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有馬温泉の歴史

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今回は有馬温泉における炭酸水販売の歴史を、私が最近、新発見した事も含めて紹介したい。

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有馬温泉における『炭酸水』の歴史は1873年(明治6年)湯山町(明治29年から有馬町の呼称)戸長(町長)で、旅館「中の坊」継承開業者であった梶木源治郎(源次郎とも)が横浜の茶商人平野留吉に「温泉の湧く所には必ず炭酸水が湧いているはず」と教えられた事が発端だ。杉ケ谷にある、かねてより泉から発する二酸化炭素のせいで虫や小鳥を死に至らしめるという事から『毒水』として恐れられ敬遠されてきた湧水の事を思いつき、方々に水質検査依頼を求めたが、解明できずにいた。1875年(明治8年)ついに大阪に内務省司薬場が建設されたので、兵庫県庁を通して検査依頼したところ、ついに技師ベ・ド・ウェルによって有益な「炭酸水」と認められ、この水の価値は一転した。瓶に詰めても蓋が勢いよく弾けることから『てっぽう水』と呼ばれ有難がられるようになった。

杉ケ谷の炭酸泉源(当時は「冷泉」といった。)はその後、だんだんと評判が高まっていき、湧き口を石の円筒で囲い周囲を石で方形に囲うなどした。梶木の進めた開発により明治10年代には観光の名所になっており、泉源から湧き出る天然の炭酸水をコップに汲んだものが、観光客に販売されていた。当初はコップ1杯1銭であった。又時期は不明ながら、それに甘味料を添加し、まさに「サイダー」といえそうなものも販売された。オランダ人技師ゲールツ(ケーレツ)設計による洋風の炭酸水飲用所も計画されたが、明治16年に先に完成した洋風本温泉の不評から実現せず、1886年(明治19年)清涼院より移築された御殿式の上屋が完成し有馬に来浴した人の多くが、まずここに立ち寄りこの泉を服用するようになった。今残っている最も古い写真でも、杉ケ谷の炭酸泉源はこの建物となっている。また、炭酸泉源入り口右脇には梶木源治郎が明治10年6月に建てた石の道標があり正面に「炭酸水 てつぽう水ともいふ」と彫られている。途中で折れた跡があるのは、嘗て炭酸水を運んだ馬車がぶつかった為という。(道標写真は有馬温泉観光協会ホームページより)

「有馬サイダーてっぽう水」のラベルに記されている”嘗て杉ケ谷に湧出し毒水と恐れられし炭酸水が日本のサイダーの原点である。”という文句はそういう歴史を踏まえたものだ。

有馬サイダーラベル   炭酸泉源の道標   幻の炭酸水飲用所 炭酸泉源 

  炭酸泉源    炭酸泉源 炭酸泉源 炭酸泉源 

炭酸泉源 炭酸泉源 炭酸泉源 炭酸泉源

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但し、短絡的に有馬サイダーが日本で最初のサイダーだとは言えない。もし「サイダー」の定義を香料・甘味料入りのビン詰め炭酸水であるとするなら、「三ツ矢サイダー」のルーツである帝国鉱泉株式会社(1907年設立)の「三ツ矢印平野シャンペンサイダー」が発売されたのが1907年(明治40年) 。さらにずっとさかのぼり横浜の秋元己之助が「金線シャンペンサイダー」を売り出したのは1885年(明治18年)といわれている。横浜の居留地向けに英国人ノースレーが製造したのは何と1868年(明治元年)であったというがこれは日本人、大衆向けではないので番外として良いであろう。有馬鉱泉合資会社(1900年設立)による瓶詰め「有馬サイダー」の製造開始は1908年(明治41年)とされているから、少なくとも「大衆向け瓶詰め市販」という枠の中では分が悪い。

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それではサイダーのルーツである香料・甘味料入りでない「ビン詰め炭酸水」の発売が古いのはどこだろう。ネット検索も含め資料をひも解いてみた。

