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江戸時代の有馬温泉へ『いらっしゃ~い!』②

ここでは、「江戸時代の有馬温泉へ『いらっしゃ~い!』②」 に関する記事を紹介しています。
摂州有馬細見図独案内(部分)
 摂州有馬細見図独案内(部分) 江阿弥画 元文2年(1737)版

さて今回は、いよいよ江戸時代中期の有馬温泉に踏み込んで行きましょう。主人公はあなたです。(『滑稽有馬紀行』を参考にしましたが、ある程度は私の想像である事をお断りしておきます。)

【有馬に到着】

 船坂からのルートの最後、うねうねとした山道を抜け、瑞宝寺の門前を横切り、有馬の東側に流れる六甲川まで下ります。川原の岩塊を飛び越え対岸の堤を登り切るといよいよ街の入口です。さて京から2日間も掛けてたどり着いた有馬温泉はどんな様子でしょう。

 町の入り口『京口』から続く4メートル幅ほどの細い道には、途中、水天宮下辺りから道の真ん中に幅1メートル程の排水路が通っていて、道の両側に添う様に木造の店屋の家並みがなだらかに下って続いていました。家々の屋根は殆どが瓦葺ですが、中には板屋根にごろ石を載せている家や板葺の家もあります。水路には所々には石橋も渡してあります。道に沿って坂を下るに従い家屋も密集の度合いが増し、2階、3階建ての建物が多くなってきました。たいてい1階は、店屋で2階,3階が宿屋になっていて、長屋になっている家並みも結構あります。1階の店屋では土間の奥に畳敷きの座敷があって、客が座敷の縁に腰掛けて買い物をしています。奥では職人がそれぞれの店の商品(竹篭細工や筆など)を手さばき良く加工しています。(今の西田筆店さんの様な感じでしょうか。)店先には格納式の縁台を広げ、商材の竹篭などを並べ、軒下からも商品を吊ったりしてディスプレイしています。筆の絵の描いた木の看板を吊っている店もあります。上の階の宿の宿泊客は縁側に腰を掛けたりして、のんびり涼んでいる様子です。

 京口から200メートル程下った道の左側に「うわなりゆ」と書いてある温泉の井戸があります。美人が覗くと嫉妬して呻く様な音が鳴ると云われ名所になっています。それを過ぎた辺りには酒と肴を出すお食事処もありました。さらに60メートル程下った、同じく道の左側に名所と思しき「眼洗い湯」という井戸があり、小さな社が設けてあります。(今たこ焼き屋さんのある場所の少し奥辺りだそうです。)人々が賑やかに集まっています。周辺には竹細工屋、筆屋の他にも休み処や、季節には山盛りの松茸を売る八百屋、山の中の町なのに新鮮な海の魚が並んでいる魚屋などもあります。狭い通りにはくつろいだ格好の人々が途切れる事なく行き交っています。毎日がお祭りのような不思議な雰囲気が漂っていて、何処か桃源郷の趣きです。さらに80メートル程下ると、いよいよ左側に檜肌葺平屋の元湯の、『二の湯』入り口が見えてきました。周りの宿屋と比べても案外こじんまりとした建物です。『合幕』と白い文字で書かれた藍染の暖簾が掛かっており、その上の軒下には夜には火が燈るであろう灯籠が吊ってありました。何やら厳かな雰囲気です。


 当時の宿屋の数は豊臣秀吉が「坊」と呼ばれる宿坊数を12から20に増やして以来20坊のままながら、江戸時代中期以降はそれぞれの系列に「小宿」と呼ばれた庶民向けの滞在型の宿などが増え充実していました。記録によると「小宿」は1670年代で45軒(『迎湯有馬名所鑑』)、1737年で一の湯に33軒、二の湯に34軒計67軒(『摂州有馬細見図独案内』)、1850年には80余軒(『有馬温泉紀行』)あったようです。小宿は商屋(竹細工屋、筆屋、魚屋、八百屋、糸細工屋、その他)の2階,3階である場合がほとんど(所謂“商人宿”)で、数軒が長屋作りになっている場合もありました。言い伝えで『有馬千軒』といわれた繁栄の時代を迎えるのもこの頃からです。(但し『○○千軒』は数が多い例えとして良く使われる表現で、実際には千軒もあった訳ではなく、実際の記録上で最も多かった宝永7年(1710年)で長屋も含めても560余軒でした。)

