そろそろ桜の季節。
桜の似合う有馬温泉にとって最高の季節だ。
今回は有馬温泉の桜の古い風景を紹介する。
有馬温泉と桜の関係や歴史、名所などは過去の紹介記事「有馬温泉と桜」もご参照ください。
さて最初にご紹介するのは昔の有馬名所鼓ヶ滝入り口にあった『有明桜』だ。
ヤマザクラの巨木であったと伝えられている。

この写真は有明桜の写る最古の写真で、明治時代の写真。
細い山道の傍らの石碑のところにあるのが「有明桜」。
白黒なのは致し方のないところ。進行方向をもう少し行けば鼓ヶ滝がある。(写真提供藤井清氏)

(絵はがきの部分拡大)大正後期頃の同じ場所。枝ぶりから同じ木である事がわかる。
同じ場所かと見紛うほど道は広げられ、小屋や、案内看板が立ち、観光地の雰囲気になっている。

こちらは同じ場所の昭和初期の彩色絵はがき。上の写真とほとんど変化は無い。

こちらは「神戸後藤製」と書いてある彩色絵はがき。(色は画像処理で現物より強調しています。)
「有馬温泉鼓ヶ滝有明桜」とあるが、写っている桜はどうも上の桜とは枝ぶりが違う。
こちらにも石碑らしきものが建っているがその形も違いそうだ。
道の細さ、道先案内の白い柱の同一性から、この彩色写真は明治中期の最古の写真に
近い時代のようだが…。絵はがきの普及は明治33年以降なのでそれ以降。
しかしいったいどういうことだろう。

ヒントになったのはこの絵はがきの写真。
石碑がこちらとあちらのどちらの桜の根元にもあり合計2つ写っている。
道先案内の白い柱は左側。ということは「神戸後藤製」と同じ方向から撮った写真だ。
こちら側の『有明桜』の根元の石碑が「神戸後藤製」ではギリギリ、フレームから外れている訳だ。
そして『有明桜』はこの時代には2本あったのだ。と個人的には推論したいと思う。
どの写真にも写っている、道の反対側の枯れた古木も桜みたいだから、
群生自体は2本と言わず何本もあったと考える方が自然かもしれない。
さて「神戸後藤製」の彩色絵はがきだが、道先案内の白い柱には
「右とりぢごくたんさん水左きよ水おんせん」と書いてある。三差路になっていたようだ。
直進方向は「とりぢごくたんさん水」方面写真手前が鼓ヶ滝方向だろう。
しかし、この写真で気になるのは桜より、柴を背たらって行き来している人たちだ。
当時の燃料は薪で、焚付けには燃えやすい柴を利用していたから、
宿屋の多い有馬温泉では山で刈った柴を頻繁に運ぶ必要があったのだろう。

よく見ると、柴を担いで運んでいるのは皆、どうみても現代ならゲームに夢中になっている年頃の
坊主頭のかわいらしい少年たち。この子たちも社会的な分業をきっちりとになっていたわけだ。
昔の人は偉かったのだなーとつくづく思う。
話題変わって下の素敵なモノクロ写真は郷土史に詳しい藤井清氏の撮影。
多彩な藤井氏は写真もプロ級だ。(ちなみに”アジサイ”研究では日本有数の研究者だ。)
昭和40年頃だろうか。モノクロの写真の微妙なトーンから春の色を感じて欲しい。
写真に写る有馬川沿いの桜並木は今はもう無い。神戸電鉄駅横の桜並木もほぼ無い。


有馬川沿い。木調のコンクリート製手すりが懐かしい。自動車の通行量が増えた為、
安全な通行を確保する為の張り出し歩道設置に伴い、桜も手すりも撤去された。致し方の無いところ。