                             有馬炭酸水の瓶
有馬鉱泉合資会社が杉ケ谷の炭酸泉源から湧出する炭酸水に、さらに炭酸ガスを加えて炭酸水『てっぽう水』を製造販売開始したのは1900年(明治33年)だ。(上の写真は明治後期以降の有馬鉱泉合資会社の物。神戸市立博物館編『有馬の名宝』掲載写真一部分)それに先立つ1896年(明治29年)、浴医春井彰が湯山町(当時の有馬町はそう呼ばれていた)より得た炭酸水の精製販売権を、譲り受けて可能となったものだ。「醸造家と建築68」(川島智生月刊『醸界春秋』no,94)によると、同じく明治33年に笹谷竹五郎という人がサーチライトが輝く図案のラベルの炭酸水を製造販売し始めたが、こちらは数年で潰えたらしい。王冠による封入技術の普及などの時代背景に伴う一種の流行があったのだろう。

しかし、その10年前の1889年(明治23年)には既にウィルキンソン「仁王印ウォーター」が発売されている。これは1889年兵庫県宝塚の生瀬でジョン・クリフォード・ウィルキンソンが鉱泉水を発見した翌年だ。

さらにそれに先立つ1884年(明治17年)には明治屋がビン詰め炭酸水『(三ツ矢)平野水(ひらのすい)』を製造販売を開始した。1881年(明治14年)イギリス人化学者ウィリアム・ガウランドによる兵庫県多田村平野の湧出炭酸水「平野水」の発見、水質調査が淵源となったものだ。

もう一つさらに遡ると、1880年(明治13年)3月の「東京絵入り新聞」に『山城炭酸水』(京都の山城。1本20銭。)の広告が掲載されており、これが日本における初のミネラルウォーターの販売記録であるという。しかしその広告記事や資料が現存しておらず製造元や、現在のどこで作られたモノなのかなど詳しい事が全くわからない為、一般的には1884年(明治17年)の「平野水」が日本初の市販ミネラルウォーターという事になっているという。実際『山城炭酸水』でウェブ検索してもそれ以上の情報は何も得られず、同じ出典の使いまわし記事ばかりで、現在のどこにあたる場所で製造されていたのかすら分からなかった。

以上が調べで判った事だ。
えっ!では1873年(明治6年)に発見されたはずの有馬の炭酸水はどうなってるの?1900年(明治33年)の有馬鉱泉合資会社による『てっぽう水』発売までビン詰め販売される事もなく、泉源でのコップ販売だけだったのか?という疑問が沸いて来る。

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さてここからが私がごく最近、幸運にも収集することが出来た現物証拠を元に考察した今回の本論だ。実は先に紹介した「醸造家と建築68」(川島智生、月刊『醸界春秋』no,94)によると、1885年(明治18年)に刊行の『有馬温泉記』の表紙に竹籠や筆と並んで炭酸水というラベルが貼られた黒いガラス瓶の絵があり、それが明治10年代後半にはすでに炭酸水が名産のひとつになっていることがわかる。ただ、どのような組織によってこの絵のごとき炭酸水が生産されていたかは不明である…とのこと。要するにビン詰め炭酸水の販売もあったらしいが、出版物の挿絵に残るだけで、定かな事がわからない為、証拠能力に欠けるという事らしい。

ではもし、日本における初のミネラルウォーターの販売記録である『山城炭酸水』の広告が掲載されたという1880年(明治13年)よりもさらに過去に出版されたと確定できる印刷物に、有馬名産としてビン入り炭酸水が描かれていたら…、しかもそのラベルの実物が複数見つかったとすれば…、有馬温泉の炭酸水が日本初の市販ミネラルウォーターだという事の証拠になりうるのではないだろうか。

つい最近になって、私が手に入れた資料はいずれも梶木源治郎氏出版の『明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表』 (大阪響泉堂銅刻:袋入りの1枚もの《以下明治10年版》及び、 『明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 附雑記』 (大阪響泉堂銅刻:24ページ冊子 定価五銭)《以下明治12年版》いずれも梶木源治郎自身の三男で、大坂の森猪平の養子となり画家として大成した森琴石による細密な銅版画の挿絵で飾られている。(響泉堂は森琴石の銅版画における雅号のようなものらしい。)

どちらの版の挿絵にも、1886年(明治19年)に清涼院より移築され完成した御殿式の上屋以前の簡素な祠様のたたずまいの炭酸泉源の姿が描かれていることは興味深い。当時の森琴石の画風からやや洋風、やや立派に誇張表現されている点は差っ引かなければならないであろう。

だが、もっと興味深い事は、双方に描かれている有馬温泉の物産の挿絵を見ると明治十二年版には、十年版には描かれていないビン入り炭酸水が描かれている事だ。川島智生先生が資料とされた1885年(明治18年)刊行の『有馬温泉記』の表紙というのを私は見ていないが、おそらくこの森琴石による細密画の挿絵の転載か複製ではないだろうか。ともかく『山城炭酸水』広告より1年早い明治12年4月の印刷物に既に有馬名産として掲載されているのである!

