有馬温泉の本温泉の建物の歴史を可能な範囲まで写真でたどる企画。
前回は、明治36年に換気窓付きスレート葺きでオープンした本温泉の時代までたどった。また、唐破風門の手前にある謎の黒い四角柱は前世代の本温泉時代の写真にも写っている郵便ポストであったことが、この記事へお寄せいただいた貴重なコメントで判明した。それではさらにその前世代の温泉へ遡ることにしよう。相も変わらぬマニアックな“うんちく”で恐縮ですが宜しければお付き合い下さい。
●1891年2月(明治24年)~1902年(明治35年) 約12年間

これは前回取り上げた1903年(明治36年)竣工の唐破風門スレート葺き屋根本温泉の華々しいデビューの影で、先立つ明治35年6月、本温泉としてのお役目を終え愛宕山中腹に移設された後の建物写真。かつての一の湯側ではないかと思う。愛宕山遊園地経営を目的として設立された有馬保勝会の運営で、当初は記念図書館、後に公会堂として使用された。昭和18年に土井船艇兵器工業(株)に貸与、昭和20年払い下げられたが、程なく老朽化の為解体された。
では、何故明治36年の改築は実施されたのだろう。
1899年(明治32年)7月5日から約1年にも渡り有馬温泉を中心とした六甲山周辺で発生した群発地震(『六甲山鳴動』または『有馬鳴動』と言われている。)が発端だった。 その震動はまるでも巨石が天上から墜落したかの如き物凄さで、住民は一様に狼狽し不安の日々が続いた。 11月中旬には、従来40℃の湯を一日に300石(54,117ℓ)湧出していたところが、温度が50℃に上昇し湧出量も600石(108,234ℓ)に倍増したという。温泉の温度を下げ入浴に適した温度にする為、従来からの貧弱な用水施設を整備する必要に迫られ、又湧出温泉水の増加により従来の下水管で処理しきれず有馬川に流出した温泉水による下流域の農作物に対する悪影響が問題化しだし、排水管整備まで必要となった。
逆に有馬温泉としてはその増えた湧出量を利用してさらなる顧客動員を計らぬ手はない。
定かな記録には出会ってはいないが、恐らくこの湧出量倍増以降に、それを利用し、高級家族風呂の機能(従来の一等室)を本温泉とは別に独立分離させ、「高等温泉」として現在の阪急バス駅の場所に建設すると同時に、用水、排水施設の改良の必要に迫られた本温泉そのものを改築する旨が決定されたのではと思われる。明治35年3月の町会記録には改築工事監督者を県庁に依頼する旨が記されている。また同4月の町会記録によると改築後不要になる建物を記念保存し図書館等に利用したいとの有馬神苑会(5月に有馬保勝会に改称)の出願を許可する旨決議している。
かくして1年後の1903年(明治36年)4月23日、唐破風門(これも流行!)が特徴的なスレート葺き屋根の本温泉がデビューする事になった訳だ。
左は二の湯上側から。 中央は二の湯下側から。 右は一の湯側。
これが1891年(明治24年)以降の宮殿造りの本温泉。いずれの写真も絵はがきではなく、小さいサイズの厚紙のものだ。(この当時の本温泉で絵はがきになったものは見たことが無い。日本で私製はがきが出回りだしたのが1900年(明治33年)からといわれているから1902年(明治35年)まで在った本温泉の絵はがきがカツカツ在っても良いのだが…)
写真の角の方に「有馬温泉場」と文字が入っているので、観光記念土産として販売されていたのだろう。本温泉は桧肌葺きの純和風の宮殿造り。遥か昔から建っていたかのような伝統的な美を感じさせる。床が高く玄関前が3段になっていて重厚だ。上側には洋風の鉄柵が張りめぐらされている。白い標柱に「湯山町」とあるので「有馬町」に名称変更した1896年(明治29年)7月5日以前の写真であることがわかる。中央写真の突き当たり現在の三ツ森さんの「和菓子工房」の場所には、やはり店舗があり、のれんに「浅野商店」「書籍、新聞」「○売所」等の文字が見える。本温泉入り口に立つ親子連れが何とも微笑ましい。

上の写真の場所の現在の様子をほぼ同じ場所からの撮影。

上の図は明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」(銅版画)の一部。当時の本温泉の付近の様子がわかる。
手前が二の湯側でその反対側、尼崎坊に面した方が一の湯側だ。本温泉の湯本坂側には奥の坊、石段に挟まれた一段高い所に望楼の付いたねぎやがある。この階段は今でもあるから位置の目安になる。本温泉が奥の坊側に逆Tの字型に棟の張り出した変則的な建物になっているのがわかる。

旅の家土産 有馬の巻 明治33年刊 神戸市立博物館蔵『有馬の名宝』図録より
「旅の家土産有馬の巻」は光浦利藻という人の手になる写真を主とした旅行記で明治33年に発行された事が知られている。標柱の「湯山町」の表記で明治29年7月5日以前である事はわかるが、さらに建物の形態から明治24~25年頃の写真を使用していると考えても良いと思う。
この写真も明治24年以降の本温泉の写真だが手前の部分の棟が上の写真とは異なり、軒がギザギザの意匠になったトタン葺きと思しき明らかに洋風建築だ。全体のイメージも先のものと全く異なってくるし、屋根の様式が実にチグハグで変だ。白い標柱には先の写真同様「湯山町」と書かれているから、同じく明治29年7月5日以前なのだがどちらが古いのだろう。いったい何故?
実は、明治24年からの純和風本温泉は、欠陥で傷みが早かった前世代の異人館本温泉のメンテナンスをついに諦めて取り壊し、宮殿造り平屋建ての日本建築に立て直したものといわれている。待てよ!そういえばこの写真の屋根の軒のギザギザは有馬温泉の歴史資料のどこかで見たことが…そうだ、明治15年からあった先代の異人館本温泉の絵図で見た建物だ!

