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有馬温泉 タイム・スリップ その4 有馬温泉 本温泉の浴舎の移り変わり

ここでは、「有馬温泉 タイム・スリップ その4 有馬温泉 本温泉の浴舎の移り変わり」 に関する記事を紹介しています。
■ ご承知の通り有馬温泉は日本最古の湯と言われ、日本書紀における舒明・孝徳両天皇の行幸、温泉寺(薬師堂)を建立した僧行基に纏わる話、藤原家一族の入湯、僧仁西上人による再興事業など古い記録はたくさんありますが、鎌倉時代くらいまでは、こと浴舎の場所、規模や様子などに関しては定かな記述がありません。しかし、有馬温泉は、その成り立ちからも、あちこちから、ふんだんな量の自然湧出があった訳ではなく、地理的に最も多く自然湧出し易い場所であったと思われる今の本温泉の場所に飛鳥時代以前から温泉場を構えていた可能性は高いと思います。
迎湯有馬名所鑑 江戸時代の写本
図1 迎湯有馬名所鑑 江戸時代の写本


■ 南北朝時代、国師夢窓疎石創建といわれる「無垢庵」なる修行僧向けの浴舎の事が度々記述されています(1344年~)が、これも場所は特定できません。有馬温泉の本温泉は、昔から「一の湯」(南向き)「二の湯」(北向き)の二つの浴舎が棟続きで併設されている事が特徴の一つですが、応安4年(1371)の『祇園執行日記』の有馬温泉に関するの記述の中で「一の湯」が登場するので、ほぼ今の場所であろう事が分かります。享徳元年(1452)相国寺の僧による『温泉紀行』でも「一の湯」「二の湯」の事を紹介してあります。「湯女」が初めて文献に登場するのもこの頃で、長享元年(1487)の『政覚大僧正記』に記述がありますが、実際はもっと遡って存在していたと思われます。
有馬山温泉小鑑
図2 有馬山温泉小鑑


■ 安土桃山時代、慶長元年(1596)7月17日夜の大地震で、有馬も町家が大破し温泉は高熱になり浴場が入浴不可能に陥ってしまいました。そこで豊公(豊臣秀吉)に上申した所、直ちに浴場と泉源の改修が成され翌年6月27日には湯屋の上棟を行い、翌々年3月5日には普請のすべてが完成しています。明治16年まで伝わった宮殿作りの浴場は、棟飾りに菊の御紋があり、他の温泉場では見られない秀吉式の華麗な物であったと伝えられています。秀吉は又同時に、泉源保護の為に河川の改修工事まで実施したと伝えられています。本温泉真近に通っていた川(今の湯本坂)を上流の瀬越で堰き止め、新たに六甲川(今のビューホテル横の川)を開墾し、後の世まで河川氾濫の脅威から泉源や全町を守る事になったと言われており、秀吉が有馬温泉の大恩人とされている大きな理由となっています。
荒増巡覧記

図3 荒増巡覧記

■ 江戸時代、延宝6年(1678)刊の『迎湯有馬名所鑑』(神戸市立中央図書館蔵)、貞享2年(1685)版の『有馬山温泉小鑑』(神戸市立博物館蔵)にはそれぞれ、湯屋の様子が挿絵で紹介されています。(図1,2) 
文政10年(1827)刊の『滑稽有馬紀行』及びその写しといわれる『摂州名所 荒増巡覧記』にも入り口と浴室の挿絵がユーモラスに描かれています。時代的には当たり前と言うべきか、混浴です。(図3) 嘉永3年(1850)刊の『有馬温泉紀行』(西尾市岩瀬文庫蔵)の温泉浴舎の図をよく見ると茅葺千鳥破風宮作りで、棟飾りなどに菊の御紋が見えます。(図4)
二の湯入り口会幕之図、会幕男女入込湯の図
有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 温泉浴舎の図
図4 有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 温泉浴舎の図

■ 明治元年(1868)、11月6日伊藤博文兵庫県知事により、ついに男女混浴の禁止令が発令されました。でも長年の習俗でもあり、混乱を招く為、有馬においては実際にはしばらく実行されなかったらしいです。
兵庫県下有馬武兎原 豪商名所独案内の魁 兵庫県下有馬武兎原 豪商名所独案内の魁
図5兵庫県下有馬武兎原 豪商名所独案内の魁明治17年(1884) 図6温冷両泉改良建築之図
 神戸市立博物館蔵

