大きな事実誤認をしていた事がわかった!
2006年6月の『有馬温泉タイム・スリップ 本温泉の浴舎の移り変わり』で本温泉の浴舎の移り変わりを上古から現在まで大まかに紹介させて頂いたが、データの絵はがきが増えたので比較検討しやすくなり、つい最近になって近代の浴舎の推移について大きな事実誤認をしていた事がわかった。
今回はその訂正も含め、改めて近代以降の本温泉の変貌をより詳しく改めて写真で紹介したい。大多数の人が「そんな事どっちゃでもええわ」と思うかもしれないが、間違ってお伝えしていた事がわかった以上、訂正してお伝えしないわけにはいかない。尚、今回は皮を剥いでいくように現在の様子から順に遡って紹介することにする。(従って左から右へ、上から下に行く程、時代を遡って古くなる。)
●2002年(平成14年)~現在 約9年目
「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」地上2階建。1階は休憩ロビー、フロント、市民トイレ。2階に浴場。屋外に無料足湯。今年9年目を迎えた。昔の「二の湯」入り口側にある無料足湯も好評。

現在の「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」飲泉場は看板下の角。 大人気の無料の足湯は昔の二の湯側になる
ちなみに絵はがきのアングルは昔からほとんど決まっている。有馬温泉の本温泉は伝統的に一の湯、二の湯と二つの入り口があったがその内、二の湯を湯本坂の上側から見たところだ。そのアングルの現在の様子を紹介することにしよう。

こんな感じだ。今は入り口の方向が全く変わっており、昔は現在の足湯の場所が二の湯の入り口側だった。後で昔の絵はがきを紹介するが、そのあたりが解っているとよりイメージしやすいと思う。
●1961年3月(昭和36年)~2001年(平成13年) 約40年間
神戸市立有馬温泉会館として竣工。鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。地下は家族風呂。1階は一般浴場、2階は無料休憩室。3,4階は宿泊施設。入り口右側に銀泉の飲泉場があった。
私の記憶にある本温泉はこの建物。備え付けのチープな器で飲んだ銀泉の気持ち悪い味!?を懐かしく覚えている。さすがに平和な時代、しかも鉄筋!建物の味としてはイマイチだったかもしれないが、それも時代を反映している。“アップ・トウ・デイト”の功罪を改めて考えさせられる建物。しかし知る限り一番寿命は永かったわけだ。

私が懐かしく感じる温泉会館 入り口右脇にあった飲泉場 (いずれも藤井清さんの撮影) オープン当初の温泉会館
●1926年8月(大正15年)~1960年(昭和35年) 約35年間
平屋の浴舎を廃止し、三階建ての豪壮な建物に大改築したもの。工費は6万円。西隣の二階坊の土地を買収し敷地面積も倍増。経費節減の為「高等温泉」を廃止し、家族風呂も併設。2階には診療所、理髪店、休憩室があった。当初は唐破風(Rライン)の屋根の大きな門が一般用入り口で、千鳥破風(三角屋根)屋根の方が家族風呂入り口だった。昭和初期に表の庇屋根のエリアが少し広がったりといった外観上の小変化はあるものの、大きな変化も無く、あの戦争を跨いだ。1階には昭和24年に発足した有馬温泉観光協会事務所もあった。しかし、これが私が赤ん坊の時まで在ったとは…。

最終期の写真(藤井清さん撮影) 子供の格好がいかにも昭和30年代 看板に無料休憩室、理髪室、診療室



左2枚は「一文字旅館」の看板から昭和7,8年以降 昭和3年以降 昭和3年以前
右に行く程時代が遡る。従って一番新しい左の写真の標柱が最も汚れている訳だ。
本温泉向かいの「池の坊旅館」が「一文字旅館」の看板に変わっている。中央の2枚は、所有している組みの写真に神鉄の駅や暗渠化された太閤通りが写っているので、昭和3年以降である事がわかる。右は組みの写真に昭和3年以前の杖捨橋が写っておりそれ以前とわかる。

