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『子宝の湯』有馬温泉 

ここでは、「『子宝の湯』有馬温泉 」 に関する記事を紹介しています。
前回の『大砲』が"男性的な"話題であるとするなら、今回は"女性的な"話題で参りたいと思います。
有馬温泉が昔から『子宝の湯』として有名なのはご存知でしょうか。
歴史的な側面や、泉質の面からの考察、さらには子宝に因んで有馬温泉に生まれた独特の文化をご紹介します。
塩分と鉄分を含む有馬の湯 伝統工芸品有馬人形筆有馬湯泉神社の子授けのお守り

歴史的には、奈良時代、第36代孝徳天皇の皇子、有間皇子は、有馬温泉の効果で有馬温泉で誕生したと言われています。 以来、有間皇子の話は、後世に語り継がれ、子宝を求める数多くの都人が、はるばる有馬温泉に赴いた歴史の積み重ねが、 『子宝の湯』としての評判を築きあげてきました。現在も西田筆店さんが造っておられる有名な伝統工芸品「有馬人形筆」は、その有間皇子誕生の故事に因み、子宝に対する願いを込めて永禄3年(1559年)に有馬の名家川上氏下男の伊助と言う人によって創作されたと言われています。筆先を下に向けると、筒先から『子宝』に見立てた可愛い人形がぴょこっ!と顔を出します。
又有馬の鎮守湯泉神社は古来、子授けの神として大変人気があり、全国から数多くの方がお参りされます。独特な形の子授けのお守りもあります。古刹林渓寺の庭には、その実を食べると妊娠すると言い伝えられている樹齢200年以上の八重咲きの梅『未開紅の梅』(つぼみのころから真紅という意味)があります。それもこれも先ずは霊験あらたかな『子宝の湯』ありきの謂れではないでしょうか。
 次に泉質的な側面から見ましょう。ご承知の通り有馬温泉は、その効能、泉質の良さから草津、下呂と共に『日本三名泉』に数えられています。
有馬温泉は、同じ地域内に場所と深度により泉質の全く異なる幾つもの泉脈を有する温泉地ですが、中でも有馬温泉最大の特徴は、やはり赤くて塩辛いお湯『金泉』でしょう。一般に「鉄泉」や、「塩化物泉」は保温効果が大変高いと言われているのですが、有馬温泉の金泉は「含鉄・ナトリウムー塩化物強塩泉」であり「鉄泉」と「塩化物泉」の両方の要素を持つ為、よりいっそう保温効果が高い訳で、卵巣の発育不全、冷え性や慢性婦人病などに大変良く効くと言われています。確かに冬場でも、いつまでもポカポカしてなかなか湯冷めしません。有馬の湯が「子宝の湯」とされている事が成分的にも理に適ったものである事がわかります。漢方薬も同じですが、人が永い間の積み重ねで得た経験則というものは、やはり的を得ているのだなあと改めて思います。
又、金泉以外の泉脈の無色の温泉『銀泉』は、「ナトリウム・塩化物炭酸水素塩泉」(銀泉:金気、塩味)「単純放射能泉」(ラジウム泉源:無色透明、無味)「単純二酸化炭素泉」(炭酸泉源:無色透明、無味)などそれぞれ少しずつ成分は異なりますが、いずれも炭酸水素イオンを豊富に含んでおり、膣内の酸度の調整が行われて、不妊が解消される場合があると言われています。

 世に『子宝の湯』と呼ばれている温泉地は星の数程あります。温泉に来たという開放感、気分の転換による所謂「転地効果」はどんな温泉地にもあり大きな要素ではありますが、どうやら有馬温泉には歴史面でも泉質の面でも+αの要素が大いにありそうです。

 さて、私共が所有している『有馬温泉史話』(小澤清躬著昭和13年10月16日発行)という本の中に子宝にまつわる「有馬温泉ならでは」の物の事が記されています。

吉高屋が製造した『湯染め木綿』の装丁小澤清躬先生雅号「蓉谷生」のサイン
『有馬温泉史話』『有馬温泉史話』の複製浮世絵 『有馬温泉史話』の裏表紙の本温泉の様子『有馬温泉史話』に押された昇り亀印