宝永7年(1710年)の『有馬山絵図』

宝永7年(1710年)の『有馬山絵図』(上図)を見ると、やはり有馬温泉は温泉寺を中心にした町であることがとても良くわかります。篭屋町・鍛冶町・筆屋町・魚の棚町などの町名もあり、篭や筆、刃物などを製造する職人が効率よく仕事を分業するために固まって住んでいたと思われます。またこの地図で見る限り(家屋を記号的に表現しているのかもしれませんが、)ほとんどの家屋が平屋造りのように見えますから、、1700年~1800年位の間に、客数増加に対応する為、「坊」「小宿」増設の目的で家屋の複層化が進んだのかもしれません。


【宿に到着】

二の湯向かいにある「兵衛」に滞在する事にします。これからしばらくあなたも世間の柵(しがらみ)を抜け出して江戸時代の有馬温泉でしばし理想のスローライフを満喫しましょう!

 宿の暖簾を潜ります。女中が出迎え人数を聞いてきました。あなたが人数を答えると、暫くして人数分のお茶と、タライでの足湯の接待を受けます。次に宿泊や入浴のシステムとコースの説明を受け、滞在期間やどの方法での入浴かを決め返事します。『合幕』という数組抱き合わせ入浴で、1人1週間2匁のコースを選びました。 そして、3階の部屋に案内されます。 部屋の中を見ると釜などの自炊設備が整っています。あなたはこの部屋が気に入り、滞在期間中借りる事を返事しました。あなたが再度階下に下り待機している間に、下女や宿の女将が部屋を掃除し、荷物を運び入れてくれました。掃除し終わった部屋に通されると下女が火鉢・煙草盆を持って来ました。

 暫くして宿専属の仕出し屋が生活用品(布団、箸、布巾、下駄、薪、割り木、炭、白米、 魚、野菜、油、醤油、塩等)を、明細を通い帖(納品書お客様控え帖)に記入した物を添え、納めに来ました。割り木は普段自分で釜を焚いた事が無い人にも簡単な様に燃えやすく配慮されています。又、醤油や油は竹筒入りで、縄で台所の柱の折り釘に掛けるようになっています。布団にはグレードがありますが、折角ですから“上”を頼むことにします。風呂に行っている間にでも届いているのでしょう。
後、忘れずに下女に頼んで、夜の宴に『湯女』を呼んでもらう手配をしてもらっておきましょう!太鼓と三味線も。それと酒宴の肴も料理屋に注文してもらっておきましょう。

≪宿泊料金≫

 実は元々有馬の宿は「宿坊」という性格なので、一般的な他の土地の宿とは違い、基本的に決まった泊まり賃の設定は無く、客は諸々の道具等の借り賃を支払い、「心付け」を渡したそうです。

 ◆自炊宿泊の場合: 泊り賃(=心付け)、七厘、鍋、釜の借り賃は宿に、布団、薪、炭、米、 魚、野菜、油、醤油、塩などの生活道具や食材代等は仕出屋に払いました。
◆食事付宿泊の場合: 泊り賃(=心付け)は宿に、食事代、布団代は仕出屋に支払いました。

 安政元年(1854年)に大火があり、有馬全体が焼けてしまった折の申合書(今後の取り決め)には、旅籠一人(朝食、夕食付)上2匁5分、中2匁、下、1匁8分とあり、そのころにはそういう風に泊まり賃を取るシステムに変わっているのが分かります。

