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名湯有馬温泉の歴史・文化に関する興味深い話や古写真などを、有馬温泉にある明治創業の土産物店吉高屋店主が趣くままに調べて紹介します。
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【明治23年まであった異人館本温泉 追記】

前回は、現存しないと思われ、エッチングの図版や挿絵で想像するほか無かった明治16年から明治23年までの“異人館”本温泉の写真(一の湯側)を手に入れる事が出来たのでご紹介した。明治16年のオープン後には早速この温泉に、井上馨、山県有朋、後藤象次郎など明治初期の有名人が入湯しに来た。前回で言及したように明治時代の文豪幸田露伴が入湯したのも明治23年なので、ぎりぎりのタイミングでこの異人館本温泉ということになる。それにしても太閤さんの時代からの文化を受け継いできた純和風イメージの有馬温泉に、突如として現れ瞬く間に跡形も無く消えていった。
まさに“オーパーツ”時代錯誤遺物だった。

明治16年からの有馬本温泉異人館本温泉(一の湯側)

ところで実は最近発見した事がある。
俯瞰写真の中にこの異人館本温泉が写り込んでいるのを発見したのだ。
下の写真は以前の有馬温泉タイム・スリップその1で一番最初に紹介した俯瞰写真で、元写真は神戸市立博物館蔵。かつて開催された特別展『有馬の名宝展』で展示、目録にも掲載され、絵はがきも販売されていた写真だ。目録には「明治中期」のキャプションが入っている。詳しく見てみると川沿いの方の御所坊旅館(今も御所坊である)手前の太古橋の手摺が鉄製でなく木製である事から、明治25年以前である事は間違いないと思われる。私製絵はがきが出回り出した明治33年以前の写真はこの写真の様な外国人観光客向けの大判のいわゆる「横浜写真」や、厚紙に薄い写真を貼り付けたもの、もっと古くからあるガラス板のものしかなく、どちらにしても珍しい。ひょっとするとこの写真の中に明治23年以前の異人館本温泉が写っているかもしれないと思い、改めてディテールを見直してみたところ発見したのだ。

明治24年以前 本温泉周辺の拡大
 『有馬の名宝-蘇生と遊興の文化』より 神戸市立博物館蔵
 
 当時、本温泉に隣接してあった尼崎坊(今の「なかさ」さん辺り)の屋根は逆台形で下に行く程すぼまった形が特徴的ですぐにわかるので、目印になる。(後ろの御所坊は今の川沿いの建物とは違う館。)本温泉辺りに目を転じてみると…、今まで見逃していたが、よくみると手前に洋館の本温泉があるではないか!屋根に塔らしき物も立っている。24年以降の宮殿造りに戻った本温泉なら平屋だし、屋根そのものが見えないはずだ。ということはこの写真は異人館本温泉が在った明治16年以降明治23年までのいずれかの時期ということだ。他の建物や構造物などの年代ごとの推移がもっと判ってくれば、今後ますます年代を特定できるかも知れない。

何と最近出版された『むかしの六甲・有馬 絵葉書で巡る天上のリゾート』(石戸信也著 神戸新聞総合出版センター2011年7月8日発行)の中で何とこの“異人館本温泉の二の湯側(現在の足湯側)の古写真が紹介されていた。(記事及び裏表紙) 他にも珍しい絵葉書や古写真が紹介されており資料的価値があるのでお勧めだ。

昔の六甲・有馬むかしの六甲・有馬
裏表紙にも二の湯側の“異人館”本温泉の写真(上左)

これらの貴重な異人館本温泉の写真は由来など説明付きで公表されない限りただの古い建物写真でしかなく歴史資料としては存在しなかったに等しい。長い間、絵しか残ってないと思われていた異人館本温泉の実物写真が、異人館本温泉の建物が闇に葬られ消え去ってから120年を経た今になって、相次いで一の湯側、二の湯側と“表に出てきた”!?事は何とも感慨深い。


【明治15年まであった宮殿造り『元湯』】

さて今回は、いよいよ異人館本温泉の前代、明治15年4月に建替え工事に入るまであった“宮殿造り”の“元湯”だ。江戸時代には“元湯”と呼ばれていたらしく、『本温泉』としたのは実は異人館になってからなのだ。私の知る限り過去に紹介された事のない写真だが、異人館本温泉写真と同時にこの“元湯”写真も入手した。お目にかける前に絵図に描かれた本温泉の姿を流れで把握できるように以下に古いものから順に、判りやすいように西暦と共に列記してみる。(絵図は部分) 尚、有馬温泉タイムスリップ4《本温泉の浴舎の移り変わり》と重なる部分もありますがご容赦ください。


