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有馬温泉 タイム・スリップ その6   写真の中の子供たち

ここでは、「有馬温泉 タイム・スリップ その6   写真の中の子供たち」 に関する記事を紹介しています。
子供のいる風景、写真って何だかほっとしませんか。たとえ殺伐とした風景だとしても子供がいて無心に遊んでいたりすると、それだけで救われたような気になります。

今回は有馬温泉の古い写真の中に写っている無垢な子供の姿を探してみたいと思います。
どんな子に出会えるのでしょう。切り取られた一瞬から過去にタイムスリップしてみましょう。

有馬温泉の撮影スポットといえば昔は何故か鼓ケ滝と相場が決まっていたようで避暑地として人気だった明治時代には異人さんの記念撮影写真も数多く撮られています。滝という存在に何かに人を惹きつけるものがあるのでしょうか。かなり町外れの閑静なスポットなので今は観光客の姿もシーズン以外はまばらですし、地元の人もあまり行きませんが、昔の人は少々歩く事に何の抵抗も無かったのでしょうね。下の鼓ケ滝の写真は筆者の家の昔のアルバムからで筆者の身内が登場しています。

有馬鼓ヶ滝  
 
有馬鼓ヶ滝    有馬 鼓ヶ滝
それにしても有馬に住んでいるのにわざわざ撮影しに行ったんですね。 涼みがてら散歩に行って撮ったのなら昔は今よりずいぶん優雅だったんだなあと思います。上は昭和20年台前半、下の二点は昭和10年

有馬 鼓ヶ滝昭和20年頃の幼稚園の集合写真。何だか服装が素朴でかわいいです。アニメ映画「火垂るの墓」の節子みたいな感じの子がいっぱいいます。 どこかに叔母がいます。

明治20年代頃と思しき名所写真。原寸約6cm×9cmの小さな写真の中にも、拡大すると元気な子供の姿が…
有馬 炭酸泉源 有馬 炭酸泉源
炭酸泉源                【拡大】
有馬 虫地獄 有馬 虫地獄
鳥地獄                 【拡大】

着物が普通の時代。子供も赤ん坊も何となく今より骨太で丈夫そう。しかし、鳥地獄の向うの子は何であっちを向いているのでしょう。あちらに六甲山に通じる魚屋道(ととやみち)がある事を示しているのでしょうか。
(上の2枚の写真:風早章氏提供)


明治・大正時代の有馬には外人向けホテルもたくさんあったので異人さんの子供もたくさん写っていますが、とってもオシャレさんです。外国旅行するくらいだからお金持ちの子だと思いますけど、それにしても文化の違いと言うか、ファッションが決定的に違います。同時代の上の写真のボクと比べてみて下さい!
有馬杉本ホテル 有馬 杉本ホテル 有馬 清水ホテル
杉本ホテル前                清水ホテル前(左の杉本ホテルと同じ子達でしょうか。)

有馬 新道有馬 新道
新道。今の中の坊瑞苑の前の坂道。この道の先の有馬ホテル(外国人専用)から下って来たのでしょうか。

有馬 高等温泉
今の阪急バスの駅の場所にあった高等温泉(明治36年~大正15年)。高級家族風呂でした。窓から滝川を望む赤ちゃん連れの家族客。川は、神鉄が開業した昭和3年に暗渠化され、道路になりました。一つの風情が消えていくのは近代化の代償として止むを得なかったのでしょう。

時代は変わって下の写真は同じ場所の別角度からの物。戦前です。既に道路になっています(無舗装ですが)。高等温泉跡は「宝有自動車」(宝塚有馬間の連絡)の駅になっています。歩道にランドセルを背負った学校帰りの子供が歩いていますが、ランドセルの形や服装のシルエットがやはり何となく戦前ぽい感じがします。この歩道は戦後、商店街になりました。今の太閤通りです。
有馬 宝有自動車
戦前の宝有自動車の駅。今は阪急バスの駅になっています。
 有馬 宝有自動車
     【拡大】
有馬川沿い:戦後の絵はがき
戦後の絵はがき             
アップ
【拡大】
学校帰りの子供といえば戦後の絵はがきにもそんな子供が写っています。下の写真は有馬川沿いです。今の有馬御苑の手前をブラブラと何やら楽しく喋りながら帰宅途中の様です。後ろ姿だけですが上の写真に比べて、(ひょっとすると今の子供と比べても)何となく戦後の自由な雰囲気が漂っている様な気がしてきます。まさか自分達が絵はがきの写真になっているとは…しかし自動車が少ないのはいいですね。ゆったりしています。
有馬 奥の坊別荘 有馬奥の坊別荘
明治後期 奥の坊別荘門口          【拡大】