 宿には現在のように一夜客も泊まれ、宿に手配して貰い食事を頼むことも出来ましたが、当時、ほとんどの客は滞在型で、湯治客自身が自炊しました。 小宿の宿泊階には自炊の為のかまどや調度もあり、部屋毎に使用した塩、醤油、野菜、魚、薪などの注文を控える通い帳を折釘に掛けて滞在しました。米や、薪は女中が運び、仕出し屋が日常の生活に必要なものを売りに来て、売った物の明細を客の控えとして通い帳に書き込んでいきます。

 厠は大抵建物の裏手の庭に離れて在ります。落語『有馬小便』はそういったシチュェーションが解るとより良く理解できますね。

 湯治の滞在期間は「一廻り」が基本の契約単位で、有馬では、1週間の事でした。(ちなみに城崎温泉では一廻りは5日間だったとか。)長期滞在もこの単位が基本になります。
それにしても1週間が基本なんて、現在と比べて何と優雅ではないですか!交通手段が基本的に徒歩で、何日も掛けて歩いて有馬に来た訳ですから、やはり1泊や2泊では納得できませんね。

≪宿泊にともなう付帯費用≫

 一間駆り切りの湯治客には、町内を掃除し衛生を維持するための費用負担である『間の銭』として40数文(時代によって変動しました。)を集める決まりがあり、町内の担当者が一廻り(1週間)の前日に集めに廻りました。
又、宿への心付けの他に湯女への心付け(かんざし代)や下男、下女(女中)への心付けなど、金額に決まりはありませんでしたが渡すのが常でした。宿の子供や娘に渡したりもした様で、長期滞在ならではのほのぼのとした心の通った交流が垣間見られます。

有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 温泉浴舎の図有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 本温泉の図

有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 嘉永3年(1850)西尾市岩瀬文庫蔵

【ついに元湯に入る!】

 前帯の綺麗な着物を着た若い女性が、元湯の入浴時間が来た事を知らせに、あなたの坊舎に息せき切って走ってきました。噂に聞く『湯女』です。年の頃なら17、18歳でしょうか。少し幼さの残る色白美人ですが、眉を剃り白粉を塗ってお歯黒まで注したその姿には不思議な色香が漂います。坊の若い下女が客の部屋に行き客の手ぬぐい、浴衣、替えの下着、湯を掛ける杓を預かり、あなたに下駄を履くように促し、あなたを先導して元湯まで案内します。彼女は、名前を「みや」と言い、この兵衛の湯女は代々「みや」と名のる事や、湯女には彼女ら若い『小湯女』と年配の「かか」と呼ばれる『大湯女』がある事を教えてくれました。程なく神社風の建物の元湯に到着しました。『合幕』と染められた暖簾を潜ると、中にも天井に金灯籠が吊ってありました。薄暗い中にいろんな坊舎の担当の湯女達や宿の下男・下女が何人も腰掛けに座っています。どの湯女もやはり若く、中には未だ少女といっても良い程の幼い娘もいます。みやが建物両側にある畳敷きの脱衣場へ案内します。みやはあなたが帯を解き着物を脱ぐと浴衣を着せ、下女が下駄を整えると、あなたはそれを履き、正面の浴場の観音開きの入り口まで足を進めます。湯女が又浴衣を脱がし手ぬぐいを渡します。それを受け取ると下駄を脱ぎ浴室の板間に上がり、いよいよ部屋の真ん中にある3m半四方の湯壷に向かいます。