冷泉を説明している別のページにはビンの横にコルク栓抜きの金具が描きこんである図がある。名産略図と同じくラベルには『摂州有馬 炭酸水 湯山町』とある。細かい点だがこちらのラベルには唐草模様の枠が書き込まれている。どちらが正確かと言う事ではなく、イラスト作品としての脚色だろう。イギリスのロンドン・クラウン・コルク社が、「王冠」の製造販売を開始したのは1894年と言われている。三ツ矢平野水もコルク栓に代わり王冠を使用し始めたのは1901年という記録があるそうなので1879年(明治12年)のコルク栓はうなずける。

【明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表の表紙と挿絵】

明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 明治  明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 冷泉図
 明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 有馬物産略図 


【明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表の表紙と挿絵】

明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 一部  明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 挿絵の炭酸水 有馬炭酸水 冷泉之図冷泉之図

明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 物産略図

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そしてここにさらにもう一つ、明治10年版と同時に同じ出品者(オークションの)から入手した印刷物がある。
何とそれは有馬鉱泉合資会社による『てっぽう水』よりもはるか以前に製造されていた初期の炭酸水のラベルだったのだ!

有馬炭酸水ラベル有馬炭酸水ラベル

実は先の明治10年版と同時に旧家から発見された『炭酸水ラベル』で、出品者はこれがいつ頃のラベルなのかを知るよしも無く、「旧家かたずけ品。ご覧のような明治時代~大正頃の有馬炭酸水のラベルです。5枚共に保存状態は良い物です。サイズは11センチ×9センチ。 」と記しておられた。

ではこのラベルを考証してみよう。

●ラベルイラストのエッチングによる細密で、洋風な表現は明治十年版及び明治十二年版の『有馬温冷両泉分析表』と同じく森琴石によるものとみて間違いないこと。
●ラベルに描かれている炭酸泉源の様子(どちらも噴水らしきものが泉源のお社の向かって右にある等。)が明治十二年版中の挿絵のそれと大変良く似ている点。
●明治十年版では「梶木源郎」とあり明治十二年版及び炭酸水ラベルでは「梶木源郎」となっている。
●明治十二年版にはラベルを貼ったビン入り炭酸水の挿絵がある事。

等から明治12年版の出版された明治12年4月前後の可能性が高いであろう。明治12年版中の挿絵のラベルには『摂州有馬 炭酸水 湯山町』とあり実物のラベルとは異なる点だが、これは有馬名産である事をわかりやすく端的に表現するためのイラスト上の脚色と考えて良いのではないだろうか。

製品の製作元は湯山町(当時の有馬町の呼称)戸長であった梶木源治(次)郎だ。「有馬元弘」の意味はわからない。
「官許」 「Arima soda-water 有馬炭酸水」 と表現されており下にいろいろと効用を謳っている。
曰く「慢性皮膚病、慢性膀胱カタル(ショウベンフクロノヤマイ)、神経痛、リウマチ、嘔吐、萎黄病、胃弱、チノワルキヤマイ、胃痛、貧血に起因する慢性水腫、月経不順、腎臓病、腺病、結○、キノフサグヤマイ」
ビンの大きさや形状は現物も残っておらず正確には分からないが、郷土史に詳しい藤井清氏に尋ねると、当時の酒の1升ビンは黒っぽい緑色が多く、恐らくそれを流用したのではないかとのこと。確かに明治12年版のイラストでは横のグラスに対比してやけに大きいし、実際サイダーのように小さなビンだとすぐに消費してしまい、わざわざラベルで効用を謳うには物足りなさそうだ。