この本の著者小澤清躬先生は医学博士で、有馬温泉の歴史研究家でもあった方です。この本、有馬温泉解説のバイブルともいえる程中身が充実していて面白く、又装丁などに有馬ならではの地元の布や紙などを使用しており、知る人ぞ知るコレクターズアイテムなのだそうです。古本屋さんでも、結構な高値が付きます。なぜ私共が所有しているのかというと、実は私共吉高屋が特別製造した『湯染め木綿』が装丁に使用されており、協力のお礼に先生の雅号「蓉谷生」のサイン入りの本を頂戴したという訳なのです。

*昔の有馬名物で、有馬温泉の金泉で木綿を染め上げたもの。身体に巻くと良く温まる為、妊婦の腹帯などにも利用されたそうです。この本の装丁のように紅葉などの木の葉を木槌で打ちたたき有馬温泉に含まれる鉄分と葉の成分の化学反応を利用し布に葉の形を黒く染め出している物もあります。
 
本題に戻って、この本の中で紹介されている「有馬温泉ならでは」の子宝にまつわる物とは…
江戸時代、大坂の著名な医者柘植龍州(1770~1820)が発明した器具です。龍州の著書『温泉論』共々、紹介されているのですが、それを説明する前にまずは医者としての龍州と有馬との関わりを、同じくこの本の中に書かれたエピソードからご紹介しましょう。

 龍州は有馬温泉を事の他好み、度々入湯に来ていました。当時は、”高温泉”である城崎温泉を賞賛した姫路の医師香川修徳の著書『一本堂薬選続編』(1738年)の影響で、客足を城崎に奪われていた時代でしたが、自著『温泉論』の中で”温度”重視主義の欠点を的確に突き反論、泉質重視を説き、中でも有馬温泉の泉質が最も優れているとしました。
又、寛政年間(1789~1801)当時、有馬温泉では湯の湧出量の減少、温度の低下といった危機的状況にありましたが、その原因を究明、すなわち龍州によると原因は温泉自体のものではなく、泉源が谷底にある為、周辺からの漏水が集まる為であるとし、有馬の当時の有力者兵衛元式等に”浚泉(泉源の底を浚い、深くする事。)”などの泉源改修の必要性を説きました。兵衛元式はこれに共鳴しましたが、大多数の町民はそんなに危機意識をもっていなかったので、龍州を大坂から招き町民を前に彼の『温泉論』や現状の有馬温泉の危機的状況を熱弁してもらったそうです。
この時、龍州が最後に述べた『泉気交変解』という論は私版現代語訳ですがおおよそ次のようでした。

「温泉を成立させている火のエネルギーと水のエネルギーの関係性により有馬では360年毎に地震が起こっている。もしその時期でもないのに温泉の温度に大きな変化(下がっている)があったとすれば何らかの外的障害により火のエネルギーと水のエネルギーが遊離しバランスを崩しているに違いない。思うに、今日の有馬は人家が多すぎて陽光が地に降り注がず地気の発散する余地もない。このままでは、地震、山崩れ、温泉閉塞、泥土噴出、果ては土地の大爆発、山も川も破壊され全村壊滅するような事も無いとは言えない。一日も早く予防の方策(泉源の浚泉)を講ずる必要がある!」 
 殆ど脅しです!

