写っている。有馬に最初に電灯が設置されたのは明治43年6月だからそれより後と推測できる。記録では明治43年9月には大きな水害があり、がけ崩れにより鉄製の太閤橋が墜落し、暫くの間、人馬通行不可能となった。(左上)の写真で桧肌葺きの屋根が損傷を受けているのはその直後だろう。三角屋根の藤棚も真新しく製作途中に見える。石垣が綺麗に積み足されているのもその水害と関連性があるかもしれない。(右上)は石垣が新しいので同時代だろうが何故か「霊泉」の看板が外されている。大正元年に米1俵が6円16銭から8円32銭と大きく高騰しているので、やはりその頃に3銭に値上がりしたのではあるまいかと推測した。
【コップ1杯 五銭の時代①:大正9年頃~昭和3年頃】



表示類は右柱に「炭酸泉湧出場」左柱には「此内へ入る事一切お断り申候 有馬霊泉経営部」奥の梁に「DRINK TANSAN 5SEN PER GLASS」「勝手のみ御断申候 コップ金五銭 瓶詰 金十五銭…(以下不明)」の2種の看板。右手前に「炭酸泉分析表」の立看板。手前梁には千社札がベタベタと貼ってある。アサヒビールの木箱が目に付く。藤棚は平屋根に変更になっている。

この2枚の絵はがきは価格表の看板が同じで「勝手のみ勝手に瓶詰御断申候 一コップ砂糖入一杯金五銭 一瓶詰一本付金拾八銭 仝四打の○○付金八圓五拾銭 御持参の瓶詰は壱件に付金拾五銭 」、左柱には「清涼飲料税施行ニ付無断ニテ入場ヲ堅く御○絶申上候 ○○○○○○ 有馬霊泉営業部」と読める。「炭酸泉分析表」の立看板は同じ。
左側手前には木の柵が無い。瓶詰めの料金が15銭から3銭上がっているようだ。

この2枚の絵はがきは価格表の看板が同じで「勝手飲み(汲みにも見える)又は勝手瓶詰は堅く御断申上候 (棒線)代金表 コップ砂糖入壱杯金五銭 瓶詰○○○金拾八銭 仝○○○○○金○圓二拾銭」と読める。炭酸泉分析表」の立看板は同じ。左柱の看板は判読しづらい。右の写真では藤棚も玉垣手前の木柵も無い。

この2枚の絵はがきの価格表の看板は「定価表 一コップ一杯金五銭 一瓶詰一本金拾八銭 ○○○○○ 一○○○○○○」と定価記載のみだ。また右の炭酸泉分析表」と並んで「清涼飲料税法により製造場○認定相成故○無断入場又ハ瓶詰…御断リ申上候」の縁付きの看板が付いている。ハクツルのベンチはこれ以降の写真にもあり(良く見ると形は少し違うが)連続性が感じられる。
これらの写真は看板や備品などの連続性などから上から順に時代が新しくなっていると今の時点では考えているが、
例えばハクツルのベンチのある(右下)写真と1段上右写真(藤棚が無く、木柵も無い)は、全然雰囲気が異なるが、どちらも組写真の中に昭和3年以降のモチーフ(暗渠化された後の大通りや神鉄駅)があり、ストック写真を使っている可能性もあるため微妙な前後の判断がつきかねる。コップ1杯5銭を大正9年頃からとしたのは、大正9年に米1表の価格が10円60銭から一挙に20円に跳ね上がっている事から推測した。
【コップ1杯 五銭の時代②:昭和4年頃~戦前】


「霊泉」の看板の下に電灯が付いている。細長い看板に日本語と英語でそれぞれ炭酸泉の価格が書いてある。価格を見るとコップ1杯の価格は5銭と変わらないが1瓶の価格が15銭と値下がりしている。昭和3年の金融大恐慌の影響であろうか。右柱に「炭酸湧出場」左柱に「清涼飲料税法により製造場と認定相成候に付無断○○入場堅く御断り申上候」の看板。(左下)の写真は同じ組の写真に昭和3年に開通した神有電車の駅舎や周辺のアールデコ調の町並みが写っているので昭和3年より以降ということになる。石垣は苔むしてきているし、「霊泉」の看板文字の金箔も大分剥げてきているのが分かる。