(左)兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁の図の一部 明治17年(1884) 手前の棟の屋根がギザギザだ!
(中央)有馬温泉誌 田中芳男著 明治34年7月刊 より ギザギザ屋根の部分は明治15年からの異人館本温泉の浴室だ。この図で現今浴場乃図とあるのは明治24年からの宮殿造り平屋の本温泉だ。
(右)有馬温泉誌 田中芳男 「温泉場」挿絵。屋根の形状からみると左側浴舎は初期の洋式のはずだが、この挿絵では意図的に目立たなくしてある感じだ。
…ということはどうやら、ギザギザ屋根の部分は先代の異人館本温泉の浴室部分の建物をそのまま残した暫定的な姿のようだ。そして明治24年以降明治29年以前の割と早い段階で半分洋風の暫定状態から完成形の純和風に改められたことが推測される。
明治25年11月に温泉浴場の混浴を改め男女区分入浴が実施された。男女混浴禁止令が出たのは明治元年(1868年)だが、有馬温泉では湯治者の介抱人の入浴も考慮し特別許可で混浴が許されていたのだが、許可期間が満期となったものだ。
『有馬温泉誌』 田中芳男著(明治34年7月刊)の挿絵の浴場図(上)には明治15年以前(宮殿造り)、明治16年改築以降(異人館)、現今(明治34年現在の宮殿造り)の3期の本温泉のレイアウトが図示されているが、浴室レイアウトが先代の明治16年改築以降(異人館)とは明らかに異なるところを見ると、確かな事はいえないが、この男女区分入浴実施のタイミングで浴室改造と暫定的な和洋折衷から本格的宮造りへのリニューアルを完成させたのかもしれない。
さて、いよいよその前の世代の本温泉に遡ろう。
●1883年2月(明治16年)~1890年(明治23年) 約8年間
先の『兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁の図』の銅版画挿絵で紹介したとおり、この時期の本温泉は何と2階建ての異人館だった!しかも何故かたったの8年間しか存在しなかった…幻の本温泉なのだ。そして時代が時代だった為、写真撮影は技術的に難しかったとみえ、現在では下に紹介している数点の銅版画等で当時を偲ぶしか無かった…

(左)兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁 明治17年(1884)
(右)有馬温泉誌挿絵

(左)温冷両温泉改良建築之図 大阪響泉堂 銅版画 明治16年
(右)藤井清氏資料 長方形の枠に文字が入っておらず下絵なのか未完成なのか不明の絵だが、真ん中左寄りに異人館本温泉が描かれている。和風のタッチにまるでお寺の棟の様にも見えるが窓の表現でそれとわかる。
明治14年、浴舎改築の議論がおこり異人館(洋風)建築への改良の議決を得て、官庁の保護を受け内務省衛星局のお雇いオランダ人技師ゲーレツの設計により兵庫県土木衛生両課の監督のもと15年4月に着工、16年2月に完工した。総工費15,000円。従来からの敷地21坪に加え、北側に隣接していた御所坊の地所56坪を3,500円にて買い上げ、従来の3倍の面積となった。2階が浴客の休憩所であった。
屋根飾りには菊花の半円の文様が使用されている。明治15年以前の宮造りの旧浴舎にも菊の紋章が使われており、その意匠を引き継いだものと考えられる。浴室部分は従来の宮殿造りの本温泉のあった場所で、トタンのギザギザ装飾付き屋根の平屋だ。休憩所のある2階建ての洋館は旧御所坊の敷地部分だ。
この異人館浴舎への建て替えに伴い歴史ある『湯女』は廃止された。田中芳男『有馬温泉略記』明治17年(1884)によると1等2室浴料拾銭(1人1室)、2等2室浴料弐銭(混浴、但し外国人の場合は1人1室)、3等1室浴料壱銭(混浴)、4等1室無料。また、この温泉の管理営業者は毎年入札にて決定された。