滑稽有馬紀行

滑稽有馬紀行

浴室は薄暗く隅の棚で焚かれている灯明の揺らめく炎が揺らめいています。浴場の上には神棚が祀られています。湯壷は深くて立ったまま入浴しますが、端の方から石段になっていてゆっくりと段を下りて行きます。底の敷石の隙間から3,4箇所温泉が湧き出しています。男も、女もそれぞれ入浴用のフンドシ、腰巻をつけたまま入浴します。『合幕』の時間なので何組かの限定ですから、楽しく世間話のやりとりなどもあります。“お湯の中にも花が咲く”とはこの事でしょう。湯女は元湯の入り口を入った所で客を待っています。耳を澄ますと浴室の外から大勢の湯女や下女達が楽しそうに雑談している声が聞こえてきます。湯から上がり浴室から出る時はあなたの坊の名「兵衛」と呼びましょう。担当の湯女みやが前に下駄を置き、後ろから浴衣を着せ、上がり場へ案内します。そこで湯女が背中を拭いてくれ、預けていた衣類と帯を渡され着ます。暖簾を出ると下女を引き連れ、宿に戻ります。

 部屋に戻って暫くすると下女が濡れた浴衣・手拭・下帯を縁側に干しに来ました。みやは元湯での仕事が終わった後、8時過ぎ頃に座敷に来るそうなのでゆっくり休むことにしましょう。
 申の刻(4時)、遠くから善福寺の御勤め太鼓の音が聞こえてきました。しばらく寛いでいると夕方になりました。暗くなってきたので行灯に火を燈しましょう。下女がご飯を焚きに来ました。又しばらく後、今度は年配の湯女が入浴案内に来ました。下女が縁に干した浴衣、手拭、フンドシを竿から降ろして持ってきました。

 昼と同じように元湯へ行きます。元湯の暖簾を潜ると、昼間は灯っていなかった真ん中の金灯籠に火が入って、ゆらゆらと艶かしい光りを放っていました。残念ながら(?)夜の湯女は皆4,50歳台でした。夜は若い湯女だと酒の一杯入った客が物騒だからでしょうか。或いはお座敷の準備で忙しいのでしょうか。ちょっと残念です。でも8時からのお座敷が楽しみです。

 宿泊施設の増加に対し、当時の有馬温泉は今と違い温泉の湧出量も少なく温泉施設も自噴の元湯がひとつあるだけでした。それも南北に七間、東西に三間ほどの檜肌葺きの建物が1棟あっただけで、浴槽も、南北に2丈余り、東西1丈余りで中央に板仕切りがありました。仕切り板の南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸(約115cm)で皆立って入浴しました。元湯の観音開きの戸を入ると金灯籠があり温泉寺が毎晩火を灯しました。(西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850年)浴室内正面には神棚があり、湯船の隅の棚には昼夜問わず、巻貝に盛った蝋燭の灯明が焚かれました。(布門『有馬日記』1738)

 湯治客は皆、各坊舎、小宿からひとつしか無いこの元湯に出かけるシステムになっていましたから大変混雑しました。何分湯量が少なかった為、道後温泉のような身分の高い人専用の湯船等は無く、時間差はあれ身分の違いに関係なくすべての人が同じ湯船に浸かりました。当時ですから男女混浴でしたが、基本的に客は入場時に渡された入浴用の浴衣(腰巻、ふんどし)を付け局部は隠した状態のまま入浴しており、風紀は保たれていた様です。

 効率的かつ混乱の無い様客をさばく為に「一の湯」に10坊とその系列の小宿、「二の湯」に10坊とその系列の小宿、それぞれ決まった坊舎の客が割り当てられ、時間制限制や人数制限、又、『幕湯』という貸切りの設定などもありました。そしてこれらをうまくコントロールするのが『湯女(ゆな)』と呼ばれた人たちの役目でした。制限時間になっても湯から上がらない客は手に棒を持った湯女に「上がれ、上がれ」と追い立てられ、慌ただしく逃げるように湯から出たそうです。

 湯船の底にひかれた敷石の間から新鮮な温泉が自噴していたといわれています。(今でも本温泉『金の湯』は湯治の元湯と同じ場所ですが、当時は現在のようにボーリングして地中の温泉をそのままポンプで吸いだしているのではなく、完全な自噴だったので、自然と適温になっていたのかもしれません。只、時代により温度も変化しているようで、林羅山が1621年に入湯したおりは非常に熱く、本居太平『有馬日記』1782年や1827年『滑稽有馬紀行』ではぬるかったといいます。)

