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名湯有馬温泉の歴史・文化に関する興味深い話や古写真などを、有馬温泉にある明治創業の土産物店吉高屋店主が趣くままに調べて紹介します。
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現在の太閤通り
今回は有馬温泉のメインストリート『太閤通り』の移り変わりを、古い絵はがきや写真等で紹介したい。前に紹介した写真と重複するものもあるとは思うがお許し願いたい。上の写真は観光総合案内所前から見たところ。善福寺の糸桜が綺麗に咲いていたついこの間のものだ。『太閤通り』といってもここ数年前に付けた愛称で、少し前には『銀座通り』と呼んでいた場所だ。しかし元はといえば何もない町外れの川だったのだ。この道路は滝川の上を塞いで暗渠にし、その上にある。暗渠部分は元々、滝川にかかる「太古橋」と「栄久橋」に挟まれた区間だった。暗渠を抜けた地点で六甲川と合流し有馬川になる訳だ。

当時の外国人観光客を購入ターゲットにしたいわゆる“横浜写真”と呼ばれる大判写真に有馬を俯瞰したものがある。
明治20年台の俯瞰写真 明治20年台の俯瞰写真クローズアップ
丸山(てっぽう山)からの俯瞰風景がお定まりのビューポイントの一つだが、当時の川筋の様子が良く判る。写真奥から手前に向かって滝川が流れてきて手前の石組みの栄久橋を出たところで写真左から右に向かって流れている六甲川と合流している。

横浜写真 横浜写真クローズアップ
こちらの写真もほぼ同じポイントからだが太古橋の様子がよくわかる。鉄製の基礎の上に白い木製欄干。ペケポン状の補強材は鉄製に見える。川沿いに雑草がたくさん生えて入るので上の写真の何年か後だろう。只、太古橋が木製である事から推測すると、どちらの写真も明治24年以前だと考えられる。

2010年6月新たな古写真を入手したので追加してご紹介する。同仕様の写真に写る本温泉の形状から、明治15年以前と推定され、今までに私が得られた最古級のもの。橋のペケポン状の補強材が手摺と同じ白い木製だし、橋の左手の柳の木もまだ下の写真程は成長していないのを見ても一番古い時期のものである事がわかる。。
中央の大きな旅館は二階防。写真左手の庭に人力車が置いてある。右手には竹細工の材料となる竹が干してある。
現在の太閤通り最古級の写真


滝川上流方面から 太古橋横の商家
反対方向、滝川上流からのアングル。橋は横に細長く見えるが上の写真と同じものだ。上流側と下流側で枠の数が違うのでそう見えるだけだ。後に高等温泉の建つ辺りに商家がある。角に大きな柳の木があった。

横浜写真3
クローズアップ さらにクローズアップ
これも大判の横浜写真。明治25年に木の欄干の橋から鉄製のものに変更された後だ。かなり荒っぽい彩色だが、橋の色が本当にこんなに鮮烈な赤だったのかどうかは、絵はがきの写真がモノクロばかりなので分からないが、後の次世代の橋の彩色絵はがきから、赤褐色だったのではないかと推測できる。このアングルからも大きな柳の木が見える。

明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」
このエッチングによる絵図は明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」の一部だが、電信柱のようなものが立っている。

明治36年以降 明治36年以降
明治36年、今の阪急バスの駅の場所に高級家族風呂「高等温温泉」ができた。これらの絵はがきはその後。

明治41年がんばったワンちゃん
前にも「がんばったワンちゃん」で紹介した、上流側から見たこの写真。明治41年のスタンプが押してある。

明治43年9月7日、大雨による洪水で、善福寺前石垣が崩れ、鉄橋の太古橋は墜落し、暫く交通不能に陥った.
また、大正4年から5年にかけて河川の大改修行なわれ、護岸工事、手摺新設などされた。当有馬トピックス「エキゾチック有馬」での、何故いつデザイン変更が行なわれたのかの疑問は、太古橋のリニューアルがどちらの時点で実施されたのかは依然不明ながら、何故デザインが変ったのかはわかった。

リニューアル後の太古橋 河川改修後8
高等温泉と太古橋
 河川改修後7 河川改修後 
河川改修後2 河川改修後4

大正9年兵衛旅館が送迎用自動車を導入。省線有馬温泉駅との間を行き来しだした。

河川改修後5河川改修後10河川改修後3
 河川改修後9 河川改修後6

大正15年、本温泉が木造3階建てに改築された。西側にあった二階防を買収し用地を広げ高等温泉の家族風呂の機能も併せ持ったものだ。それに伴い家族風呂である高等温泉は廃止された。町として温泉経営に伴う経費節減を計ったものだ。高等温泉の建物は昭和に入ってからも数年間そのまま残され氷保存庫として使用されたという。

昭和3年以降1 昭和3年以降2
昭和3年以降3 昭和3年以降4
そして昭和3年太古橋、栄久橋間が埋め立てられ暗渠化され、太古橋、栄久橋は消滅した。高等温泉であった建物には「宝塚・六甲山上ゆき自動車のりば」という看板がつけられ、昭和2年に設立された宝塚有馬自動車株式会社が運営していた。前には自動車がたくさん並んでいる。

昭和7年以降1 昭和7年以降2
昭和7年以降3

昭和7年、宝塚・有馬間にバスが開通した。高等温泉であった建物はもう無く、宝塚有馬自動車株式会社の看板の掛かった近代的なバスの駅舎となっている。この敷地は昭和11年に阪急電鉄に売却され現在に至っている。

昭和13年7月5日、豪雨により大洪水が発生。
阪神大風水害
暗渠部分の土砂が流されて構造部分がむき出しになっているところ。

戦後1
「宝塚・六甲山行き自動車」の看板が右からなので戦後あまり経ってないのか。
戦後3
昭和30年代初頭か。右側のお土産物屋の並びが壮観だが昔は道路だった場所で、舗装道路は大部分が昔、川だった場所だ。
戦後2
滝川の上流側から。自動車がいい味だ。今よりのどかそうに見えるのは懐かしさの様なものも加わってか。

現在2 現在3 
現在4 現在1
再び現在の「太閤通り」。行きかう自動車や人の波で賑わう通りのその下には、今も滝川の清流が途絶える事無く流れている。






















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