有馬温泉誌 田中芳男著 明治34年7月刊 挿絵の明治16年以降の異人館本温泉のレイアウト
ちなみに小説家幸田露伴の22歳の時の著作『まき筆日記』は有馬温泉を題材とした紀行文だが、明治23年に発表されているので、彼が入湯したのはこの異人館時代の本温泉だろう。
伝わっているところによると、この異人館本温泉は様式的な点でも当初から賛否があったらしいが、明治24年(1891年、日付不明)ついに湯山町は臨時町会で浴場改築を決議したという。換気装置が不十分で建物の腐食が早く使用に耐えられなくなった等の不具合によるという。その理由の根拠のひとつである明治24年付の「有馬温泉改良委員設立趣旨」という書面(日付不明)を要約すると、巨費を投じた西洋風2階建て休憩所は大半が腐朽し倒壊の危険性さえ出て来た。ここ暫くは応急の改修をしてきたが、酸化鉄により益々腐食し、いまだこれを阻止する適切な染料や工法が見つからないため、対策の為の改良委員(会)を設け学識経験者のご教示を請うという趣旨の文面である。
しかし明治24年2月には宮殿造りの本温泉が竣工している。どれ程の建築期間だったのかは判らないが、たった2ヶ月で出来るわけはないと思うので、いずれも日付の不明な「有馬温泉改良委員設立趣旨」発行及び臨時町会での浴場改築決議が明治24年というのは不自然で、もっと早い段階でなければおかしい。私自身が直接元資料に当ったわけではないが、有馬の歴史に詳しい藤井清氏によるといずれも当時の町役場の記録に基づくと思われるとの事。どうでも良いことの様だが、タイミングがやや不可解だ。
【新資料発見!!】
実は極最近、明治16年2月から明治23年までたった8年だけ存在したその幻の異人館本温泉の貴重な新資料(私的には神資料!)を、偶然にも前後して2つ入手したので紹介する。
まずはこれ、幻燈用のガラス絵だ。赤い彩色が、錦絵(多色摺の浮世絵版画)の趣きを感じさせる。浴舎との位置関係から二の湯側である事がわかる。銅版画では絵ごとに異なっている為確証は得られなかったが、このガラス絵によって、異人館時代の建物の基礎部分と手前二の湯側の幅広階段(石段?)は、次世代の宮殿造り本温泉でもそのまま使用されている事が分った。後の宮殿造り浴舎の愛宕山への移築といい、もちろん財政的な要素もあるが、昔の人の利用できるものは残して利用する合理性は見習うべきだろう。
そしてもうひとつが下の、本邦初公開の異人館本温泉の生写真だ!この写真の何が珍しいかと言えば、
日本で私製絵はがきが発売されるようになる1900年(明治33年)よりもはるかに昔ということもあり、今日に至るまで資料として出てこなかったことを考えると、この時期の異人館本温泉の写真はもう出てこないだろう、技術的な面でも難しかったのであろう…、と諦められていたからだ。が、後述するように有馬温泉の歴史上、少なくとも明治時代後半においては、古式ゆかしい有馬温泉に似つかわしくない、恥ずかしい失敗作と言うことで作為的に“闇に葬られてきた”可能性もあるからだ。

やはり上の明治24年からの本温泉のものと同じく厚紙に貼り付けてある小型サイズの写真だ。浴舎の棟の位置関係から、こちらは従来の一の湯側。絵で見る限りでは洋風とはいえもっと木造チックなものをイメージしていたのだが…あの古典的な宮殿造り平屋浴舎の一世代前がこんなにも重厚な洋風だったとは…