左側2枚は昭和初期 右は大正15年のリニューアル時のもの

完成予想図
時代が少し遡って、唐破風門両側の庇が異なる。ここで写真に写りこんでいる本温泉向かいの兵衛旅館の看板及び照明具は、ひとつ古い本温泉の後期の写真にも写りこんでおり、移り変わりの順を考証する際のポイントになってくるので注目しておいて欲しい。国旗と提灯が飾られているのが、大正15年のこの建物のオープン当初だ。歩いている女性のモガ(モダン・ガール)ファッションが時代を反映している。絵図ハガキは、完成予想図といえるもので、現実の仕上がりとは少し異なっている。
●1903年4月(明治36年)~1925年(大正14年) 約23年間
この期間の移り変わりを勘違いしていた。この建物が明治45年に改修された事は記録に残っているのだが、今までは深い事を考えず、明治36年に檜葺きで出来た平屋建てを、換気窓付きスレート葺き(ウロコ形状)に改修したものと考えていたのだ。当然換気窓付きの方が換気に優れるだろうし、スレート葺きの方が耐久性もありそうだからだ。ところがデータの絵はがきを比較しながら冷静に調べていく内に、最近になって、実際はその逆で明治36年に換気窓付きスレート葺きでオープンし大正3年(当初明治45年としていたがその後の調べで訂正しました。)に檜葺きに改修したものであるということがわかったのだ。

檜肌葺き屋根 換気窓付きウロコ状スレート屋根
そう考える理由は、データとなる絵はがきが増えてきたので、同じ要素や異なる要素を整理し、前後関係のつじつまが合うように順に並べてみたところ、以下の要素のすべてに整合性がとれる事を確認したからだ。
*同メーカー同仕様の絵はがきに写っている他の名所の様子及び絵はがき表の形式による年代推定…明治40年から大正6年の間は表面下部の3分の1に通信文記載欄がある。また大正7年~昭和7年の間は表面下部の2分の1に通信文記載欄がある。今回、所有している絵はがきの調べでは明治40年~大正6年発行の様式のものは6種中すべてスレート葺き本温泉写真で、檜肌葺き本温泉が写っているものは無かった。逆に大正7年~昭和7年の発行の様式のものは10種中8種が檜肌葺き本温泉で、スレート葺き本温泉写真が2種だけあったが、どちらも京都山口青旭堂のものである。ストック写真を使ったのか、或いはハガキ様式の例外で、古いものなのかも知れない。
*白い標柱の汚れ具合の推移…1903年4月(明治36年)以降の汚れ具合が樹木など他の要素の推移とつじつまが合い時間経過と共にどんどん汚くなっており、1926年8月(大正15年)~が一番汚くなっていた。
*本温泉の照明器具のガス燈から電灯への移行…有馬に電灯がともったのが明治43年だから、ガス燈か電灯かの違いからも時代を推定できる。
*向かいの兵衛旅館の照明器具や看板の推移・次世代との連続性…重厚で装飾的なガス燈からモダンな球形のガラスフードの電灯に変化している。また同じ電灯・看板が次世代の3階建て本温泉写真にも写り込んでおり連続性がある。
*郵便局の案内看板の存在…郵便局は明治40年7月から大正13年11月までの間、尼崎坊(現在の「金の湯」の敷地の西南側の一部)の場所にあったので、その以前以後にはは本温泉前に案内看板は無いはず。
*広告類の内容の推移…明治40年ごろから「三津森のタンサンせんべい」広告がでてくる。「人力車○○表」と読める看板から「乗合自動車」看板へ時代と共に内容が推移している。
*建物の造作変化…案内看板や本温泉の照明器具の在る、なし、建物の造作などのつじつまが合っている。
*電柱の存在…存在以前と以後にわけられる。有馬に電灯が普及した明治43年に架設されたと考えられる。
*本温泉の庭の樹木の大きさの推移…手前の樹木の大きさが時間の推移に伴ってだんだん大きくなっている。
では、以上の要素を踏まえて導き出したこの時期の本温泉の移り変わりを、新しい時代の写真から順に絵はがきで見てみよう。