【戦後】



絵はがきの文字が現在と同じく左から右と成っている。嘗て梁に掛けてあった「DRINK TANSAN 5SEN PER GLASS」の看板が左側の建物の壁面に値段の所だけ\(金額不明)に書き換えられて貼られている。ある時はサイドにある時はバックに灯篭が設置されている。昭和22年神戸市と合併し泉源所有権が神戸市に移管されたが、それ以降料金がどうなっていたのか良く判らない。案外ちょっと前位の歴史は忘れ去られる。地元の人はわざわざ炭酸泉を汲みに行ったりあまりしないから余計記憶にない。記録の重要性を改めて感じるところだ。左柱「清涼飲料税法により製造場と認定相成候に付無断○○入場堅く御断リ申上候」の看板は戦前と同じ物が掛かったままだ。「霊泉」の看板の文字に施された金箔は完全に剥がれている。全体に木が茂りかなり鬱蒼とした暗い雰囲気だ。
【現在:無料で蛇口から飲める】



平成22年1月現在の炭酸泉源の様子。現在1月末を目途に泉源の改修工事中で、工事車両が入っている。
杉などの樹木が生い茂りますます鬱蒼とした様子だ。それが落ち着いた雰囲気で良いという声もあるが、出来れば間伐をして、やはり嘗ての様に日当たりの良い、居心地の良い佇まいが人を呼ぶように思うが如何だろう。
今回は以上。いつもながらずいぶんマニアックで、どうでも良いような話題にお付き合い頂きありがとうございます。
それにしても、あの謎の物体は何だろう。それも含めてご意見おありの方はメールください。
【コップ1杯 壱銭の時代:明治19年~明治40年頃】
(1)


(3)


(1)新しく入手した写真だが、これが最も古い写真と考えられる。裏の石垣や整備されたばかりの斜面がまだ真新しい。「霊泉」の看板他、表示物らしきものはまだ無く、千社札も貼られていない。御殿式の上屋が完成した明治19年9月からそう経ってない時期と思われる。絵はがきではなく実物は約6cm×9cmで、厚めの台紙に紙の薄い写真が貼り付けてある。
(2)既に何度もこのブログでは紹介済みの写真だ。大きさは(1)と同じだ。解像度を上げてスキャンすると女性の後ろの看板の文字が「炭酸水 一銭」と読める。左の柱の看板は「○飲ハ御断申候」(○は読み方不明。手偏に「夕」に見える。「タダ飲みはお断り申し候」かもしれない。)この写真の段階で(3)(4)の写真にあるガス燈が存在しているのかどうかはアングルのせいでよく分からないが、貼られている千社札が(3)にもあることから、明治20年代後半から、絵はがきが普及する明治30年代前半というところではないだろうか。
(3)絵はがき。カンカン帽らしき帽子の外国人が写っている。解像度の限界でコップ1杯の価格は分からない。手前にガス燈が取り付けてあるのが判るが、「TANSANSUI(以下英文)」の英語表記看板はまだ掛かっていない。
(4)明治40年に出版された「有馬温泉記 A GUIDE TO THE ARIMA HOT SPRING」というガイドブックに印刷されていた写真。同じ冊子に明治36年オープンの本温泉や高級家族風呂の高等温泉が写っているので、明治36年以降明治40年までだろう。ここで看板に「壱銭」とあるのが確認できるので、大体この頃まではコップ1杯の価格は一銭であったことが判った。また、これ以降の写真に写っている「TANSANSUI(以下英文)」の英語表記看板が、ここで初めて掛けられているのも判る。
ところで話題は逸れるが左の写真を拡大印刷していて、ある変なものが写り込んでいる事に気付いた。今までもこのブログで取上げた事がある写真だが、全く気が付かなかった。そこに写っているのは普通我々が日常的に全く目にすることが無い造形の謎の物体だった。
下の写真はその物体が写りこんでいる部分の拡大だ。