実は菊水紋だった 石造り 立体的な屋根飾り
屋根飾りの「菊の紋」が実は「菊水」のデザインになっている事やその周りの枠の数の多さ重厚さ。四隅が重厚な石造りである事。屋根の支柱が思いのほか大きく装飾的な事。等々は今回入手した写真で初めて解った事だ。
この生写真を見れば見る程、オランダ人技師ゲーレツの設計によるこの重厚な建物が8年を経ずして腐食によって傾いたとは信じられない。四隅は写真を見る限り石造りなのだし、湿気がこもってしかるべき浴舎は手前のギザギザトタン屋根の棟なのだ。しかもその浴舎の棟は明治24年の次世代の宮殿造り平屋への建て替えの際も暫定的ながら残されているのだ!どう考えても不可解だ。
そう考えると、先の明治24年の「有馬温泉改良委員設立趣旨」発行及び臨時町会での浴場改築決議記録というのは取って付けたようで怪しくなる。ひょっとすると建て替えた理由は、従前伝わっているような腐食によるものなどではないような気がしてきた。
確かに『有馬温泉誌』(田中芳男著 明治34年7月刊)によると「然るに構造宜しきを得ざる所ありけん朽き傾ける処の出来りしより再び改築し二十四年二月に至り落成しもとの宮殿作りに復せり即ち今の浴場是なり」と、説明している。また『摂北温泉史』(辻本清蔵著 大正4年発行)でもやはりほぼ同じ説明を引用している。
ところが、『子宝の湯』有馬温泉の記事でも取り上げた『有馬温泉史話』(小澤清躬著昭和13年10月16日発行)の中に次の一文を見つけた。曰く「しかし洋館は一般の好みに適せぬことが判ったので、明治二十四年二月また昔の宮殿式平屋建に復帰した、次で明治三十六年改築、…」
ここでは、腐食による建物の不具合は全く語られておらず、あっさりと事も無げに別の理由が書いてあるではないか!小澤先生は何を根拠にされたのだろう…。
どちらもたった1行で記載され理由が詳しく書かれていないところが、よけいに何かあるのではないかと勘ぐりたくもなるというものだ。もしも建て替えの理由が腐食を原因とする建物の不具合ではなかったとすると…一体何が理由だったのだろう。次の様に推測をしてみた。
【私の推測】
開港された神戸港にも近い為、今後の西洋人観光客のニーズも意識し、またいち早く流行を取り入れ異人館(洋館)にリニューアルすることで国内に対しても一流温泉地としての威信を示そうとしたが、当初から様式的な点で格式ある温泉の建物としてふさわしくないとの反対意見も町内には多かった。しかし官庁の保護のもと、県の監督を得ての建て替えであり設計が内務省衛星局のお雇いオランダ人技師ゲーレツである事から見ても内務省や兵庫県の補助金と異人館デザインは事実上バーターだったと思われ、財政難の湯山町としては町内の意見の一致は見なかったが最終的に不本意ながら異人館案を採用せざるを得なかったのではないだろうか。(明治24年の新浴舎建設に内務省補助金が出ている事実から、この時ももちろん補助金は出ていたのではと推測。)
ただ、町内中枢では、もし不評であった場合、行政や町内に対する建前として腐食による建物の不具合を理由にして切りの良い8ヵ年で、由緒ある宮殿造りに戻すことが実は暗黙の了解であった…という推理はどうだろう。
案の定、異人館は文明開化期のひとつの流行だった。その後、日本が富国強兵をスローガンに欧米に倣い帝国主義を推し進めるにつけ、日本中に一時期の洋風化に対しアンチ洋風化、復古の機運が盛り上がりはじめた。また、やはり異人館は初めこそ物珍しがられたものの、使い勝手等の問題もあり前の方が良かったというユーザーの声も実際に増えてきた。そしてついに異人館本温泉を取り壊し宮殿造りを復古させる派の案が大勢を占るようになり、町議会で建て替えが決議された。内務省や兵庫県の補助を得、また建築費に大枚を叩いた建物を8年をも経ずして取り壊す事の了承を内外に得やすくする為、腐食云々を理由にした。日の浅い明治34年刊の『有馬温泉誌』ではまだ腐食云々を理由にせざるを得なかった。しかし40年近く経過した昭和13年刊の『有馬温泉史話』では実際のところがサラッと述べられている。ということではないだろうか。
実は、もうひとパターン考えてはみた。菊の紋章がことさら大きくデザイン化された建物の意匠が不敬に値する旨の指摘がお上からあり、その様な不名誉な理由で建て替えざるを得なくなった事実を葬るため、腐食云々を理由にしたのでは?と言う推理だ。面白いが、しかし、この建物の意匠は半円の「菊水紋」だ。「菊水紋」には楠木正成が菊紋を下賜された際、畏れ多いとして下半分を水に流した「菊水紋」にしたという言い伝えがある位だから不敬には当らないだろうし、もし仮に意匠が理由だったとしても建て替えまでせずとも、菊の部分の意匠変更工事で済んだであろう。また官庁の保護のもと、県の監督を得ての建て替えということもあるから、面白い推理ではあるがそれは無いだろうと考え、これは没案とした。
いずれにしても1世紀以上時代を経た現在から見ると、もし仮に私が勝手に推測したような建て替え理由であったとしても別段、葬らなければならないような事、恥ずかしい試行錯誤でもなんでもない。先人が有馬温泉を、一つしかなかった外湯である本温泉を守り育てていく為に一丸となって一生懸命に取組んだ、とても勇気のあるトライアルであり、誇るべき歴史の1ページなのだ。お陰で、古風な和風の浴舎の一世代前が実は超モダンな洋風建築だったという意外性のある面白い歴史を語る事もできる。また反面、人間というのは時代時代の要請で仕方なく、同じような事を繰り返しているのだなあ…という事を感じてしまうのも事実だ。歴史から学びその教訓を今後に生かして行きたいものだ。
そして、今後さらにもっと別のアングルからの異人館本温泉写真がどこからか出てくる事を密かに期待しておこう。さて今回はこの辺で。次回もしつこく本温泉の続きだ!
《尚今回も、私の推論部分や所持写真及び所持書籍以外の歴史的事実に関する事は、郷土史に詳しい藤井清氏にご提供頂いた資料を参考にさせて頂いた。素人の勝手な研究なので、もし明らかな間違い等にお気づきの節には何卒ご指摘願いたく存じます。》
【H23年3月追記】
その後このサイトをご覧になって、以前にも宮殿造り本温泉前の黒い四角柱の物体を郵便ポストである事をお教え下さったkobemtshさんが直々に面白い情報を下さった。1882年(明治15年)4月に竣工した兵庫県の県会議事堂通称『八角堂』が、異人館本温泉に酷似しているということだ。ネットで調べてみたところ、やはり意匠が似ている!西洋建築には詳しくないので確証は無いのだが、なるほど菊の紋の入り方(但し県議会議事堂の方は菊水紋ではなく菊紋だが。)や丸屋根の形状、屋根の軒の重層的な装飾や2階のが回廊になっているテラスや屋根のてっぺんが似たようなタワーになっている点などデザイン的な点でも酷似している。流行のデザインというのはあったであろうがたった1年違いの竣工のタイミングといい、やはり異人館本温泉と同じ設計者のデザインではないだろうか。

(1882年~兵庫県会議事堂 神戸建築データバンクより) (1883年~有馬 異人館本温泉)
そこで兵庫県企画県民部管理局文書課にお尋ねしたところ、この『八角堂』は1902年(明治35年)の新県庁落成までの間使用されたとの事、設計者は不明であるとの事、県会で八角堂の保存が議決されたが、腐朽甚だしく、やむなく売却取り壊しの決定が明治36年になされた事などをお教えいただけた。つまり20年間活躍した事になるが、明治の建築といえども今に残るものがある中、やや耐久性に欠けたものであった事は間違いない。もし同じ設計者の建物ならば、やはり有馬の異人館本温泉の建築も耐久性に欠けるものであったであろう事は推測される。
さらに、私の重要な勘違いがあった。私が異人館本温泉の設計者と思っていた内務省衛生局お雇いのゲーレツなるオランダ人技師とは、神戸市立博物館編纂の『有馬の名宝』によると実はアントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ(Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年3月20日-1883年8月15日)の事で、日本薬局方の草案を起草するなど近代日本の薬事行政、保健衛生の発展に貢献した著名なオランダ人薬学者だったのだ。従って設計をした建築技師ではなく、あくまで計画者或いは監修者であった事だ。
異人館本温泉が8年で取り壊された理由を、建物自身の欠陥なのか或いは大衆のニーズに合わなかったからなのか、どちらか一方だけに求める事に意味は無く、間違いなくその両方ともが事実であったに違いない。ともかく、消え去る運命にあったのだろう。積もり積もった歴史の見えざる力が、異人館の存在を無かった事にして振り出しに戻したのかも知れない。
前回は、明治36年に換気窓付きスレート葺きでオープンした本温泉の時代までたどった。また、唐破風門の手前にある謎の黒い四角柱は前世代の本温泉時代の写真にも写っている郵便ポストであったことが、この記事へお寄せいただいた貴重なコメントで判明した。それではさらにその前世代の温泉へ遡ることにしよう。相も変わらぬマニアックな“うんちく”で恐縮ですが宜しければお付き合い下さい。
●1891年2月(明治24年)~1902年(明治35年) 約12年間

