前回に引き続き有馬温泉の過去の写真等の中からエキゾティックな洋風文化の入り込んだ要素を中心に紹介したい。趣くままなので紹介順に何ら意味の無い点お許しください。

有馬霊泉土地株式会社はかねてより経営していた、炭酸泉源に隣接の炭酸温泉旅館を大正12年に洋館3階建の炭酸ホテルに改築した。丸い塔がエキゾチックな洋館だ。今は炭酸泉源公園になっている。
時代はさかのぼるが写真のビリャード場も現炭酸泉源公園敷地内にあった建物で、寺町にあった旧清涼院境内への小学校校舎新築に伴い、明治26年、炭酸泉の隣地(炭酸ホテルの一段上の敷地)に、旧青涼院の堂宇(堂の軒)を移築したもの。写真でも、お寺の窓枠を塗りつぶしているのが判る。和と洋の文化との融合が面白い。

隣地の二階坊の敷地を買収、増床して大正15年に建て替えられた本温泉。一般の浴場に加え貸切家族風呂もあり、廃止になった高等温泉の機能も引き継いでいる。一見和風のエッセンスで味付けされているが、窓枠などは洋風。内部の構造も和洋折衷風だ。写真は2階の休憩所。上から見ると屋上がある。
昭和3年に竣工した神有電車有馬温泉駅の駅舎は流行のアールヌーボーやアールデコ調を取り入れた装飾的な鉄筋建築。2階には和洋折衷の趣きの食堂があった。神鉄駅舎はシンボル的な建物で、そのレトロな趣きから近年の観光ポスターにも採用されていた程だったので老朽化とはいえ何とか保存出来なかったものかと惜しまれるところだ。

当店吉高屋を含む駅前の建物群も駅舎竣工に合わせ、木造ながら表のモルタル壁面はすべてアールデコ調に新調され、依然として木造瓦葺き2階、3階建て中心の有馬の町の中で異色のエリアであった。吉高屋のアールデコ調モルタル外壁は昭和40年前後に台風被害の影響で崩落の危険からやむなく平坦な壁面に改修せざるを得なかったのだが、今、きらく屋さんが入っている建物などは健在で往時の面影がある。

昭和3年は神有電車の開業に加え、今の太閤通りに当る部分の滝川が暗渠化され道路になった有馬温泉にとって画期的な年だった。洋風の意匠の電灯の灯る街灯も据付けられた。大正15年、本温泉の新浴舎竣工に伴って廃止された高等温泉の建物は、しばらくは氷令倉庫として使われていたが解体され、跡地は昭和5年、すでに昭和2年から開業していた宝有自動車会社に貸付られて洋風駅舎となり、さらに昭和9年道路改修費の寄付を条件に阪急電鉄に売却された。(今の阪急バスの駅の場所。)昭和初期の有馬川沿いの街灯。右手現在有馬御苑さんの建っている辺りにオシャレな洋館があった。

今の阪急バスの駅、若狭屋さんの前に太古橋があった。写真左の明治時代中期には鉄骨の橋に白ペンキ塗装と思われる木製手すりが付いている。ややアーチ型になっている。「ペケ」の意匠は洋風だ。 明治24年頃、前回も紹介した鉄製手すりに代わったと思われる。(写真中央) 絵はがきを良く調べると後年鉄製の手すりが異なるデザインのものに付け替えられているのがわかった。(写真右) 初期の鉄製手すりの方が、より装飾的で、英国のビクトリアン・ゴシックの香りがするが後年のものは鉄の鋲がむき出しでやや無骨に見える。どうでも良い事かもしれないが、かなうなら当時の担当者に時期と変更理由を尋ねてみたいものだ。
明治41年から大正11年の間の杖捨橋も白ペンキで「ペケ」の意匠だ。大正11年竣工のものは鉄製のあっさりした格子デザイン。昭和6年換装の杖捨橋はモダンな洋風のアーチ型で当時としては珍しかった。

大正4年からの有馬軽便鉄道前の乙倉橋の手すりは格子だが、やはり白ペンキ塗装で、流行の洋風の要素が感じられる。昭和3年コンクリート製になった乙倉橋。有馬温泉の玄関口にふさわしいモダンで風格のあるものとなった。

万年橋も「ペケ」の構造が取り入れられている。絵はがきが赤に彩色されているので実物もそうだったのだろう。向こうに有馬ホテルが見えている。
以上、思いつくまま記事にした。また新たな発見があれば紹介したいと思う。
(炭酸ホテルの写真の一部は当時の炭酸ホテルの案内カタログのもの。ビリヤードと最も古い太古橋の写真は郷土史に詳しい藤井清氏提供。吉高屋の写真は私の家のアルバムより。その他は絵はがきの写真です。)