このラベルの存在によって、有馬温泉における初期の炭酸水販売の存在が明らかと成った。又、製造主が杉ケ谷の炭酸泉源(冷泉)を開発した湯山町戸主梶木源治(次)郎であることも判明した。問題は、この炭酸水を梶木がどういう立場、組織で販売していたのか、1瓶いくらで、どのくらいの期間販売していたのかという事になると依然として判然としない事だ。

明治19年内務省編纂による『日本鉱泉誌全3巻』は明治13年にドイツで万国鉱泉博覧会が行われた際に編集した資料をもとにしたものといわれているが、検索してみると掲載されている全国921カ所の鉱泉リスト中、概況欄に「汲取のみ」「浴場あり」「浴場なし」「飲用」などと表記された泉源がほとんどである中、「飲用販売」と記入されているのは有馬杉ケ谷の炭酸泉と京都相楽郡笠置町の炭酸泉のみであった。恐らく相楽郡笠置町の炭酸泉につけられたブランドが、先の『山城炭酸水』であったのではないだろうか。因みに川辺郡平野村の炭酸泉には概況欄の記入がなかったのでやはり明治13年のデータということなのだろう。少なくとも明治13年時点で炭酸水を販売するという切り口は、やはり全国に先んじていた証しの一つと言えそうだ。

今回は、ついこの間、新型インフルエンザ騒動の最中、幸運にも手に入れた古資料から、凄い発見ができ、ワクワクして調べていく内に、枝葉の《うんちく》が芋ずる式に手中に入ってきたので、とても楽しかった。まだまだ分からないことの方が多いので、今後もアンテナを張りめぐらせておきたい。




有馬 人力車の絵はがき
明治末期の物と思しき絵はがきです。(実は先ごろオークションで手に入れたのです。実物の絵はがきには
写真の上に判子が押してあるのですが、見やすいように画像処理で消しています。)

樹齢200年以上と言われている糸桜が有名な善福寺前の石垣です。手前の道は今の「太閤通り」で、
阪急バスの有馬温泉駅の真ん前です。写真は、滝川の対岸からのものです。昭和3年に暗渠化され大通り
となりましたので、この下に流れる滝川は今は道路の下を流れています。石垣自体は今もこのままですが、
絵はがきで人力車が通っている辺りは今は商店街が並んでいる為、現在は上の方しか見えませんが、
この善福寺の「野面積(のずらづみ)」(自然の石をほとんど加工せずに使用した石垣)の石垣は大変古く、
豊臣秀吉の時代には既にあったと思われていますから、是非じっくりと鑑賞頂きたい場所です。

さて私が気になるのはワンちゃんです。人力車夫と比べても相当大きそうな犬ではないでしょうか。
どの人力車にも1匹かならずひっついています。何かのお役目を持った犬なのでしょうか。
 まさかいくら大きな犬とはいえ、人力車を曳くには非力でしょう。それはちょっと可愛そう、有馬へ来る山道は
急だし。きっと山道が寂しいから犬を連れているんでしょう…と先日まで思っていました。先日、手に入れた
『有馬温泉史年表』(地域の歴史研究家故長濃丈夫氏の著作)を見るまでは…。以下その中より抜粋します。

『往古から大阪方面より有馬に入湯する場合は、ほとんど生瀬を経由して有馬街道を通り有馬に入ったわけ
であるがその場合、この有馬街道には太多田川の難路が所在していた。即ちこの太多田川通行に当たって
は河原の中を流れを避けながら右や左に飛び移って往来していたのである。(1812年文化9年、『滑稽
有馬紀行』の条参照)ところがこのコースをこの明治10年には人力車が往来しているのである。したがって
この間において、その太多田川の河原を避けて別に人力車の往来が出来る道路が出来ていたものと
見なければならない。しかし残念なことにその間の様子を伝える資料が全然見出せないのである。しかし、
その道は現在この川の右岸につくられている道路であったことには間違いなく、また明治5年に平野(神戸)
有馬間の道路が開かれたことなどから考えると、恐らくこの道もこれと前後してつくられたものなるべく、
その工事費の如きものも、大阪方面の入湯客を得意していた湯山町(有馬町)が出したものであろう。
ところでこの間を往来した人力車であるが、難路急坂があったため、車夫たちは大いに苦しんだらしい。
そのため生瀬駅の車夫たちは各自に犬を飼いこれを先曳きに使って急坂を登っていったのである。
ところが反対にこれを下る際には、木で以って車にブレーキを当てて下ったらしいが、しかしそれでも
支えきれず、よく転覆したらしい。しかし乗客には大した被害も与えず続けていたようである。
こうして人力車は大正の初期ころまで唯一の交通機関として利用されていたが、その後、自動車の発達
と共に次第にその姿を消してしまったのであった。』