これは前回取り上げた1903年(明治36年)竣工の唐破風門スレート葺き屋根本温泉の華々しいデビューの影で、先立つ明治35年6月、本温泉としてのお役目を終え愛宕山中腹に移設された後の建物写真。かつての一の湯側ではないかと思う。愛宕山遊園地経営を目的として設立された有馬保勝会の運営で、当初は記念図書館、後に公会堂として使用された。昭和18年に土井船艇兵器工業(株)に貸与、昭和20年払い下げられたが、程なく老朽化の為解体された。
では、何故明治36年の改築は実施されたのだろう。
1899年(明治32年)7月5日から約1年にも渡り有馬温泉を中心とした六甲山周辺で発生した群発地震(『六甲山鳴動』または『有馬鳴動』と言われている。)が発端だった。 その震動はまるでも巨石が天上から墜落したかの如き物凄さで、住民は一様に狼狽し不安の日々が続いた。 11月中旬には、従来40℃の湯を一日に300石(54,117ℓ)湧出していたところが、温度が50℃に上昇し湧出量も600石(108,234ℓ)に倍増したという。温泉の温度を下げ入浴に適した温度にする為、従来からの貧弱な用水施設を整備する必要に迫られ、又湧出温泉水の増加により従来の下水管で処理しきれず有馬川に流出した温泉水による下流域の農作物に対する悪影響が問題化しだし、排水管整備まで必要となった。
逆に有馬温泉としてはその増えた湧出量を利用してさらなる顧客動員を計らぬ手はない。
定かな記録には出会ってはいないが、恐らくこの湧出量倍増以降に、それを利用し、高級家族風呂の機能(従来の一等室)を本温泉とは別に独立分離させ、「高等温泉」として現在の阪急バス駅の場所に建設すると同時に、用水、排水施設の改良の必要に迫られた本温泉そのものを改築する旨が決定されたのではと思われる。明治35年3月の町会記録には改築工事監督者を県庁に依頼する旨が記されている。また同4月の町会記録によると改築後不要になる建物を記念保存し図書館等に利用したいとの有馬神苑会(5月に有馬保勝会に改称)の出願を許可する旨決議している。
かくして1年後の1903年(明治36年)4月23日、唐破風門(これも流行!)が特徴的なスレート葺き屋根の本温泉がデビューする事になった訳だ。



左は二の湯上側から。 中央は二の湯下側から。 右は一の湯側。
これが1891年(明治24年)以降の宮殿造りの本温泉。いずれの写真も絵はがきではなく、小さいサイズの厚紙のものだ。(この当時の本温泉で絵はがきになったものは見たことが無い。日本で私製はがきが出回りだしたのが1900年(明治33年)からといわれているから1902年(明治35年)まで在った本温泉の絵はがきがカツカツ在っても良いのだが…)
写真の角の方に「有馬温泉場」と文字が入っているので、観光記念土産として販売されていたのだろう。本温泉は桧肌葺きの純和風の宮殿造り。遥か昔から建っていたかのような伝統的な美を感じさせる。床が高く玄関前が3段になっていて重厚だ。上側には洋風の鉄柵が張りめぐらされている。白い標柱に「湯山町」とあるので「有馬町」に名称変更した1896年(明治29年)7月5日以前の写真であることがわかる。中央写真の突き当たり現在の三ツ森さんの「和菓子工房」の場所には、やはり店舗があり、のれんに「浅野商店」「書籍、新聞」「○売所」等の文字が見える。本温泉入り口に立つ親子連れが何とも微笑ましい。



上の写真の場所の現在の様子をほぼ同じ場所からの撮影。

上の図は明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」(銅版画)の一部。当時の本温泉の付近の様子がわかる。
手前が二の湯側でその反対側、尼崎坊に面した方が一の湯側だ。本温泉の湯本坂側には奥の坊、石段に挟まれた一段高い所に望楼の付いたねぎやがある。この階段は今でもあるから位置の目安になる。本温泉が奥の坊側に逆Tの字型に棟の張り出した変則的な建物になっているのがわかる。


旅の家土産 有馬の巻 明治33年刊 神戸市立博物館蔵『有馬の名宝』図録より
「旅の家土産有馬の巻」は光浦利藻という人の手になる写真を主とした旅行記で明治33年に発行された事が知られている。標柱の「湯山町」の表記で明治29年7月5日以前である事はわかるが、さらに建物の形態から明治24~25年頃の写真を使用していると考えても良いと思う。
この写真も明治24年以降の本温泉の写真だが手前の部分の棟が上の写真とは異なり、軒がギザギザの意匠になったトタン葺きと思しき明らかに洋風建築だ。全体のイメージも先のものと全く異なってくるし、屋根の様式が実にチグハグで変だ。白い標柱には先の写真同様「湯山町」と書かれているから、同じく明治29年7月5日以前なのだがどちらが古いのだろう。いったい何故?
実は、明治24年からの純和風本温泉は、欠陥で傷みが早かった前世代の異人館本温泉のメンテナンスをついに諦めて取り壊し、宮殿造り平屋建ての日本建築に立て直したものといわれている。待てよ!そういえばこの写真の屋根の軒のギザギザは有馬温泉の歴史資料のどこかで見たことが…そうだ、明治15年からあった先代の異人館本温泉の絵図で見た建物だ!