いずれの写真も大正後期と考えられるが、左(縦長)がこの建物の一番終わりごろと考えられる。
今回の調べの結果、檜肌葺きの姿を、より新しい姿と判断した。上の写真に写っている兵衛旅館のR状に曲げられたブリキ看板と白い球の門燈は先に紹介した次世代の写真と共通だ。電信柱に隣接して木枠の縁の広告看板があり、中の広告は全部異なるが木枠は共通だ。広告内容の「自動車」「乗合自動車」の内容は文明の利器であり、それ以前に無いものだ。
一番左の写真だけ、入り口横の券売所と思しき造作物の天井の部分の造形が異なる事、その下の低い木戸の枠が低くなっている事、白い標柱がこの本温泉建築物の写真の中では一番汚れている事などから、一番新しい時代のものと考えられる。屋根の向うに立っていると思しき細長い棒が何なのかはわからないが、次世代の建築の為の準備と関係があるのかも知れない。
又、左側2つの写真がその他すべての写真と決定的に異なるのは、高い窓と下の窓の間に庇が無い事だ!装飾性のみで機能上大きな意味の無い庇を、老朽化に伴う危険性を考慮し撤去したと考えるのが妥当ではないだろうか。良く考えたら建築的には後から取り付ける方が無理がある!右端の彩色の分は、組みの写真に大正4年に開業したラジウム温泉が写っているので少なくともそれ以降、つまり改修後であることがわかる。

大正13年以前大正7年以降
左の写真は、より新しい写真に共通して写っている三角頭の「花の坊」案内看板(写真左手)が設置されているが、それまであった郵便局案内看板が撤去されている。逆に右の写真ではまだ「花の坊」案内看板が取り付けられておらず、代わりに電信柱に郵便局案内看板が取り付けられている。それ以外に大きな違いは無い。
郵便局は明治40年7月から大正13年11月までの間、尼崎坊(現在の「金の湯」の敷地の西南側の一部)の場所にあったので、その以前以後には本温泉前に案内看板は無いはず。従って案内看板の無い左の写真が必ずしも大正13年11月以降とは言えないものの、右は間違いなくそれ以前との推測が成り立つ。さらに右は表面下部の2分の1に通信文記載欄がある絵はがきなので、大正7年以降大正13年以前といえる。いずれも檜肌葺きで、改修後だ。

3枚とも本温泉改修前で、電灯導入後だから明治45年以前、明治43年以降
左の写真は逆光によるハレーションで確認しづらいが、よく見ると本温泉はスレート葺きで換気窓がうっすらと見えるので、改修前だ。電信柱の斜め支柱上の小さめの看板を良く見るとぼんやりだが「人力車○○表」と読める。その下の広告には「タンサン煎餅 おんせん煎餅 ○○かし本 三津森○○」と書いてある。三津繁松氏がタンサン煎餅を発売したのが明治40年だから明治40年以降、本温泉が改修された大正3年以前であろう。
さらに、上の3点のいずれの写真も本温泉の唐破風門の左にはガス燈が、中央に小さな電灯が設置されている。
左の写真では兵衛旅館の門燈が電灯となり看板もリニューアルされているのがわかるが 中央の写真ではまだガス燈だ。有馬でガス燈に変わり電気燈の使用が導入され始めたのは明治43年からだから、いずれの写真とも恐らく明治43年から本温泉が檜肌葺きに改修される大正3年に至るまでの間だろう。