《絵図に残っていない時代:室町時代~安土桃山時代》

室町時代、応安4年(1371)の『祇園執行日記』の有馬温泉に関するの記述の中で「一の湯」が登場する。また享徳元年(1452)相国寺の僧による『温泉紀行』でも「一の湯」「二の湯」の事を紹介してある。つまり、絵図に残っているのは江戸時代以降だが、歴史的にはさらに遡り、 室町時代にはすでに現在と同じ場所に「一の湯」「二の湯」が存在していたと考えられている。

その後の記録では、享禄元年(1528年)12月20日 大火あり町の大半灰燼となる。 また天正4年(1576年)2月24日、大火があり人家はほとんど焼失とある。 いずれも「湯山由緒記」 さらに慶長元年(1596年) 京畿大地震で浴舎が損壊する。

「有馬縁起」には慶長2年(1597年)から慶長3年(1598年)にかけて、豊臣秀吉が、泉源の浚泉工事と湯屋の建て直しをさせた事が記されている。『有馬温泉史』(田中芳男著明治34年刊)には「浴場は初め文禄中豊公の作らしめ給ひし時より宮殿作りの構造にして且湯槽の中間に板壁を設けて二に仕切り南を一の湯北を二の湯とし…」と記されている。中世、南北朝時代以来の、つつましやかな佇まいの元湯を、秀吉好みの豪華な宮殿造りにグレードアップしたことが想像される。明治15年まで在った浴舎までは、有馬温泉が天皇御幸の湯ということで16弁の菊の紋章で棟飾りしていたといわれている。ひょっとしたら秀吉の時代からだったのかもしれない。

《江戸時代 1600~1700年代》
迎湯有馬名所鑑 江戸時代の写本  有馬山温泉小鑑
1678年 迎湯有馬名所鑑 (神戸市立中央図書館蔵)        1685年『有馬山温泉小鑑』 (神戸市立博物館蔵)

元禄8年(1695年)6月29日大火あり市中ことごとく灰燼せり。有馬では『元禄のマルヤケ』といわれていて、貴重な文化財も一瞬で失われてしまったという。今でもこの時焼けた石垣が残っている。

有馬山絵図        増補有馬手引草 
1710年 有馬山絵図 (神戸市立中央図書館蔵)         1717年 増補有馬手引草 (神戸市立中央図書館蔵)

扇面         摂州有馬細見図独案内
「丙午」から1727年か 有馬絵図扇子              1737年 摂州有馬細見図独案内 (神戸市立博物館蔵)

1749年有馬景勝図         摂津名所図会
1749年 摂州有馬山景勝図 (神戸市立博物館蔵)         1796年版 1798年版共通 摂津名所図会

摂津名所絵図1796年        摂津名所絵図1798年 
       1796年版 摂津名所図会                          1798年版 摂津名所図会

摂津名所図会は1796年版と1798年版があり、町を俯瞰した絵図(上.)は共通だが、(ちなみに明らかに一の湯と二の湯の表記を間違っている。)本温泉の絵(下)は何故か差し替えられている。本温泉の絵の1796年版は一の湯側か二の湯側か特定できないが、1798年版は石段があるので一の湯側だろう。1798年版にみる唐破風の飾り屋根や装飾的な手摺などのディテールは前後の文脈から判断すると豪華すぎる。さすがに脚色だろうとは思うがどうだったのだろう。

ここまでの時代の屋根の形式は絵図では切妻屋根であったり、入母屋屋根であったり絵図によってコロコロと変わっている。摂津名所図会の俯瞰絵図では屋根の妻面も異なる。しかしリアルが求められない絵図の場合、簡略化や脚色は日常茶飯事なので鵜呑みにはできない。

ただ、常に温泉の蒸気に晒された木造建築の耐久性には限界もあったであろうし、大火に起因する建て替えもあったであろう。現に、本温泉の絵図が残っている江戸時代だけでも、元禄8年(1695年)、元禄16年(1703年)、宝暦3年(1753年)、明和3年(1766年)、文化6年(1809年)、安政元年(1854年)と数多く大火の記録が残っている。建替えやそれに伴うデザイン上の変更があってもおかしくはない。

一つ言えるのは一の湯二の湯側入り口それぞれに棟があり、湯船の棟が間を繋いでいる形は変わっていないという点だ。資源である温泉の湧出が限られていた為、客を効率よく回転させる必要から、同じ湯船の東西を区切り、宿によって利用できる湯槽を住み分けるという合理的なシステムが生まれた。“入り口2つ”はまさに合理性に基いた“有馬らしい形”だ。