当時は、まだ陰陽学の影響もあり、現代科学から見るとかなり『トンデモ』な理屈ですが、半分は、どうも煮え切らない町民に何としても泉源改修に踏み切らせる為の龍州のハッタリのような気もします。偉い先生の迫力ある熱弁に、さすがに皆が肝をつぶし一挙に泉源改修を決議しました。(因みに”温泉教授”松田忠徳教授の『江戸の温泉学』2007年5月25日発行 では、講演の9年後にやっと浚泉工事に着手したとされています。)しかも、その後、その通りに改修工事を実施すると、物の見事に本来の有馬温泉の湯温、湧出量に戻ったそうです。結果オーライなところがすごいではないですか。
いわば江戸時代における有馬温泉の救世主ともいえる有難い先生なのです。
他にも「金華五石泉方」という人工温泉を考案したりもしました。材料費が高く庶民の手に届くものではなかったそうですが、医学者宇津木昆台も「其の功、有馬温泉と同じく、其精密なること至らざる所なし」と絶賛していますから、かなりのアイデアマンだったようです。

さて、その龍州が「子宝の湯」として評判の良い有馬温泉を、さらに効果的なものにする為に考案したある器具。下がその挿絵です。
温泉論 壺盧の図  温泉論 龍筩の図 温泉論 宮口の図 
 温泉論 壺盧の図   温泉論 龍筩の図     温泉論 宮口の図 
                                           (いずれも「有馬温泉史話」の挿絵)

どうです?何となく想像がつきますでしょうか。
どうやら龍州の考案した「龍筩」(筩=筒)又の名「蕣注」(蕣=あさがお)とは要するに、膣洗浄器であると共に、温泉を子宮内に流入させ、より直接的に暖める為の挿入道具のようです。温泉が勢い良く湯船の底から湧き出ていたという当時の有馬温泉の元湯の特徴を利用したもので、噴出した金泉を受け止め局部に注入する為に考案された物らしのです。名前はその形状の故です。サイズは個々人に合せる為、大蕣(あさがお)、中蕣、小蕣と3タイプ。これを装着して、一廻り(1週間)湯治する訳です。子宮内が洗浄され、粘液などで子宮頸管が閉塞している場合これを取り除き通りを良くし、受精しやすい状態にする事や、子宮を暖める事で新陳代謝を促進する事など、西洋医学的見地から見ても「たしかにある程度までは合理的のものといひ得るのである。」と、小澤博士もその効果を認めています。

さらに『有馬温泉史話』には龍州の「龍筩」がどのような思考錯誤の末出来上がったのかが、細かく紹介されています。面白いので紹介しますと、
初めは竹筒を使い半分を縦に割り数十本の脚に裂き広げ、内側は麻糸で編み外側には昆布(!)を巻き、漏斗形(あさがおの花状)にした試作品を作り、効果をテストしたそうです。
第2弾は浪花のギヤマン(ガラス)工に注文し、工芸品的には大変艶やかで味があったといいます。
然しながら有馬温泉は底に石が敷いてあり、当たって割れやすいガラスでは、取扱いに注意を要する為、ボツ。龍州はこの美しい龍筩を何と有馬の阿弥陀坊の住持の泰眠和尚にプレゼントしたそうです。
第3弾は銅匠に頼んで銅版で作らせたが、器具としては堅牢だが物に当たるとカラカラと音がするので同浴(当時はもちろん男女混浴)の人々の注意を引いて具合が悪かったのと、有馬の湯の作用でたちまち変色し錆びやすいという欠点があり、ボツ。これは、有馬の旅館の女将に試してもらったそうです。
その他、スズなどの金属や、牙角類にも皆一長一短があった…。
そして都合の良いサイズの瓢箪を横に切り取り、うるし仕上げしたところ、膣口への接触も剛柔相合ってはなはだ調子良く、ついに極めて優秀で軽い物が出来上がったのだとか。

現代人の我々なら、ちょっと考えれば解ってしまう様な試行錯誤を真剣にしていた様がほほえましくもあります。それに、試作品をお寺のお坊さんにプレゼントしたり旅館の女将に試してもらうなんて!しかも龍州は、完成した瓢箪の「龍筩」のすばらしさを自画自賛する事を忘れません。自著『温泉論』で、「凡ての婦人病を治しあるひは妊娠を欲するならば、自分の考案した龍筩を使用するに限る、これが最上の方法であって、もしこの器具を用ふるならば百発百中必ず成功する。十数年来の婦人病があっと言う間に治り、妊娠の喜びが得られる」などと自信満々に書いています。しかも「これにいろいろの蒔絵を描き金粉を施すと大変美麗である。」と、工芸品としての美しさまで考えているセンスには脱帽です。『有馬温泉史話』の中で小澤博士も「いかにも手軽に調子良く片付けている。」「いかにも都合よく解釈してゐたものらしい。」と面白がっているようなところもあります。先の有馬町民の前での熱弁といい、龍州先生、かなりイケテマス。