(左)兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁の図の一部 明治17年(1884) 手前の棟の屋根がギザギザだ!
(中央)有馬温泉誌 田中芳男著 明治34年7月刊 より ギザギザ屋根の部分は明治15年からの異人館本温泉の浴室だ。この図で現今浴場乃図とあるのは明治24年からの宮殿造り平屋の本温泉だ。
(右)有馬温泉誌 田中芳男 「温泉場」挿絵。屋根の形状からみると左側浴舎は初期の洋式のはずだが、この挿絵では意図的に目立たなくしてある感じだ。
…ということはどうやら、ギザギザ屋根の部分は先代の異人館本温泉の浴室部分の建物をそのまま残した暫定的な姿のようだ。そして明治24年以降明治29年以前の割と早い段階で半分洋風の暫定状態から完成形の純和風に改められたことが推測される。
明治25年11月に温泉浴場の混浴を改め男女区分入浴が実施された。男女混浴禁止令が出たのは明治元年(1868年)だが、有馬温泉では湯治者の介抱人の入浴も考慮し特別許可で混浴が許されていたのだが、許可期間が満期となったものだ。
『有馬温泉誌』 田中芳男著(明治34年7月刊)の挿絵の浴場図(上)には明治15年以前(宮殿造り)、明治16年改築以降(異人館)、現今(明治34年現在の宮殿造り)の3期の本温泉のレイアウトが図示されているが、浴室レイアウトが先代の明治16年改築以降(異人館)とは明らかに異なるところを見ると、確かな事はいえないが、この男女区分入浴実施のタイミングで浴室改造と暫定的な和洋折衷から本格的宮造りへのリニューアルを完成させたのかもしれない。
さて、いよいよその前の世代の本温泉に遡ろう。
●1883年2月(明治16年)~1890年(明治23年) 約8年間
先の『兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁の図』の銅版画挿絵で紹介したとおり、この時期の本温泉は何と2階建ての異人館だった!しかも何故かたったの8年間しか存在しなかった…幻の本温泉なのだ。そして時代が時代だった為、写真撮影は技術的に難しかったとみえ、現在では下に紹介している数点の銅版画等で当時を偲ぶしか無かった…


(左)兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁 明治17年(1884)
(右)有馬温泉誌挿絵


(左)温冷両温泉改良建築之図 大阪響泉堂 銅版画 明治16年
(右)藤井清氏資料 長方形の枠に文字が入っておらず下絵なのか未完成なのか不明の絵だが、真ん中左寄りに異人館本温泉が描かれている。和風のタッチにまるでお寺の棟の様にも見えるが窓の表現でそれとわかる。
明治14年、浴舎改築の議論がおこり異人館(洋風)建築への改良の議決を得て、官庁の保護を受け内務省衛星局のお雇いオランダ人技師ゲーレツの設計により兵庫県土木衛生両課の監督のもと15年4月に着工、16年2月に完工した。総工費15,000円。従来からの敷地21坪に加え、北側に隣接していた御所坊の地所56坪を3,500円にて買い上げ、従来の3倍の面積となった。2階が浴客の休憩所であった。
屋根飾りには菊花の半円の文様が使用されている。明治15年以前の宮造りの旧浴舎にも菊の紋章が使われており、その意匠を引き継いだものと考えられる。浴室部分は従来の宮殿造りの本温泉のあった場所で、トタンのギザギザ装飾付き屋根の平屋だ。休憩所のある2階建ての洋館は旧御所坊の敷地部分だ。
この異人館浴舎への建て替えに伴い歴史ある『湯女』は廃止された。田中芳男『有馬温泉略記』明治17年(1884)によると1等2室浴料拾銭(1人1室)、2等2室浴料弐銭(混浴、但し外国人の場合は1人1室)、3等1室浴料壱銭(混浴)、4等1室無料。また、この温泉の管理営業者は毎年入札にて決定された。

有馬温泉誌 田中芳男著 明治34年7月刊 挿絵の明治16年以降の異人館本温泉のレイアウト
ちなみに小説家幸田露伴の22歳の時の著作『まき筆日記』は有馬温泉を題材とした紀行文だが、明治23年に発表されているので、彼が入湯したのはこの異人館時代の本温泉だろう。
伝わっているところによると、この異人館本温泉は様式的な点でも当初から賛否があったらしいが、明治24年(1891年、日付不明)ついに湯山町は臨時町会で浴場改築を決議したという。換気装置が不十分で建物の腐食が早く使用に耐えられなくなった等の不具合によるという。その理由の根拠のひとつである明治24年付の「有馬温泉改良委員設立趣旨」という書面(日付不明)を要約すると、巨費を投じた西洋風2階建て休憩所は大半が腐朽し倒壊の危険性さえ出て来た。ここ暫くは応急の改修をしてきたが、酸化鉄により益々腐食し、いまだこれを阻止する適切な染料や工法が見つからないため、対策の為の改良委員(会)を設け学識経験者のご教示を請うという趣旨の文面である。
しかし明治24年2月には宮殿造りの本温泉が竣工している。どれ程の建築期間だったのかは判らないが、たった2ヶ月で出来るわけはないと思うので、いずれも日付の不明な「有馬温泉改良委員設立趣旨」発行及び臨時町会での浴場改築決議が明治24年というのは不自然で、もっと早い段階でなければおかしい。私自身が直接元資料に当ったわけではないが、有馬の歴史に詳しい藤井清氏によるといずれも当時の町役場の記録に基づくと思われるとの事。どうでも良いことの様だが、タイミングがやや不可解だ。
【新資料発見!!】
実は極最近、明治16年2月から明治23年までたった8年だけ存在したその幻の異人館本温泉の貴重な新資料(私的には神資料!)を、偶然にも前後して2つ入手したので紹介する。