郵便局案内板のあった期間は推測できる タンサン煎餅広告は明治40年以降 電灯の導入時期で時代がわかる

いずれの写真も明治40年から43年の間。右側の2枚は入り口横に屋根付きの案内板が設置してあり、より古い形態と考えられる。
左の写真は表面下部の3分の1に通信文記載欄がある明治40年~大正6年に発行された様式だが、写真には未だ電柱も無く本温泉の唐破風門に未だ電灯が設置されていない。従って明治43年以前、明治40年以降である。細かい部分だが未だ入り口横に券売所が設置されていない。真ん中の写真は入り口横に屋根付きの案内看板が設置してある。左と同じく表面下部の3分の1に通信文記載欄があるタイプだが、より古い。右側2枚は少なくとも所持しているデータの中ではこの建物のもっとも古い形態だろうと考えている。
ところで、これら最も初期の写真の入り口の横の案内看板とガス燈にはさまれた低い四角柱は何だろう。撤去されたらしくこれ以降の写真には登場しない。ところが、実はこれと同じものが写っている写真があったのだ。

それは…、明治24年から明治35年まで在った前世代の本温泉の入り口の同じ場所にあったのだ!
何しろ100年以上も前のものなのでこの物体が何なのかは解らないが、少なくともこれで私の考えた推移説(そんなたいそうな
…)が正しいことがより明確になった。 (その後、kobemtshさんからコメントを頂き、明治時代のポストである事が判明しました。ありがとうございました。スッキリ!ポストの推移はコチラをどうぞ)

初期の頃の一の湯側の様子。 同じ場所の現在の様子。
ではなぜ、近代的とも思える換気窓付きスレート葺きからわざわざ旧式の檜肌葺きに、一見時代を逆行するような改修が行なわれたのだろう。耐久性の問題でスレートの石が落下する危険性が生じたか、或いはスレート葺きだと換気窓程度では対処できないくらい湿気がこもり、建物にダメージがあったという事なのであろうか。その両方であろうか。
泉質の違いがあるので一概には言えないが、1894年(明治27年)に竣工した道後温泉本館も傷みがかなり出ているとは聞くが、それでもいまだ健在なのはすごい。あちらは日本の伝統的瓦屋根だが、湿気の処理をどのようにクリアしているのだろうか興味深い。
次回は、さきほどチラッと登場した、明治24年から明治35年まで在った前世代の本温泉からもっと昔に遡ってタイムスリップを試みる。新発見の写真もご紹介しますんで請うご期待!
2006年6月の『有馬温泉タイム・スリップ 本温泉の浴舎の移り変わり』で本温泉の浴舎の移り変わりを上古から現在まで大まかに紹介させて頂いたが、データの絵はがきが増えたので比較検討しやすくなり、つい最近になって近代の浴舎の推移について大きな事実誤認をしていた事がわかった。
今回はその訂正も含め、改めて近代以降の本温泉の変貌をより詳しく改めて写真で紹介したい。大多数の人が「そんな事どっちゃでもええわ」と思うかもしれないが、間違ってお伝えしていた事がわかった以上、訂正してお伝えしないわけにはいかない。尚、今回は皮を剥いでいくように現在の様子から順に遡って紹介することにする。(従って左から右へ、上から下に行く程、時代を遡って古くなる。)
●2002年(平成14年)~現在 約9年目
「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」地上2階建。1階は休憩ロビー、フロント、市民トイレ。2階に浴場。屋外に無料足湯。今年9年目を迎えた。昔の「二の湯」入り口側にある無料足湯も好評。


現在の「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」飲泉場は看板下の角。 大人気の無料の足湯は昔の二の湯側になる
ちなみに絵はがきのアングルは昔からほとんど決まっている。有馬温泉の本温泉は伝統的に一の湯、二の湯と二つの入り口があったがその内、二の湯を湯本坂の上側から見たところだ。そのアングルの現在の様子を紹介することにしよう。