有馬霊泉土地株式会社はかねてより経営していた、炭酸泉源に隣接の炭酸温泉旅館を大正12年に洋館3階建の炭酸ホテルに改築した。丸い塔がエキゾチックな洋館だ。今は炭酸泉源公園になっている。
時代はさかのぼるが写真のビリャード場も現炭酸泉源公園敷地内にあった建物で、寺町にあった旧清涼院境内への小学校校舎新築に伴い、明治26年、炭酸泉の隣地(炭酸ホテルの一段上の敷地)に、旧青涼院の堂宇(堂の軒)を移築したもの。写真でも、お寺の窓枠を塗りつぶしているのが判る。和と洋の文化との融合が面白い。




隣地の二階坊の敷地を買収、増床して大正15年に建て替えられた本温泉。一般の浴場に加え貸切家族風呂もあり、廃止になった高等温泉の機能も引き継いでいる。一見和風のエッセンスで味付けされているが、窓枠などは洋風。内部の構造も和洋折衷風だ。写真は2階の休憩所。上から見ると屋上がある。




昭和3年に竣工した神有電車有馬温泉駅の駅舎は流行のアールヌーボーやアールデコ調を取り入れた装飾的な鉄筋建築。2階には和洋折衷の趣きの食堂があった。神鉄駅舎はシンボル的な建物で、そのレトロな趣きから近年の観光ポスターにも採用されていた程だったので老朽化とはいえ何とか保存出来なかったものかと惜しまれるところだ。




当店吉高屋を含む駅前の建物群も駅舎竣工に合わせ、木造ながら表のモルタル壁面はすべてアールデコ調に新調され、依然として木造瓦葺き2階、3階建て中心の有馬の町の中で異色のエリアであった。吉高屋のアールデコ調モルタル外壁は昭和40年前後に台風被害の影響で崩落の危険からやむなく平坦な壁面に改修せざるを得なかったのだが、今、きらく屋さんが入っている建物などは健在で往時の面影がある。




昭和3年は神有電車の開業に加え、今の太閤通りに当る部分の滝川が暗渠化され道路になった有馬温泉にとって画期的な年だった。洋風の意匠の電灯の灯る街灯も据付けられた。大正15年、本温泉の新浴舎竣工に伴って廃止された高等温泉の建物は、しばらくは氷令倉庫として使われていたが解体され、跡地は昭和5年、すでに昭和2年から開業していた宝有自動車会社に貸付られて洋風駅舎となり、さらに昭和9年道路改修費の寄付を条件に阪急電鉄に売却された。(今の阪急バスの駅の場所。)昭和初期の有馬川沿いの街灯。右手現在有馬御苑さんの建っている辺りにオシャレな洋館があった。



今の阪急バスの駅、若狭屋さんの前に太古橋があった。写真左の明治時代中期には鉄骨の橋に白ペンキ塗装と思われる木製手すりが付いている。ややアーチ型になっている。「ペケ」の意匠は洋風だ。 明治24年頃、前回も紹介した鉄製手すりに代わったと思われる。(写真中央) 絵はがきを良く調べると後年鉄製の手すりが異なるデザインのものに付け替えられているのがわかった。(写真右) 初期の鉄製手すりの方が、より装飾的で、英国のビクトリアン・ゴシックの香りがするが後年のものは鉄の鋲がむき出しでやや無骨に見える。どうでも良い事かもしれないが、かなうなら当時の担当者に時期と変更理由を尋ねてみたいものだ。



明治41年から大正11年の間の杖捨橋も白ペンキで「ペケ」の意匠だ。大正11年竣工のものは鉄製のあっさりした格子デザイン。昭和6年換装の杖捨橋はモダンな洋風のアーチ型で当時としては珍しかった。


大正4年からの有馬軽便鉄道前の乙倉橋の手すりは格子だが、やはり白ペンキ塗装で、流行の洋風の要素が感じられる。昭和3年コンクリート製になった乙倉橋。有馬温泉の玄関口にふさわしいモダンで風格のあるものとなった。

万年橋も「ペケ」の構造が取り入れられている。絵はがきが赤に彩色されているので実物もそうだったのだろう。向こうに有馬ホテルが見えている。
以上、思いつくまま記事にした。また新たな発見があれば紹介したいと思う。
(炭酸ホテルの写真の一部は当時の炭酸ホテルの案内カタログのもの。ビリヤードと最も古い太古橋の写真は郷土史に詳しい藤井清氏提供。吉高屋の写真は私の家のアルバムより。その他は絵はがきの写真です。)
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