まずはこれ、幻燈用のガラス絵だ。赤い彩色が、錦絵(多色摺の浮世絵版画)の趣きを感じさせる。浴舎との位置関係から二の湯側である事がわかる。銅版画では絵ごとに異なっている為確証は得られなかったが、このガラス絵によって、異人館時代の建物の基礎部分と手前二の湯側の幅広階段(石段?)は、次世代の宮殿造り本温泉でもそのまま使用されている事が分った。後の宮殿造り浴舎の愛宕山への移築といい、もちろん財政的な要素もあるが、昔の人の利用できるものは残して利用する合理性は見習うべきだろう。
そしてもうひとつが下の、本邦初公開の異人館本温泉の生写真だ!この写真の何が珍しいかと言えば、
日本で私製絵はがきが発売されるようになる1900年(明治33年)よりもはるかに昔ということもあり、今日に至るまで資料として出てこなかったことを考えると、この時期の異人館本温泉の写真はもう出てこないだろう、技術的な面でも難しかったのであろう…、と諦められていたからだ。が、後述するように有馬温泉の歴史上、少なくとも明治時代後半においては、古式ゆかしい有馬温泉に似つかわしくない、恥ずかしい失敗作と言うことで作為的に“闇に葬られてきた”可能性もあるからだ。

やはり上の明治24年からの本温泉のものと同じく厚紙に貼り付けてある小型サイズの写真だ。浴舎の棟の位置関係から、こちらは従来の一の湯側。絵で見る限りでは洋風とはいえもっと木造チックなものをイメージしていたのだが…あの古典的な宮殿造り平屋浴舎の一世代前がこんなにも重厚な洋風だったとは…