こんな感じだ。今は入り口の方向が全く変わっており、昔は現在の足湯の場所が二の湯の入り口側だった。後で昔の絵はがきを紹介するが、そのあたりが解っているとよりイメージしやすいと思う。
●1961年3月(昭和36年)~2001年(平成13年) 約40年間
神戸市立有馬温泉会館として竣工。鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。地下は家族風呂。1階は一般浴場、2階は無料休憩室。3,4階は宿泊施設。入り口右側に銀泉の飲泉場があった。
私の記憶にある本温泉はこの建物。備え付けのチープな器で飲んだ銀泉の気持ち悪い味!?を懐かしく覚えている。さすがに平和な時代、しかも鉄筋!建物の味としてはイマイチだったかもしれないが、それも時代を反映している。“アップ・トウ・デイト”の功罪を改めて考えさせられる建物。しかし知る限り一番寿命は永かったわけだ。



私が懐かしく感じる温泉会館 入り口右脇にあった飲泉場 (いずれも藤井清さんの撮影) オープン当初の温泉会館
●1926年8月(大正15年)~1960年(昭和35年) 約35年間
平屋の浴舎を廃止し、三階建ての豪壮な建物に大改築したもの。工費は6万円。西隣の二階坊の土地を買収し敷地面積も倍増。経費節減の為「高等温泉」を廃止し、家族風呂も併設。2階には診療所、理髪店、休憩室があった。当初は唐破風(Rライン)の屋根の大きな門が一般用入り口で、千鳥破風(三角屋根)屋根の方が家族風呂入り口だった。昭和初期に表の庇屋根のエリアが少し広がったりといった外観上の小変化はあるものの、大きな変化も無く、あの戦争を跨いだ。1階には昭和24年に発足した有馬温泉観光協会事務所もあった。しかし、これが私が赤ん坊の時まで在ったとは…。



最終期の写真(藤井清さん撮影) 子供の格好がいかにも昭和30年代 看板に無料休憩室、理髪室、診療室




左2枚は「一文字旅館」の看板から昭和7,8年以降 昭和3年以降 昭和3年以前
右に行く程時代が遡る。従って一番新しい左の写真の標柱が最も汚れている訳だ。
本温泉向かいの「池の坊旅館」が「一文字旅館」の看板に変わっている。中央の2枚は、所有している組みの写真に神鉄の駅や暗渠化された太閤通りが写っているので、昭和3年以降である事がわかる。右は組みの写真に昭和3年以前の杖捨橋が写っておりそれ以前とわかる。



左側2枚は昭和初期 右は大正15年のリニューアル時のもの

完成予想図
時代が少し遡って、唐破風門両側の庇が異なる。ここで写真に写りこんでいる本温泉向かいの兵衛旅館の看板及び照明具は、ひとつ古い本温泉の後期の写真にも写りこんでおり、移り変わりの順を考証する際のポイントになってくるので注目しておいて欲しい。国旗と提灯が飾られているのが、大正15年のこの建物のオープン当初だ。歩いている女性のモガ(モダン・ガール)ファッションが時代を反映している。絵図ハガキは、完成予想図といえるもので、現実の仕上がりとは少し異なっている。
●1903年4月(明治36年)~1925年(大正14年) 約23年間
この期間の移り変わりを勘違いしていた。この建物が明治45年に改修された事は記録に残っているのだが、今までは深い事を考えず、明治36年に檜葺きで出来た平屋建てを、換気窓付きスレート葺き(ウロコ形状)に改修したものと考えていたのだ。当然換気窓付きの方が換気に優れるだろうし、スレート葺きの方が耐久性もありそうだからだ。ところがデータの絵はがきを比較しながら冷静に調べていく内に、最近になって、実際はその逆で明治36年に換気窓付きスレート葺きでオープンし大正3年(当初明治45年としていたがその後の調べで訂正しました。)に檜葺きに改修したものであるということがわかったのだ。