因みに小澤清躬博士が、「有馬温泉史話」の中で餘事ながらと前置きして「子宝の湯」として紹介している温泉を原文のまま次に紹介しておきます。
「静岡の吉奈及び船原(芒硝性苦味泉)、群馬の伊香保(土類含有弱石膏性苦味泉)、兵庫の有馬、新潟の栃尾又(単純泉)、 熱塩(土類含有弱食塩泉)泉)山形の五色(アルカリ泉)、 新五色(単純泉)等である。即ちこれらを通覧するに温泉学的にいへば食塩泉が尤も多く苦味泉これに次ぎ、その他少数の単純泉、炭酸泉、アルカリ泉等であることも注目すべき事である。」
 

只、龍州の考案した瓢箪では生産の歩留まり(効率)が悪くしかも耐久性に乏しいため、後に近在の木地師に木の挽物細工に漆塗りしたものを製作させるようになった事が医学者宇津木昆台「温泉辨」に書かれています。

 『有馬温泉史話』によると、明治3年難波の座禅庵なる人の日記『有馬見屋家』に
かくし上戸、婦人子なきものは其の坊へたずぬべし、図(下図)の如くの上戸なり、陰門へさし入れ湯花を小つぼ(子壺にて子宮の意ならん)へうけいれてよろし、之も湯女にたづぬべし、」と記してあったそうで、明治に入ってもこの器具は健在であった事が解ります。

『有馬見屋家』の図(下図)では木の挽物細工になっています。
「有馬見屋家」かくし上戸
有馬見屋家」かくし上戸(「有馬温泉史話」の挿絵)

又、昔、湯女が酒席で唄った『有馬ぶし』の中でも「有馬名物大きな筆をぶらぶらと、子種をば祈る薬師の湯壷にてまたぐら広げふくふくと湯花のあたる心地よさ、かくし上戸は幕の内、子壺へ入れ玉ふ。」と詠まれており、有馬では「かくし上戸」という名前が一般的に通っていた事が解ります。さらに、昭和13年発行の「有馬温泉史話」編纂当時生存していた老湯女の話では明治15,16年頃までは各湯戸ではみな「かくし上戸」を用意して、婦人客の求めに応じて貸し出されたとのこと。 つまり柘植彰常(龍州)の発明した「龍筩」は「かくし上戸」の名前で少なくとも明治中期までは残っていた訳です。

 そんな、『龍筩』もしくは『かくし上戸』、実は私も現物を見た事がありません。
古くからの旅館なら蔵にでも眠っているに違いありませんが…物が物なだけに表に出しにくいのでしょうか。木製だけにお風呂を炊く時にでも焼かれてしまったのでしょうか。どこかの旅館で資料展示されているという話も聞きません。湯治客向けに売っていたお土産物屋さんまであったそうなのですが。
小澤博士ですら『有馬温泉史話』の中で「とにかく私はこの『龍筩』もしくは『かくし上戸』に太だ興味を感じたので、有馬において百万これを索ねてみたが終に見當らぬ。」と書いています。
明治15、16年頃まではお客に貸し出されていたらしいのに、昭和初期の時点で、小澤博士が探しまわっても既にどこにも見当たらないとはどうした事でしょう。