≪入浴施設の料金≫

霊験あらたかな有馬温泉は「薬師の湯」として、温泉寺を中心とした寺院が管轄していました。寺院は、入浴客から入浴料にあたる『灯明銭』を取り、温泉や寺院の運営費用や収益にあてていました。

  湯治客の場合、一廻り目の前日に「灯明坊主」(集金人)が宿泊の部屋まで出向き『灯明銭』を集めました。(江戸末期まで)  一の湯は施薬院(現天神泉源横)、二の湯は報恩寺(現「有馬の工房」の場所)それぞれの寺が灯明の担当(天野信景随筆集1733年)、一の湯は御所坊、二の湯は兵衛が灯明を献じ、『灯明銭』は温泉寺が集金。(西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850年)と、やはり時代の流れでシステムは少しずつ変わって行った様です。

又、湯治客の場合の灯明銭は下記の様に選択する入浴形態により異なっていました。(一見の入浴の場合の灯明銭は記録が見つからずわかりません。)

 ◆『幕湯(本幕)』 (貸切り)入り口に貸切する坊屋の印などの好みの染のれんを吊り、他の客が入らない様にした。
 料金:人数に関係なく何廻りでも 銀1枚  (『滑稽有馬紀行』1827)

 ◆『合幕』 入り口に「合幕」と白抜きした藍染ののれんを掛け、2~3組の知り合い同志が入り、他の客が入らない様にした。
料金:1人1廻り(1週間) 2匁(もんめ)  (『滑稽有馬紀行』1827)   3匁5分 (西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850)

 (『幕湯』、『合幕』は日に3度程泊り客に案内が来た。)

 ◆『入り込み(追い込み)』   雑多な湯治客による自由入浴  料金:無料 (『滑稽有馬紀行』1827)
1人1週間2匁(西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850)
 (料金も、年代により少しずつ変化しているみたいです。)

 寺院は又、温泉に入る際の諸注意や心構えを書いた『湯文(ゆぶみ)』を発行しました。『湯文』は各坊に備えられ、湯治客に配られました。一見の入浴客の場合は、まず『報恩寺』で『灯明銭』を払い『湯文』をもらってから元湯に入ったようです。『湯文』自体がチケットの役割になっていたのかもしれません。

【小湯女はアイドル】

 元湯で温まって宿に戻って暫くすると女将が料理屋に頼んでおいた料理を持ってきました。間も無くお待ちかねの湯女みやが艶やかな衣裳に身を包み手には燭台を持って、下女は太鼓を持ってきました。三味線を持ったかか(大湯女)も来ました。「旦那さん、今宵は(お呼び頂いて)おありがとうございます。」と湯女達がお辞儀をします。宴の始まりです。一通りお酒が入った頃お定まりの「有馬節」が三味線や太鼓に合わせて披露されます。その後は「けん」遊びで負けた人が杯の酒を飲み干すゲームです。大湯女に京で流行っているという「豆けん」(ちょっとエッチなジャンケン)を教えてもらい散々盛り上がってしまいます。”歌って踊れるアイドル”小湯女との楽しい時間はあっと言う間に過ぎていきます。

滑稽有馬紀行

滑稽有馬紀行

 「今宵はおありがとうございます。お早うお休みあい成りませ」湯女達が挨拶をして帰って行きました。ちょっと寂しい気もしますがひと時を楽しく過ごせた事に感謝して今夜は大人しく床に就く事にしましょう。何せ有馬には養生に来ている訳ですから!