炭酸泉源のお社の向うにある多面体と思しき奇怪な造形の物体である。社の向うにありながらこれだけ大きく見えるということはかなりでかい!この時代にこんな道具があったのだろうか?何の機能を持ったものだろう?木製?金属製?掘削機?脱穀機?ゴミ箱?UFO?タイムマシン?見れば見るほど奇妙な物体だ。ポコポコと穴が開いているあたりはウルトラセブンの宇宙人のメカっぽいし、或いはエヴァンゲリオンの使徒に通じる得体の知れない未知の物体だ。恐怖心が芽生え、鳥肌が立ってきた。しかしその割りには前の子供連れのお母さんはいとも平然とカメラに向かっている。もし物体を意識していたならモロに被る場所に立ったりしないだろう…。ますます不可解だ。今度、有馬の歴史に詳しい藤井清さんが来られたら、聞いてみよう。「ああ、これは○○○○や。」とかあっさり答えをくれたりして…。
後日、藤井さんに尋ねてみたところ、明治26年に解体、炭酸泉源に移設され、休憩所、撞球場として使用された清涼院に使われていた仏具ではないかとのご意見だった。はたして事実は何なのだろう。
【コップ1杯 弐銭の時代:明治41年頃~明治44年頃】




(上左)絵はがき。 (上右)絵はがき。(下左)絵はがき。(下右)個人写真(藤井清氏資料)。
表示物の木製看板の共通性からほぼ同時期と思われる。いずれも「一コップ金弐銭(2銭)」となっている。「TANSANSUI(以下英文)」「NOTICE(以下英文)」など英語表記看板が2枚も付いている。玉垣手前に木製枠が補助的に取り付けてある。藤棚も設置してある。(上左)の写真を見ると井戸の周りに金属製のハカマを履かせてある。どういった機能を持つのかは分からない。
(上右)では看板類はほとんど同じながら、他の写真にも写っているガス燈や、藤棚らしき構造物はない。これと同じ組の絵はがきに明治41年に新調されたばかりの真新しい白い杖捨橋が写っているので、明治41年頃にコップ1杯2銭になった事が分かる。

【コップ1杯 参銭の時代:大正元年頃~大正8年頃】





すべて絵はがき。少しずつ異なっている要素はあるものの、いずれも裏の石垣が新たに高く積み上げられている。以前の構造物とは少し異なる三角屋根の藤棚が設けられている。ガス燈は既に撤去されている。看板類は(左下)、(右下)ではいずれも「炭酸水一コップ参銭」「勝手くみのみ無用」の二つのみで以前に付けられていた英語標記の看板等はすでに取り外され、すっきりとしている。(左下)の広告付きベンチ(津村の中将湯のベンチではなく向かって左側の方、恐らく丹平商事の健脳丸)は右の写真にも写っているから、大体同時代と見て良いだろう。(左下)の表面通信文記載が2分の1に成っている(大正7年~昭和7年製作)ので恐らく大正7年頃と推測した。(左中)では電灯が写っている。有馬に最初に電灯が設置されたのは明治43年6月だからそれより後と推測できる。記録では明治43年9月には大きな水害があり、がけ崩れにより鉄製の太閤橋が墜落し、暫くの間、人馬通行不可能となった。(左上)の写真で桧肌葺きの屋根が損傷を受けているのはその直後だろう。三角屋根の藤棚も真新しく製作途中に見える。石垣が綺麗に積み足されているのもその水害と関連性があるかもしれない。(右上)は石垣が新しいので同時代だろうが何故か「霊泉」の看板が外されている。大正元年に米1俵が6円16銭から8円32銭と大きく高騰しているので、やはりその頃に3銭に値上がりしたのではあるまいかと推測した。
【コップ1杯 五銭の時代①:大正9年頃~昭和3年頃】





表示類は右柱に「炭酸泉湧出場」左柱には「此内へ入る事一切お断り申候 有馬霊泉経営部」奥の梁に「DRINK TANSAN 5SEN PER GLASS」「勝手のみ御断申候 コップ金五銭 瓶詰 金十五銭…(以下不明)」の2種の看板。右手前に「炭酸泉分析表」の立看板。手前梁には千社札がベタベタと貼ってある。アサヒビールの木箱が目に付く。藤棚は平屋根に変更になっている。


この2枚の絵はがきは価格表の看板が同じで「勝手のみ勝手に瓶詰御断申候 一コップ砂糖入一杯金五銭 一瓶詰一本付金拾八銭 仝四打の○○付金八圓五拾銭 御持参の瓶詰は壱件に付金拾五銭 」、左柱には「清涼飲料税施行ニ付無断ニテ入場ヲ堅く御○絶申上候 ○○○○○○ 有馬霊泉営業部」と読める。「炭酸泉分析表」の立看板は同じ。
左側手前には木の柵が無い。瓶詰めの料金が15銭から3銭上がっているようだ。