 ところ変わって、同じく「子宝の湯」として有名な群馬県の伊香保温泉では、明治時代の帝室侍医頭の樫村正徳医学博士が考案したという「子宮洗い器(こつぼあらいき)」が現存し、レプリカが「温泉資料館」に展示してあるそうです。こちらも「子宝」を目的としたもので、形状は指サックの大きい版の様な形でやや真ん中辺がプクツと膨れた様な形で、全体に穴がポコポコと開いています。素材は桜の木をくり貫いたものとか。嘗てはお土産としても売られていたそうですが、子供の笛と間違って買って行ったお客もあるという笑い話もあるそうです。東西広しと云えども同じような湯治場に、形は違えど同じような歴史があるのだなあと思います。

 有馬にも残っていたらなあ…と、思っているところにやって来られたのは、普段からいろいろとご教授いただいている郷土史に詳しい藤井清氏。「かくし上戸」の話をすると、「写真やったらあるで」との有難いお言葉!
果たして数日後持って来られたのは昭和40年(1965年)有馬温泉観光協会発行の『ワンダフル・ありま』という定価200円也の有馬温泉ガイドブック。(現在の目で見ると大変面白く、改めて紹介したいと思います。)昭和40年といえばあの東京オリンピックの翌年。有馬では「旅館案内所」が出来た年です。

「秘蔵拝見」と名打たれたページに奥の坊所蔵「温泉子宝漏斗」と2点の写真入りで紹介されていました。写っている2点とも『有馬見屋家』で紹介されている挽物細工の物とも形が異なります。どちらも漆仕上されているようで艶があり、指サックの大きい版のような形に穴がいくつも開いていてます。一方は穴が縦に並んだ状態でポコポコと開いています。良く見るとサイド面に細長いスリットのような縦穴もありますが、見る角度によっては笛と間違えそうです。もう一方のは細長い縦穴が六方(恐らく)に開いています。もしこれらが最終形とすると龍州の考案した物が1世紀近い年月分のバージョンアップの積み重ねでこのような形になったのかもしれません。製作者によるモデルチェンジや同じ時期にもいろんなバージョンがあったのかもしれません。形の共通性から見ると伊香保温泉の物との繋がりを感じさせるような気もしますが、或いは機能を追い求めた末、共通性のあるフォルムに落ち着いたという事なのかも知れません。奥の坊さんは代々お医者様をされておられた家系という事で今に残っているそうです。女将にも確認させていただいたところ、今でも家宝として所蔵しておられるとの事。現在ウエブサイト等でもあえて写真公開はしておられませんので、当サイトでも写真は控えさせていただく事にします。とにかく実物が残っていて良かったです!小澤博士も奥の坊さんに聞けば良かったのに…或いは文献に登場している古い形の物を探しておられたのかもしれませんが。

 先日、元湯龍泉閣の逸郎社長が司馬遼太郎短編全集の中に『妬の湯』(うわなりのゆ)という短編小説があり、有馬温泉の事が書かれていて面白いからと本を貸してくれました。短編とはいえども、有馬温泉の古い町並みの描写が、まるで見てきたかの様に描かれていて、しかもかなり考証されているところがすごいのですが、この小説の中でキーグッズとして描かれているのが、何と「かくし上戸」なのです。登場人物の女性が温泉に浸かりながら使用する場面もあります。又「有馬温泉史話」を参考にしたと思われるようなエピソードも描かれていて面白かったです。ご興味のあられる方は是非読んでみてください。

今回は、資料を読み進むうちに、「子宝の湯」としてのうんちくもさる事ながら、江戸時代に柘植龍州という有馬温泉の大変な恩人がいて、深く知る程に魅力的な人物だったのだという事も知ることができ、私にとってはとても大きな収穫となりました。今も「金の湯」の前に立っている「日本第一神霊泉」の碑には「柘植龍州の温泉論を読むべし」の意の漢文が刻まれています。
子宝を求めておられる方も、そうでない方も、こんなエピソードいっぱい、効能たっぷりの有馬温泉のお湯で、ゆったりと身体を暖められてはいかがですか。

参考文献:『有馬温泉史話』(小澤清躬著 昭和13年10月16日発行)
『江戸の温泉学』(松田忠徳著 2007年5月25日発行) 
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