 元々有馬の湯女は鎌倉時代仁西が有馬温泉を復興し12坊を建てた折、温泉管理のためにあてがわれたといわれていますが、詳細は不明です。残存文献では室町時代長享元年(1487)の『政覚大僧正記』にはじめて「湯女」の記述が出て来ます。言い伝えでは、昔は白衣赤袴の装束を付け、歯を染め眉を描き、公卿や高僧の入浴の際その座で碁を囲んだり琴を弾いたり和歌を詠じたり謡などによって旅のつれづれを慰めることを勤めにしていたそうで、相当な教養と格式が必要だったそうです。豊臣秀吉も扶持米を与え優遇しましたが、寛永頃(1624~43)徳川家光の時代に扶持米が廃止され、扶持米という収入源を失い格式も薄れた湯女はそれ以降、前帯をして酒席にも出、地歌・替歌・即興の踊りを披露するようになったそうです。

 江戸時代には、20坊すべてにそれぞれ、元湯で湯治客のお世話をする係りである2人の湯女がいました。一人は『大湯女(かか湯女)』と呼ばれ40歳~50歳台半ばでした。もう一人は『小湯女(娘湯女)』と呼ばれた13,14歳~22,23歳(平均年齢17,18歳)の娘で、地元の色白の美人で、処女であることが第一条件でした。言わば各坊の”看板娘”今で言う「アイドル」であった小湯女は、通り名が決まっており、世代交代で人が入れ替わっても同じ通り名でした。 通り名を名のる権利である”湯女株”は相当な額で取引されたといいます。有馬温泉で一般に湯女と言われるのはこの『小湯女』の方です。

 《一の湯の小湯女の通り名》

 御所坊:まき 奥の坊:なつ 伊勢屋:たけ 中の坊:つね 尼崎坊:ゆり ねぎや:すぎ 大門:たつ 角の坊:つた 上大坊:くり 若狭屋:いち

《二の湯の小湯女の通り名》

 池の坊:まつ 下大坊:なべ→しげ 休 所:たけ 川崎屋:やや 芽の坊:きい 川野屋:みつ 大黒屋:たけ 素麺屋:ふじ 兵衛:みや 水船:つじ

五渡亭国貞1864没摂州有馬湯女  春芝画

五渡亭国貞1864没摂州有馬湯女   春芝画

御所坊まき 雪圭斎昌房明和頃 上大坊 くり
   
御所坊まき 雪圭斎昌房明和頃  上大坊 くり
芽の坊 きい        兵衛 みや
  芽の坊 きい         兵衛 みや

 小湯女は朝から午後3時まで、それ以降の時間は大湯女が浴場の係りをしました。湯女はそれによって貰う心付け、さらに小湯女をメインにお座敷にも呼ばれ座興を披露し、花代の設定は在りませんでしたが、心付けを貰い収入を得ていました。まだ13、14歳の若い小湯女さえ眉を剃り歯にお歯黒を塗り、酒の席に呼ばれれば『有馬ぶし』を歌い、太鼓を打ち、舞を踊ったそうで、古風で雅やかなその姿は男性客には心引かれるものがあったようです。

 只、有馬温泉は行基、仁西以来、薬師信仰と密接に結びついた養生湯ということで、風紀にはことの他厳格であった様で、京や大坂の湯屋湯女と違い、有馬に於ける湯女はあくまでも湯の世話をする女性であり、客はどんなに沢山の心付けを渡しても酒宴を賑やかに楽しむだけで、恋仲になったり、一夜を共にする様な事はご法度でした。その事は『滑稽有馬紀行』をはじめとする数々の江戸時代の案内本等でも窺い知る事ができます。

 『滑稽有馬紀行』においても先に他の客に聞いて"その事"を知っている京男が、そうとは知らず躍起になって湯女を落とそうとする相棒の東男を面白がり、事の次第を知った東男が逆に京男を出し抜いてやろうと、秘密裏に下女(女中)にアプローチするのですが…という至って下世話なストーリー展開が時代を超えた男のサガを感じさせて笑えます。

 ご法度ゆえの添うに添われぬ恋の悩みからの悲劇も数あり、それがまた芝居として演ぜられたといいます。
二の湯、素麺屋の小湯女18歳の藤(ふじ)は当時の客、京の商人松屋と深い契りを交わしましたが、男の心変わりを憤り生瀬川に身を投げ蕾のまま花を散らせたといいます。『有馬ぶし』の中でも「松になりたや有馬の松に ふじに巻かれて寝とござる」と歌われています。

