
明治末期の物と思しき絵はがきです。(実は先ごろオークションで手に入れたのです。実物の絵はがきには
写真の上に判子が押してあるのですが、見やすいように画像処理で消しています。)
樹齢200年以上と言われている糸桜が有名な善福寺前の石垣です。手前の道は今の「太閤通り」で、
阪急バスの有馬温泉駅の真ん前です。写真は、滝川の対岸からのものです。昭和3年に暗渠化され大通り
となりましたので、この下に流れる滝川は今は道路の下を流れています。石垣自体は今もこのままですが、
絵はがきで人力車が通っている辺りは今は商店街が並んでいる為、現在は上の方しか見えませんが、
この善福寺の「野面積(のずらづみ)」(自然の石をほとんど加工せずに使用した石垣)の石垣は大変古く、
豊臣秀吉の時代には既にあったと思われていますから、是非じっくりと鑑賞頂きたい場所です。
さて私が気になるのはワンちゃんです。人力車夫と比べても相当大きそうな犬ではないでしょうか。
どの人力車にも1匹かならずひっついています。何かのお役目を持った犬なのでしょうか。
まさかいくら大きな犬とはいえ、人力車を曳くには非力でしょう。それはちょっと可愛そう、有馬へ来る山道は
急だし。きっと山道が寂しいから犬を連れているんでしょう…と先日まで思っていました。先日、手に入れた
『有馬温泉史年表』(地域の歴史研究家故長濃丈夫氏の著作)を見るまでは…。以下その中より抜粋します。
『往古から大阪方面より有馬に入湯する場合は、ほとんど生瀬を経由して有馬街道を通り有馬に入ったわけ
であるがその場合、この有馬街道には太多田川の難路が所在していた。即ちこの太多田川通行に当たって
は河原の中を流れを避けながら右や左に飛び移って往来していたのである。(1812年文化9年、『滑稽
有馬紀行』の条参照)ところがこのコースをこの明治10年には人力車が往来しているのである。したがって
この間において、その太多田川の河原を避けて別に人力車の往来が出来る道路が出来ていたものと
見なければならない。しかし残念なことにその間の様子を伝える資料が全然見出せないのである。しかし、
その道は現在この川の右岸につくられている道路であったことには間違いなく、また明治5年に平野(神戸)
有馬間の道路が開かれたことなどから考えると、恐らくこの道もこれと前後してつくられたものなるべく、
その工事費の如きものも、大阪方面の入湯客を得意していた湯山町(有馬町)が出したものであろう。
ところでこの間を往来した人力車であるが、難路急坂があったため、車夫たちは大いに苦しんだらしい。
そのため生瀬駅の車夫たちは各自に犬を飼いこれを先曳きに使って急坂を登っていったのである。
ところが反対にこれを下る際には、木で以って車にブレーキを当てて下ったらしいが、しかしそれでも
支えきれず、よく転覆したらしい。しかし乗客には大した被害も与えず続けていたようである。
こうして人力車は大正の初期ころまで唯一の交通機関として利用されていたが、その後、自動車の発達
と共に次第にその姿を消してしまったのであった。』
やっぱり、このワンちゃん達に曳かせていたんです!今みたいに交通機関が無かった当時、当たり前の事
だったにしろ、さぞしんどかったでしょう。ちゃんと大事にされていたんでしょうか。餌は充分だったのでしょう
か。人間も大変だったろうけど、しんどい目をしたワンちゃん達の事を考えると目頭が熱くなります。もし宝塚
有馬間の蓬莱峡経由の阪急バスに乗る事があったら、嘗てこの急な山道のルートを行き来していた人力車
と、それを一生懸命引張ったワンちゃん達の苦労を心の中で労ってあげて欲しいと思います。
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