今の角の坊の敷地の辺りにあった奥の坊別荘の門口に立つ少女三人組。一番向うの子は顔がぶれています。手前の子のちらっと顔を覗かせているしぐさがかわいいです。この道の先に本温泉(現金の湯)があります。
 
有馬 本温泉
大正初期 本温泉裏の石段前

雪だるまの写真は本温泉裏側。左から2人目は郷土史研究家として知られ「有馬温泉史料」も出版された故風早恂氏。とても楽しそうな冬のひとコマ。後ろの石段を登った所に現在、吉高屋支店温泉堂があります。

有馬栄町 有馬栄町
大正か昭和初頭。増富神社の卯の花祭りに集う町内の人々。【拡大】 (筆者の家のアルバムより。)

今と違って子供がいっぱいです。この頃になると着物の子も洋服の子もいますね。何より町内の行事にこれだけ子供が集まっているのが驚きです。宗教行事が町内活動の中心としてきっちりと機能していたんですね。時代とはいえ羨ましい限りです。後ろには昭和3年まであった"茅葺屋根の"吉高屋。隣にあった増富神社は現在は有馬川の川向かいに遷座しており、写真の場所は今は炭酸せんべいの三津森本舗の支店になっています。

有馬中の坊を望む 有馬中の坊を望む
昭和初期 太古橋(現在の太閤橋)より赤橋(現在のねね橋付近)を望む
有馬太閤橋付近
昭和20年代前半 太古橋を望む (いずれも筆者の家のアルバムより。)

男の子は小さな子も皆丸坊主でした。一番小さな男の子は筆者の叔父です。近所の遊び友達でしょうか。バックの景色も木々が多く長閑な佇まいですね。子供もあちこち駆け回って、さぞのびのび遊べたでしょう。遠くに中の坊旅館が見えます。この太古橋は昭和7年に誕生し、遠くに見える赤橋はこの後、昭和13年の阪神大風水害で流され、消滅しますから、撮影されたのはその間ということになります。赤橋は近年になりほぼ近い場所に「ねね橋」として復活しました。太古橋は何度か架け替えられ現在の「太閤橋」に至ります。右写真は約10年後で、女の子は筆者の叔母です。伸び放題の雑草がいい感じです。
有馬 吉高屋前
昭和20年代
有馬 吉高屋 有馬 吉高屋
昭和30年代                   【拡大】

(いずれも筆者の家のアルバムより。)


いずれも吉高屋の店先です。
上:筆者の叔母とお友達。お正月でしょうか。着物姿の頭にリボンを結わえて羽子板持ってます。
下:誰かと思えば、筆者自身ではありませんか!ミゼットのYOSITAKAYA号に乗って発車オーライの図。
こんな写真を撮られた記憶はもうありませんが確かに私ですし、ボッチャン刈りの感触は確かに記憶にあります。吉高屋の向うを見ると「オーシャンウイスキー」の看板。ミゼット。後ろの方には昔の石原裕次郎みたいな頭のアルバイトのお兄さんが…映画のセットではありません。紛れも無いアノ昭和30年代です!こうして見ると自分自身もセピア色の昔に根っこの先の届くオッサンである事に改めて気付かされるのでした。

さて。きりが無いのでこの辺にしておきます。明治・大正・昭和の時代に生を受けた彼、彼女たちは一体どんな未来を夢見たんでしょう。そしてどんな人生を歩まれたのでしょう。
それにしても、写真に姿を残す事の意味を改めて考えさせられます。
        
(上の写真中、特に記載のない分は、郷土史研究家の藤井清氏提供)
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