実は菊水紋だった 石造り 立体的な屋根飾り
屋根飾りの「菊の紋」が実は「菊水」のデザインになっている事やその周りの枠の数の多さ重厚さ。四隅が重厚な石造りである事。屋根の支柱が思いのほか大きく装飾的な事。等々は今回入手した写真で初めて解った事だ。
この生写真を見れば見る程、オランダ人技師ゲーレツの設計によるこの重厚な建物が8年を経ずして腐食によって傾いたとは信じられない。四隅は写真を見る限り石造りなのだし、湿気がこもってしかるべき浴舎は手前のギザギザトタン屋根の棟なのだ。しかもその浴舎の棟は明治24年の次世代の宮殿造り平屋への建て替えの際も暫定的ながら残されているのだ!どう考えても不可解だ。
そう考えると、先の明治24年の「有馬温泉改良委員設立趣旨」発行及び臨時町会での浴場改築決議記録というのは取って付けたようで怪しくなる。ひょっとすると建て替えた理由は、従前伝わっているような腐食によるものなどではないような気がしてきた。
確かに『有馬温泉誌』(田中芳男著 明治34年7月刊)によると「然るに構造宜しきを得ざる所ありけん朽き傾ける処の出来りしより再び改築し二十四年二月に至り落成しもとの宮殿作りに復せり即ち今の浴場是なり」と、説明している。また『摂北温泉史』(辻本清蔵著 大正4年発行)でもやはりほぼ同じ説明を引用している。
ところが、『子宝の湯』有馬温泉の記事でも取り上げた『有馬温泉史話』(小澤清躬著昭和13年10月16日発行)の中に次の一文を見つけた。曰く「しかし洋館は一般の好みに適せぬことが判ったので、明治二十四年二月また昔の宮殿式平屋建に復帰した、次で明治三十六年改築、…」
ここでは、腐食による建物の不具合は全く語られておらず、あっさりと事も無げに別の理由が書いてあるではないか!小澤先生は何を根拠にされたのだろう…。
どちらもたった1行で記載され理由が詳しく書かれていないところが、よけいに何かあるのではないかと勘ぐりたくもなるというものだ。もしも建て替えの理由が腐食を原因とする建物の不具合ではなかったとすると…一体何が理由だったのだろう。次の様に推測をしてみた。
【私の推測】
開港された神戸港にも近い為、今後の西洋人観光客のニーズも意識し、またいち早く流行を取り入れ異人館(洋館)にリニューアルすることで国内に対しても一流温泉地としての威信を示そうとしたが、当初から様式的な点で格式ある温泉の建物としてふさわしくないとの反対意見も町内には多かった。しかし官庁の保護のもと、県の監督を得ての建て替えであり設計が内務省衛星局のお雇いオランダ人技師ゲーレツである事から見ても内務省や兵庫県の補助金と異人館デザインは事実上バーターだったと思われ、財政難の湯山町としては町内の意見の一致は見なかったが最終的に不本意ながら異人館案を採用せざるを得なかったのではないだろうか。(明治24年の新浴舎建設に内務省補助金が出ている事実から、この時ももちろん補助金は出ていたのではと推測。)
ただ、町内中枢では、もし不評であった場合、行政や町内に対する建前として腐食による建物の不具合を理由にして切りの良い8ヵ年で、由緒ある宮殿造りに戻すことが実は暗黙の了解であった…という推理はどうだろう。
案の定、異人館は文明開化期のひとつの流行だった。その後、日本が富国強兵をスローガンに欧米に倣い帝国主義を推し進めるにつけ、日本中に一時期の洋風化に対しアンチ洋風化、復古の機運が盛り上がりはじめた。また、やはり異人館は初めこそ物珍しがられたものの、使い勝手等の問題もあり前の方が良かったというユーザーの声も実際に増えてきた。そしてついに異人館本温泉を取り壊し宮殿造りを復古させる派の案が大勢を占るようになり、町議会で建て替えが決議された。内務省や兵庫県の補助を得、また建築費に大枚を叩いた建物を8年をも経ずして取り壊す事の了承を内外に得やすくする為、腐食云々を理由にした。日の浅い明治34年刊の『有馬温泉誌』ではまだ腐食云々を理由にせざるを得なかった。しかし40年近く経過した昭和13年刊の『有馬温泉史話』では実際のところがサラッと述べられている。ということではないだろうか。
実は、もうひとパターン考えてはみた。菊の紋章がことさら大きくデザイン化された建物の意匠が不敬に値する旨の指摘がお上からあり、その様な不名誉な理由で建て替えざるを得なくなった事実を葬るため、腐食云々を理由にしたのでは?と言う推理だ。面白いが、しかし、この建物の意匠は半円の「菊水紋」だ。「菊水紋」には楠木正成が菊紋を下賜された際、畏れ多いとして下半分を水に流した「菊水紋」にしたという言い伝えがある位だから不敬には当らないだろうし、もし仮に意匠が理由だったとしても建て替えまでせずとも、菊の部分の意匠変更工事で済んだであろう。また官庁の保護のもと、県の監督を得ての建て替えということもあるから、面白い推理ではあるがそれは無いだろうと考え、これは没案とした。
いずれにしても1世紀以上時代を経た現在から見ると、もし仮に私が勝手に推測したような建て替え理由であったとしても別段、葬らなければならないような事、恥ずかしい試行錯誤でもなんでもない。先人が有馬温泉を、一つしかなかった外湯である本温泉を守り育てていく為に一丸となって一生懸命に取組んだ、とても勇気のあるトライアルであり、誇るべき歴史の1ページなのだ。お陰で、古風な和風の浴舎の一世代前が実は超モダンな洋風建築だったという意外性のある面白い歴史を語る事もできる。また反面、人間というのは時代時代の要請で仕方なく、同じような事を繰り返しているのだなあ…という事を感じてしまうのも事実だ。歴史から学びその教訓を今後に生かして行きたいものだ。
そして、今後さらにもっと別のアングルからの異人館本温泉写真がどこからか出てくる事を密かに期待しておこう。さて今回はこの辺で。次回もしつこく本温泉の続きだ!
《尚今回も、私の推論部分や所持写真及び所持書籍以外の歴史的事実に関する事は、郷土史に詳しい藤井清氏にご提供頂いた資料を参考にさせて頂いた。素人の勝手な研究なので、もし明らかな間違い等にお気づきの節には何卒ご指摘願いたく存じます。》
【H23年3月追記】
その後このサイトをご覧になって、以前にも宮殿造り本温泉前の黒い四角柱の物体を郵便ポストである事をお教え下さったkobemtshさんが直々に面白い情報を下さった。1882年(明治15年)4月に竣工した兵庫県の県会議事堂通称『八角堂』が、異人館本温泉に酷似しているということだ。ネットで調べてみたところ、やはり意匠が似ている!西洋建築には詳しくないので確証は無いのだが、なるほど菊の紋の入り方(但し県議会議事堂の方は菊水紋ではなく菊紋だが。)や丸屋根の形状、屋根の軒の重層的な装飾や2階のが回廊になっているテラスや屋根のてっぺんが似たようなタワーになっている点などデザイン的な点でも酷似している。流行のデザインというのはあったであろうがたった1年違いの竣工のタイミングといい、やはり異人館本温泉と同じ設計者のデザインではないだろうか。



(1882年~兵庫県会議事堂 神戸建築データバンクより) (1883年~有馬 異人館本温泉)
そこで兵庫県企画県民部管理局文書課にお尋ねしたところ、この『八角堂』は1902年(明治35年)の新県庁落成までの間使用されたとの事、設計者は不明であるとの事、県会で八角堂の保存が議決されたが、腐朽甚だしく、やむなく売却取り壊しの決定が明治36年になされた事などをお教えいただけた。つまり20年間活躍した事になるが、明治の建築といえども今に残るものがある中、やや耐久性に欠けたものであった事は間違いない。もし同じ設計者の建物ならば、やはり有馬の異人館本温泉の建築も耐久性に欠けるものであったであろう事は推測される。
さらに、私の重要な勘違いがあった。私が異人館本温泉の設計者と思っていた内務省衛生局お雇いのゲーレツなるオランダ人技師とは、神戸市立博物館編纂の『有馬の名宝』によると実はアントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ(Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年3月20日-1883年8月15日)の事で、日本薬局方の草案を起草するなど近代日本の薬事行政、保健衛生の発展に貢献した著名なオランダ人薬学者だったのだ。従って設計をした建築技師ではなく、あくまで計画者或いは監修者であった事だ。
異人館本温泉が8年で取り壊された理由を、建物自身の欠陥なのか或いは大衆のニーズに合わなかったからなのか、どちらか一方だけに求める事に意味は無く、間違いなくその両方ともが事実であったに違いない。ともかく、消え去る運命にあったのだろう。積もり積もった歴史の見えざる力が、異人館の存在を無かった事にして振り出しに戻したのかも知れない。
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