 残念ながら有馬の湯女は、大火や洪水が重なり、有馬温泉自体が衰退していった江戸時代後期には廃業者も多く人数も減り、安政4年(1857年)には一の湯に5人、二の湯に6人とかなり減少しています。明治16年に本温泉が洋風建築になった時に廃止されてしまいました。現在、湯女が歌い踊ったという『有馬ぶし』の歌詞はいろんな古典に散見されますが、元々即興的であったと言われているそのメロディーは今はもう誰ひとり知りません。ちょっと寂しいですね。

【楽しい時間を過ごす】

床に就きながら、明日は何をして過ごそうかなと思いを巡らします。何しろ時間はたっぷりあります。しかもテレビもパソコンも無く「情報量」が現在とはかけ離れて少ない世界です。温泉で知り合ったいろんな所から来た人達との世間話や情報交換の時間がどう考えても一番楽しいだろうと想像できます。でも一廻り7日もありますから時間はたっぷりあります。街を散策して店々をチェックして回って掘り出し物探しとするか…。有馬富士も良く見えるという薬師堂をはじめ、たくさんある寺社詣で徳を授かるのも良し。鼓ケ滝、有明桜、来る時に通った「目洗い湯」、佛座岩、袂石、京の愛宕山も見えると言う愛宕山、その山上の天狗岩、亀の尾の滝など一通り見て回るのも良し…。ちょっと足を延ばして六甲山へ登る山道の途中にある蜘蛛滝、七曲がり滝などの滝見物もしてみようか。はたまた宿で囲碁、将棋三昧と行くか、貸本屋で気に入った本を数冊借りて来て読書三昧か、夜は暗くなったら大人しく寝るか、お金は掛かるけれど湯女を呼んで連夜の酒盛りと行くか…7日間は何をしようが自由なのですから少々困ってしまいそうです。

 現在ならお土産は差し詰め「炭酸せんべい」「松茸昆布」「竹籠・竹細工」「人形筆」「ありまサイダー」といったところでしょうが、さすがに江戸時代に「炭酸せんべい」(明治時代40年~)や「ありまサイダー」は在りません。「人形筆」は既にありましたが、今の様な緻密な模様の糸巻きではなく、もっとシンプルなものであったようです。正保2年(1638年)松江重頼『毛吹草』によると引き物(お椀等)、楊枝、竹柄杓、竹水嚢(水筒の様な物)、人形筆、眉作包丁、菜刀(なた)、鼓滝盆山蒔砂(盆景に使う綺麗な砂。六甲山系は花崗岩が多いため鼓ヶ滝上流でも取れた。)などいろいろと工芸品も製造販売されていたようです。引き物は木を轆轤で引いて作った器をいい、仁西が引き連れて来たといわれている吉野の木地師直系の伝統工芸で、江戸時代にも盛んに製造されていました。又、当時は気候的にも適していたのか、今では考えられませんが松茸が大変良く取れたそうで、西沢一鳳軒『有馬温泉の紀行』1850によると季節には山盛りで販売されていたそうです。延宝6年(1678年)生白堂行風『迎湯有馬名所鑑』でも人形筆、竹器は紹介されています。

【旅の終わり】

書き足りない事は山ほどありますが時間の制約もあり、少々中途半端な所で、余韻に浸りながら今回の旅は終わる事にします。本当にタイムトリップ出来たならどれだけ楽しいでしょう。昔の元湯に浸かってみたいですし、小湯女ともコミニュケーションしてみたいです。他所から来た湯治仲間との世間話もたっぷりしたいです。街を隈なく散策してみたいです。そして写真をバシバシ撮って現代に帰ってきて、絵葉書にして大儲けするのです!

有馬 昔の天神泉源

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