檜肌葺き屋根 換気窓付きウロコ状スレート屋根
そう考える理由は、データとなる絵はがきが増えてきたので、同じ要素や異なる要素を整理し、前後関係のつじつまが合うように順に並べてみたところ、以下の要素のすべてに整合性がとれる事を確認したからだ。
*同メーカー同仕様の絵はがきに写っている他の名所の様子及び絵はがき表の形式による年代推定…明治40年から大正6年の間は表面下部の3分の1に通信文記載欄がある。また大正7年~昭和7年の間は表面下部の2分の1に通信文記載欄がある。今回、所有している絵はがきの調べでは明治40年~大正6年発行の様式のものは6種中すべてスレート葺き本温泉写真で、檜肌葺き本温泉が写っているものは無かった。逆に大正7年~昭和7年の発行の様式のものは10種中8種が檜肌葺き本温泉で、スレート葺き本温泉写真が2種だけあったが、どちらも京都山口青旭堂のものである。ストック写真を使ったのか、或いはハガキ様式の例外で、古いものなのかも知れない。
*白い標柱の汚れ具合の推移…1903年4月(明治36年)以降の汚れ具合が樹木など他の要素の推移とつじつまが合い時間経過と共にどんどん汚くなっており、1926年8月(大正15年)~が一番汚くなっていた。
*本温泉の照明器具のガス燈から電灯への移行…有馬に電灯がともったのが明治43年だから、ガス燈か電灯かの違いからも時代を推定できる。
*向かいの兵衛旅館の照明器具や看板の推移・次世代との連続性…重厚で装飾的なガス燈からモダンな球形のガラスフードの電灯に変化している。また同じ電灯・看板が次世代の3階建て本温泉写真にも写り込んでおり連続性がある。
*郵便局の案内看板の存在…郵便局は明治40年7月から大正13年11月までの間、尼崎坊(現在の「金の湯」の敷地の西南側の一部)の場所にあったので、その以前以後にはは本温泉前に案内看板は無いはず。
*広告類の内容の推移…明治40年ごろから「三津森のタンサンせんべい」広告がでてくる。「人力車○○表」と読める看板から「乗合自動車」看板へ時代と共に内容が推移している。
*建物の造作変化…案内看板や本温泉の照明器具の在る、なし、建物の造作などのつじつまが合っている。
*電柱の存在…存在以前と以後にわけられる。有馬に電灯が普及した明治43年に架設されたと考えられる。
*本温泉の庭の樹木の大きさの推移…手前の樹木の大きさが時間の推移に伴ってだんだん大きくなっている。
では、以上の要素を踏まえて導き出したこの時期の本温泉の移り変わりを、新しい時代の写真から順に絵はがきで見てみよう。



いずれの写真も大正後期と考えられるが、左(縦長)がこの建物の一番終わりごろと考えられる。
今回の調べの結果、檜肌葺きの姿を、より新しい姿と判断した。上の写真に写っている兵衛旅館のR状に曲げられたブリキ看板と白い球の門燈は先に紹介した次世代の写真と共通だ。電信柱に隣接して木枠の縁の広告看板があり、中の広告は全部異なるが木枠は共通だ。広告内容の「自動車」「乗合自動車」の内容は文明の利器であり、それ以前に無いものだ。
一番左の写真だけ、入り口横の券売所と思しき造作物の天井の部分の造形が異なる事、その下の低い木戸の枠が低くなっている事、白い標柱がこの本温泉建築物の写真の中では一番汚れている事などから、一番新しい時代のものと考えられる。屋根の向うに立っていると思しき細長い棒が何なのかはわからないが、次世代の建築の為の準備と関係があるのかも知れない。
又、左側2つの写真がその他すべての写真と決定的に異なるのは、高い窓と下の窓の間に庇が無い事だ!装飾性のみで機能上大きな意味の無い庇を、老朽化に伴う危険性を考慮し撤去したと考えるのが妥当ではないだろうか。良く考えたら建築的には後から取り付ける方が無理がある!右端の彩色の分は、組みの写真に大正4年に開業したラジウム温泉が写っているので少なくともそれ以降、つまり改修後であることがわかる。