さらに、唐突に『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、原作:アーサー・C・クラーク、1968年作品)に登場する有人木星探査船、ディスカバリー号を思い出した。何かとメタファー(隠喩)に富んだ名作なのだが、ディスカバリー号の長い尾っぽのついた形はまさに“精子”を連想させたが、…

ディスカバリー号

有馬温泉の「一の湯」「二の湯」の相似形の形を見ていてふと思いついたのは“子宮”の形だ。メタファーとしての意図で築いたものではないにしても、結果的に“子宝の湯”としての有馬温泉を象徴していると言える。

元湯      温泉論 宮口の図 
有馬温泉の象徴的存在だった「一の湯」「二の湯」           柘植龍洲「温泉論」 宮口の図



《江戸時代 1800年代》
滑稽有馬紀行         有馬温泉紀行  
 1827刊 滑稽有馬紀行 (神戸市立博物館蔵)       1850年 西沢一鳳軒 有馬温泉紀行 (西尾市岩瀬文庫蔵)

時代は下って1800年代に入る。
これらの絵図はどちらも二の湯側(今の足湯側)から見た図なのだが、残っているそれ以前の絵図よりもリアルになっていると思われる。桧肌葺千鳥破風宮作りで入り口の庇部分が出っ張っている形式や窓開口部分の格子、「合幕」と染められた暖簾など形もディテールもほぼ共通しており、簡略化や脚色のある過去の絵図に比べ、より具体的に描かれている。西沢一鳳軒 有馬温泉紀行の絵図では棟飾りに例の菊の紋章と思しきものが描きこまれている。

『滑稽有馬紀行』の図は真正面からの絵なので判らないが、『有馬温泉紀行』の図をみると向う側一の湯の棟の妻面が描かれており、本温泉の建物のセオリー通り、棟が別れている様がわかる。 『有馬温泉紀行』の図で本温泉の左側が現在の湯本坂。「川の屋」「奥の坊」は今は1階に「三ツ森和菓子工房」さんがあるビルだ。

《安政元年(1854年)の大火》

「余田磁石氏蔵文書」の記録によると安政元年(1854年)4月13日に谷の町から出火し類焼116軒の焼失があり、湯本その他町の中心部が焼失し、この火災で宿屋130軒あまりから30軒あまりに減少し、その後土地騒動などもあったという。そして安政4年当時の年寄りたちは減免の願いや入湯料の値上げを代官所に陳情したという。 また「薬師堂旧記寫」によると上之町辺りより出火、天神社、施薬院民戸三十数戸焼失とある。 

しかし私は、本温泉はこの大火による被災は免れたのではないかと思っている。その根拠は、余田慈石氏蔵文書に記載された「湯本出火有之」における「湯本」は湯本坂周辺の全体を指しているのだと思う事。もしこの大火により本当に本温泉が被災したのならば薬師堂の記録でも真っ先に語られていても良さそうだし、その後の建て替えに関する記述がされた文書がない事。標高の少し高い谷の町から出火し、北側で標高の高い天神宮や、その下の施薬院阿弥陀堂まで類焼しているというから、北向きの風だった事が推測され、標高の低い本温泉は免れる可能性もあること。そして大火の被災を免れたであろうと考える最も大きな理由は今回入手の写真の様子なのだが、これは後で紹介する。従って、明治15年(1882年)まで在った本温泉は、1827年の「滑稽有馬紀行」の挿絵、或いは1850年の西沢一鳳軒の「有馬温泉紀行」に描かれた本温泉の浴舎そのままであったと思うのだ。

ねぎや刷り物          明治15年以前の本温泉
推定1860~1870年代か 有馬禰宜亭十二景 森博氏蔵写真より*    明治15年以前の本温泉見取り図*   (*藤井清氏資料)

左の刷り物で有馬禰宜亭というのは「ねぎや」(現ねぎや陵楓閣)さんのことだ。眺めの良い望楼が特徴だったこの建物は明治時代の写真にも写っているので恐らく安政の大火以降に建てられたものと考えられ、本温泉の後ろの2つの石の階段(今も変わらず在る)の間に建っていた。禰宜亭の眼下に一の湯二の湯の屋根が見えているが、やはり2つの入り口の棟を高さの低い湯船の棟で繋いだ形式が見て取れる。


《いよいよ明治時代に突入》

さて、いままで見てきたような流れを理解した上で、今回入手の明治15年まで在った宮殿造り本温泉の写真を見てみる。これは写真で辿れる恐らく最古の姿だ。未だ他のアングルからのものは見たことが無いし、今後出てくるかどうかも判らない。厚紙に貼られたタイプの5cm×8cm程の小さいサイズの写真をコントラストなど調整して見やすくし、さらに拡大してみた。