■ 明治14年(1881)老朽化した温泉浴舎改築の議論がおこり、官庁の保護を受け内務省衛生局御雇オランダ人ゲーレツの設計による洋風建築に建て替える事になり、15年着工、16年2月完成。旧敷地21坪に御所坊から買い取った56坪を加え約3倍の面積を有することになります。(図5、6)
屋根の飾りに菊の御紋の装飾がありますが、立替前の棟飾りの意匠を受け継いだ物でしょう。旧来の浴舎が身分による分け隔てのないクラスレスで、宿泊の湯屋によって、入る浴舎が[一の湯][二の湯」と住み分けられていたのに対し、一等,二等,三等,四等に分けられていました。(因みに二等,三等は混浴。夫婦を別にするのは可哀相だし別の浴槽にするほど湯の量が多くない為。但し外国人が入るときは他人は入れません。四等は無料)改良か改悪か良く分かりませんね。しかし、巨額の費用を要して改築された洋風建築は、たった10年で腐朽し、度々なされた補強も焼け石に水状態となり、明治24年(1891)湯山町臨時町会にて、浴場再改築が決議されてしまいます。建材や構造が風土に合わなかったのでしょうか。とことん不遇なエキゾチック浴舎は残念ながら、写真すら現存しません。 


■ 明治24年に改築された本温泉は、昔風に宮殿作りに戻っています。(写真1)一等浴室は残し2等以下を廃し、男女を別にしました。又温泉の汲み湯も一荷3銭で販売していました。又当時の有馬土産である「湯染め木綿」の製造業者には閉湯時に限り半額で提供されました。今もそういうシステムがあれば良いのにと思います。
この浴舎は明治36年に次世代の浴舎にバトンタッチしましたが、解体された建物は有馬の愛宕山麓に移築され公会堂として利用されました。
一の湯 二の湯
  
写真1  明治24年改築された一の湯(左)と二の湯(右)


■ 明治36年改築工事竣工。(写真2)同時に太閤橋畔に新しい[高等温泉」を建て、そこを従来の一等室である家族風呂専用としました。当時は、明治32年の六甲山鳴動の為温泉の湧出量が倍増しており、充分な湯量が補えました。
有馬温泉 本温泉
写真2 明治36年改築


■ 大正3年(当初明治45年改築と考えていましたが明治45年は小変更に留まり、大正3年の方が変更が大きかった事がその後の調べで分かりました。)一部改築。空気抜きの天窓付きスレート屋根から、クラシカルな檜肌葺きに変更。窓枠にも少し変化が。(詳しくは2010年6月の『本温泉の浴舎の移り変わり2』をご参照下さい。)

■ 大正15年(1926)平屋の浴舎を廃止し、三階建ての豪壮な建物に大改築しました。(写真3)西隣の二階坊の土地を買収し敷地面積も倍増しました。経費節減の為「高等温泉」を廃止し、家族風呂も併設しました。
実はこの建築工事の折、地中から、先に紹介した豊臣秀吉による泉源保護工事の遺構(泉源の周囲の広範囲に渡り松の丸太を縦横に組み合わせ、間に堅く粘度を塗りこめ、温泉の湧出をを一箇所に集めた物。)が見つかっています。結果的にこの工事のお陰で350年間改修工事を一度も行う必要が無かった訳です。太閤様ありがたや…。
大正15年~有馬温泉 本温泉
写真3 大正15年改築され3階建に


■ 昭和22年(1947)2月22日神戸市への合併編入に合意調印。3月1日より神戸市兵庫区有馬町発足。

■ 昭和35年(1960)本温泉は、神戸市立有馬温泉会館として竣工。(写真4)鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。地下は家族風呂。1階は一般浴場、2階は無料休憩室。3,4階は宿泊施設でした。
有馬温泉 本温泉(神戸市立有馬温泉会館)
写真4 昭和35年オープンの「神戸市立有馬温泉会館」


■ 平成14年(2002)改築で「神戸市立有馬温泉の館金の湯」としてオープンし、現在に至ります。(写真5)湯船は2階です。横(昔の「二の湯」側です。)に無料の足湯が設置され、人気を博しています。又「金の湯」オープンの前年には、極楽泉源横に、2番目の外湯である「銀の湯」がオープン。こちらは有名な赤いお湯とは違う泉脈の炭酸泉とラジウム泉を混合した無色透明のお湯です。(有馬温泉は狭い地域に全く異なる泉質の泉脈がある事が特徴の一つです。)この場所も阪神大震災の後、庫裏から「太閤の湯殿」が発見され話題を呼んだ極楽寺の隣接地で、歴史的にも謂れ深い場所にあります。
神戸市立有馬温泉の館金の湯

写真5 平成14年オープンの「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」


駆け足で、本温泉の浴舎の移り変わりをご紹介しました。こうして見ると有馬の本温泉は、有史以来、姿を変え、名を変えしながらも、連綿と同じ場所で人々を癒し続けてきた訳です。そしてこの温泉を通して、温泉を守ってきたり、癒されたりした歴史の彼方の人達と繋がる事が出来る様に思います。そんな思いで、正にその場所、「金の湯」の湯船に浸かるのも良いのでは無いでしょうか。

(今回も郷土史研究家藤井清氏の著作を主に参考にさせてもらいました。又、記載の内容について、もし誤り等ございましたらメール等でご指摘いただければ幸いです。)
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