大正13年以前大正7年以降
左の写真は、より新しい写真に共通して写っている三角頭の「花の坊」案内看板(写真左手)が設置されているが、それまであった郵便局案内看板が撤去されている。逆に右の写真ではまだ「花の坊」案内看板が取り付けられておらず、代わりに電信柱に郵便局案内看板が取り付けられている。それ以外に大きな違いは無い。
郵便局は明治40年7月から大正13年11月までの間、尼崎坊(現在の「金の湯」の敷地の西南側の一部)の場所にあったので、その以前以後には本温泉前に案内看板は無いはず。従って案内看板の無い左の写真が必ずしも大正13年11月以降とは言えないものの、右は間違いなくそれ以前との推測が成り立つ。さらに右は表面下部の2分の1に通信文記載欄がある絵はがきなので、大正7年以降大正13年以前といえる。いずれも檜肌葺きで、改修後だ。



3枚とも本温泉改修前で、電灯導入後だから明治45年以前、明治43年以降
左の写真は逆光によるハレーションで確認しづらいが、よく見ると本温泉はスレート葺きで換気窓がうっすらと見えるので、改修前だ。電信柱の斜め支柱上の小さめの看板を良く見るとぼんやりだが「人力車○○表」と読める。その下の広告には「タンサン煎餅 おんせん煎餅 ○○かし本 三津森○○」と書いてある。三津繁松氏がタンサン煎餅を発売したのが明治40年だから明治40年以降、本温泉が改修された大正3年以前であろう。
さらに、上の3点のいずれの写真も本温泉の唐破風門の左にはガス燈が、中央に小さな電灯が設置されている。
左の写真では兵衛旅館の門燈が電灯となり看板もリニューアルされているのがわかるが 中央の写真ではまだガス燈だ。有馬でガス燈に変わり電気燈の使用が導入され始めたのは明治43年からだから、いずれの写真とも恐らく明治43年から本温泉が檜肌葺きに改修される大正3年に至るまでの間だろう。




郵便局案内板のあった期間は推測できる タンサン煎餅広告は明治40年以降 電灯の導入時期で時代がわかる



いずれの写真も明治40年から43年の間。右側の2枚は入り口横に屋根付きの案内板が設置してあり、より古い形態と考えられる。
左の写真は表面下部の3分の1に通信文記載欄がある明治40年~大正6年に発行された様式だが、写真には未だ電柱も無く本温泉の唐破風門に未だ電灯が設置されていない。従って明治43年以前、明治40年以降である。細かい部分だが未だ入り口横に券売所が設置されていない。真ん中の写真は入り口横に屋根付きの案内看板が設置してある。左と同じく表面下部の3分の1に通信文記載欄があるタイプだが、より古い。右側2枚は少なくとも所持しているデータの中ではこの建物のもっとも古い形態だろうと考えている。


ところで、これら最も初期の写真の入り口の横の案内看板とガス燈にはさまれた低い四角柱は何だろう。撤去されたらしくこれ以降の写真には登場しない。ところが、実はこれと同じものが写っている写真があったのだ。


それは…、明治24年から明治35年まで在った前世代の本温泉の入り口の同じ場所にあったのだ!
何しろ100年以上も前のものなのでこの物体が何なのかは解らないが、少なくともこれで私の考えた推移説(そんなたいそうな



初期の頃の一の湯側の様子。 同じ場所の現在の様子。
ではなぜ、近代的とも思える換気窓付きスレート葺きからわざわざ旧式の檜肌葺きに、一見時代を逆行するような改修が行なわれたのだろう。耐久性の問題でスレートの石が落下する危険性が生じたか、或いはスレート葺きだと換気窓程度では対処できないくらい湿気がこもり、建物にダメージがあったという事なのであろうか。その両方であろうか。
泉質の違いがあるので一概には言えないが、1894年(明治27年)に竣工した道後温泉本館も傷みがかなり出ているとは聞くが、それでもいまだ健在なのはすごい。あちらは日本の伝統的瓦屋根だが、湿気の処理をどのようにクリアしているのだろうか興味深い。
次回は、さきほどチラッと登場した、明治24年から明治35年まで在った前世代の本温泉からもっと昔に遡ってタイムスリップを試みる。新発見の写真もご紹介しますんで請うご期待!
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