この2枚の絵はがきは価格表の看板が同じで「勝手飲み(汲みにも見える)又は勝手瓶詰は堅く御断申上候 (棒線)代金表 コップ砂糖入壱杯金五銭 瓶詰○○○金拾八銭 仝○○○○○金○圓二拾銭」と読める。炭酸泉分析表」の立看板は同じ。左柱の看板は判読しづらい。右の写真では藤棚も玉垣手前の木柵も無い。


この2枚の絵はがきの価格表の看板は「定価表 一コップ一杯金五銭 一瓶詰一本金拾八銭 ○○○○○ 一○○○○○○」と定価記載のみだ。また右の炭酸泉分析表」と並んで「清涼飲料税法により製造場○認定相成故○無断入場又ハ瓶詰…御断リ申上候」の縁付きの看板が付いている。ハクツルのベンチはこれ以降の写真にもあり(良く見ると形は少し違うが)連続性が感じられる。
これらの写真は看板や備品などの連続性などから上から順に時代が新しくなっていると今の時点では考えているが、
例えばハクツルのベンチのある(右下)写真と1段上右写真(藤棚が無く、木柵も無い)は、全然雰囲気が異なるが、どちらも組写真の中に昭和3年以降のモチーフ(暗渠化された後の大通りや神鉄駅)があり、ストック写真を使っている可能性もあるため微妙な前後の判断がつきかねる。コップ1杯5銭を大正9年頃からとしたのは、大正9年に米1表の価格が10円60銭から一挙に20円に跳ね上がっている事から推測した。
【コップ1杯 五銭の時代②:昭和4年頃~戦前】



「霊泉」の看板の下に電灯が付いている。細長い看板に日本語と英語でそれぞれ炭酸泉の価格が書いてある。価格を見るとコップ1杯の価格は5銭と変わらないが1瓶の価格が15銭と値下がりしている。昭和3年の金融大恐慌の影響であろうか。右柱に「炭酸湧出場」左柱に「清涼飲料税法により製造場と認定相成候に付無断○○入場堅く御断り申上候」の看板。(左下)の写真は同じ組の写真に昭和3年に開通した神有電車の駅舎や周辺のアールデコ調の町並みが写っているので昭和3年より以降ということになる。石垣は苔むしてきているし、「霊泉」の看板文字の金箔も大分剥げてきているのが分かる。

【戦後】




絵はがきの文字が現在と同じく左から右と成っている。嘗て梁に掛けてあった「DRINK TANSAN 5SEN PER GLASS」の看板が左側の建物の壁面に値段の所だけ\(金額不明)に書き換えられて貼られている。ある時はサイドにある時はバックに灯篭が設置されている。昭和22年神戸市と合併し泉源所有権が神戸市に移管されたが、それ以降料金がどうなっていたのか良く判らない。案外ちょっと前位の歴史は忘れ去られる。地元の人はわざわざ炭酸泉を汲みに行ったりあまりしないから余計記憶にない。記録の重要性を改めて感じるところだ。左柱「清涼飲料税法により製造場と認定相成候に付無断○○入場堅く御断リ申上候」の看板は戦前と同じ物が掛かったままだ。「霊泉」の看板の文字に施された金箔は完全に剥がれている。全体に木が茂りかなり鬱蒼とした暗い雰囲気だ。
【現在:無料で蛇口から飲める】




平成22年1月現在の炭酸泉源の様子。現在1月末を目途に泉源の改修工事中で、工事車両が入っている。
杉などの樹木が生い茂りますます鬱蒼とした様子だ。それが落ち着いた雰囲気で良いという声もあるが、出来れば間伐をして、やはり嘗ての様に日当たりの良い、居心地の良い佇まいが人を呼ぶように思うが如何だろう。
今回は以上。いつもながらずいぶんマニアックで、どうでも良いような話題にお付き合い頂きありがとうございます。
それにしても、あの謎の物体は何だろう。それも含めてご意見おありの方はメールください。
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