神戸電鉄駅横の坂道。

神戸電鉄駅横の桜並木の坂を悠々と下ってくる自動車。バンパーが輝き、まるで時間が止まっている様。
しかし、自分の住む街の写真。何気ない日常風景や、特に人が写っているヤツ。
撮っておく事の大切さを改めて痛感する。
桜の似合う有馬温泉にとって最高の季節だ。
今回は有馬温泉の桜の古い風景を紹介する。
有馬温泉と桜の関係や歴史、名所などは過去の紹介記事「有馬温泉と桜」もご参照ください。
さて最初にご紹介するのは昔の有馬名所鼓ヶ滝入り口にあった『有明桜』だ。
ヤマザクラの巨木であったと伝えられている。

この写真は有明桜の写る最古の写真で、明治時代の写真。
細い山道の傍らの石碑のところにあるのが「有明桜」。
白黒なのは致し方のないところ。進行方向をもう少し行けば鼓ヶ滝がある。(写真提供藤井清氏)

(絵はがきの部分拡大)大正後期頃の同じ場所。枝ぶりから同じ木である事がわかる。
同じ場所かと見紛うほど道は広げられ、小屋や、案内看板が立ち、観光地の雰囲気になっている。

こちらは同じ場所の昭和初期の彩色絵はがき。上の写真とほとんど変化は無い。

こちらは「神戸後藤製」と書いてある彩色絵はがき。(色は画像処理で現物より強調しています。)
「有馬温泉鼓ヶ滝有明桜」とあるが、写っている桜はどうも上の桜とは枝ぶりが違う。
こちらにも石碑らしきものが建っているがその形も違いそうだ。
道の細さ、道先案内の白い柱の同一性から、この彩色写真は明治中期の最古の写真に
近い時代のようだが…。絵はがきの普及は明治33年以降なのでそれ以降。
しかしいったいどういうことだろう。

ヒントになったのはこの絵はがきの写真。
石碑がこちらとあちらのどちらの桜の根元にもあり合計2つ写っている。
道先案内の白い柱は左側。ということは「神戸後藤製」と同じ方向から撮った写真だ。
こちら側の『有明桜』の根元の石碑が「神戸後藤製」ではギリギリ、フレームから外れている訳だ。
そして『有明桜』はこの時代には2本あったのだ。と個人的には推論したいと思う。
どの写真にも写っている、道の反対側の枯れた古木も桜みたいだから、
群生自体は2本と言わず何本もあったと考える方が自然かもしれない。
さて「神戸後藤製」の彩色絵はがきだが、道先案内の白い柱には
「右とりぢごくたんさん水左きよ水おんせん」と書いてある。三差路になっていたようだ。
直進方向は「とりぢごくたんさん水」方面写真手前が鼓ヶ滝方向だろう。
しかし、この写真で気になるのは桜より、柴を背たらって行き来している人たちだ。
当時の燃料は薪で、焚付けには燃えやすい柴を利用していたから、
宿屋の多い有馬温泉では山で刈った柴を頻繁に運ぶ必要があったのだろう。

よく見ると、柴を担いで運んでいるのは皆、どうみても現代ならゲームに夢中になっている年頃の
坊主頭のかわいらしい少年たち。この子たちも社会的な分業をきっちりとになっていたわけだ。
昔の人は偉かったのだなーとつくづく思う。
話題変わって下の素敵なモノクロ写真は郷土史に詳しい藤井清氏の撮影。
多彩な藤井氏は写真もプロ級だ。(ちなみに”アジサイ”研究では日本有数の研究者だ。)
昭和40年頃だろうか。モノクロの写真の微妙なトーンから春の色を感じて欲しい。
写真に写る有馬川沿いの桜並木は今はもう無い。神戸電鉄駅横の桜並木もほぼ無い。


有馬川沿い。木調のコンクリート製手すりが懐かしい。自動車の通行量が増えた為、
安全な通行を確保する為の張り出し歩道設置に伴い、桜も手すりも撤去された。致し方の無いところ。

神戸電鉄駅横の坂道。

神戸電鉄駅横の桜並木の坂を悠々と下ってくる自動車。バンパーが輝き、まるで時間が止まっている様。
しかし、自分の住む街の写真。何気ない日常風景や、特に人が写っているヤツ。
撮っておく事の大切さを改めて痛感する。
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