明治初期の本温泉 滑稽有馬紀行
明治15年(1882年)まで在った元湯                           文政10年(1827年)刊 滑稽有馬紀行

手前に階段があるので一の湯側だ。向かって左の建物は御所坊。後に異人館本温泉建築の為に買収され解体された建物だ。この写真で合点がいったことがある。西沢一鳳軒の『有馬温泉紀行』で、御所坊の建物が元湯に交差するように描かれていた訳がわかった。御所坊の軒は実際に本温泉の軒の下を潜っていたのだ。御所坊の客室から人影も見える。道を挟んで向って右は奥の坊。本温泉の向う遠方に建っているのは兵衛旅館だ。

真正面からの写真だから、一の湯と二の湯の棟が湯槽の棟でつながっている事や棟飾りの16弁の菊の紋章の存在は確認できない。しかし…手前に出っ張りのある屋根の形もフォルムも…『合幕』の暖簾も…1827年刊の滑稽有馬紀行の絵(二の湯側ではあるが)と瓜二つだ。2階建て3階建ての建物の谷間にひっそりと建っていて、大きさ自体はこじんまりとした建物なのに、何か凛とした美しさを秘めているではないか。『合幕』のロゴも格調があって実にカッコイイ。

窓のデザイン
良く見ると窓枠の建具が細かい菱組みになっている。時代が変わりプライバシーを配慮した改良だったのだろうか。

隣接の御所坊との軒の重なった様子も含め、あまりに西沢一鳳軒『有馬温泉紀行』の絵図と寸分違わないから、安政の大火では被災を免れたのではないかという気がするのだ。百歩譲って仮に安政の大火後に新築されたものだとしても、同じ設計図に基いたものでろう。ここでたった一つ江戸時代の絵図と異なるのは窓の建具だ。絵図では縦の格子だが、写真のはよく見ると菱組みで、唯一ここが違う。明治時代に入り、若干のリニューアルを施したのかも知れない。

西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850年によると本温泉は南北に七間(12.72m程)、東西に三間(5.45m程)の檜肌葺きの建物で、浴槽全体は南北に二丈一尺余り(6.36m程)、東西一丈二尺五寸(3.79m)で、南北の中央に板仕切りがあり、仕切り板の南側は「一の湯」北側は「二の湯」。浴室前には約束事を書いた額が打ち付けてあり、浴室の入り口には観音開きの戸があった。(冬季のみ戸を立てた。) 軒下の灯篭は飾りで入り口の中に金灯籠があり、それには温泉寺が毎晩火を灯した。室内正面には神棚があり、湯船の隅の棚には薄暮れから灯明が焚かれた。

天保12年(1841年)医家宇津木昆台「古訓医伝 温泉弁」では湯壷の深さは、三尺八寸(115cm)とある。 また今(1841年当時)ある湯槽も豊臣秀吉が改修したまさにその当時の遺物であると紹介されている。泉源には手を付けてはならないとの秀吉の遺訓に従い、江戸時代までは、建物は建て変わっても湯槽=泉源はかたくなに受け継がれてきていたのかも知れない。(文化年間1804~1817、医学者柘植龍洲の指導により浚泉した記録があるが、泉源そのものの場所は変わりない。)板で囲まれた湯船の底には敷石が敷かれ、その間から新鮮な温泉が自噴しており、入浴客は立って入浴していた。

上の写真と同じアングルで現在の様子を撮影してみた。

現在の一の湯側

ついでに重ねてみた。
現在と過去を重ねてみた。

前にも書いたことがあるが…タイムスリップして、この浴舎で、底の敷石の間から自然湧出する金泉を味わってみたい。 

 時代は下り明治14年(1881年)、湯山町臨時町会に於いて、ついに老朽化した浴舎改築案が決議された。内務省衛生局御雇オランダ人ゲールツの計画による洋風建築に改良することになり、明治15年(1882年)着工、16年(1883年)2月に、あの“オーパーツ”異人館本温泉が竣工となる…。そしてその重厚にみえる異人館はたった8年を待たずしてこの世から消え去リ、また宮殿作りの本温泉に戻った。但し、明治24年に竣工した“新”宮殿造りは、当初異人館部分(旧御所坊の建っていた場所)を建替えた物で、後に追加工事で浴室の棟も洋風から同じ宮殿造りのテイストの宮殿造りに改築して繋げられた。いずれにしても明治15年(1882年)まで在った宮殿造りの“元湯”とはテイストこそ似ていたが大きさもデザインも異なっていた。


(参考:藤井清編「湯の花物語」、長濃丈夫編「有馬温泉史年表」)

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