やっぱり、このワンちゃん達に曳かせていたんです!今みたいに交通機関が無かった当時、当たり前の事
だったにしろ、さぞしんどかったでしょう。ちゃんと大事にされていたんでしょうか。餌は充分だったのでしょう
か。人間も大変だったろうけど、しんどい目をしたワンちゃん達の事を考えると目頭が熱くなります。もし宝塚
有馬間の蓬莱峡経由の阪急バスに乗る事があったら、嘗てこの急な山道のルートを行き来していた人力車
と、それを一生懸命引張ったワンちゃん達の苦労を心の中で労ってあげて欲しいと思います。
摂津名所絵図『有馬温泉』の一部
摂津名所絵図『有馬温泉』の一部

 江戸時代は『有馬千軒』といって有馬温泉が現在を除くと最も栄えた時代だったそうです。
戦いの時代は過ぎ、天下泰平の世みたいですから、もしタイムトリップが可能だったら是非行ってみたいですね。江戸時代の有馬の湯を想像してみて下さい。天然の湯が底の敷石の間から湧き出し、お風呂はもちろん男女混浴!…あっちにはふんどし姿のチョンマゲ、こっちには腰巻姿の女性が…灯明の薄ら明かりで照らされた部屋の隅には湯女の姿が…

今回から数回に渡り江戸時代中頃の有馬温泉にタイムトリップしてみたいと思います。
今回はまず、時代背景、有馬に関する書物、有馬までの一般的な行程をプロローグ的にご紹介します。

摂津の国の果ての山奥に、”恋の病以外は万病に効く”という、潮よりも塩辛く血のように赤い不思議な湯がこんこんと湧き出しているという、その名も天下に轟く別天地、有馬の湯へ足を進めましょう。

『江戸時代の”パラダイス”有馬の湯へ いらっしゃ~い!』

【湯治は庶民の娯楽】

 豊臣秀吉による源泉の保護や六甲川の改修工事、浴場改築などが実を結んだ事もあり、有馬温泉は、続く江戸時代に大変繁栄することになります。

 江戸時代に入り幕府の直轄領となった有馬には公家や大名、幕臣、僧、医者、文人らが度々訪れるようになります。1621年には徳川三代に仕えた儒学者林羅山が訪れ『摂州有馬温湯記』を著して日本三名泉に有馬・草津・下呂を上げています。

 江戸時代も中期以降(元禄頃~)には五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整った事で、庶民も娯楽的に社寺参拝や湯治に出かけるようになりました。なかでも有馬温泉は古くから知られており京、大坂にも近く、不思議な泉質の霊験あらたかな養生湯であり、『有馬湯治』は、特に大坂圏の庶民を中心に『伊勢参り』『熊野詣で』と並ぶ人気のある、憧れのレクリエーションであったようです。(今でも大坂圏に有馬温泉ファンが多いのは昔からの流れがあるみたいですね。)

【まずは江戸時代の読み物で有馬温泉研究】

 客数の増加の一助になったのが有馬温泉を知らしめる手引書でした。江戸時代に入ってから現代のガイドブックにあたる実用本位の旅行案内記は数多く刊行されましたが、有馬のものは特に多かった様です。前述の林羅山『摂州有馬温湯記』元和7年(1621)、有馬の地誌としては最初のものである黒川道祐『有馬地誌』寛文4年(1664)、読み物として人気を集めた平子政長『有馬私雨』寛文12年(1672)、有馬のめいよ権三郎『有馬小鑑』延宝3年(1675)、生白堂行風『迎湯有馬名所鑑』延宝6年(1678)、有馬の菊屋五郎兵衛『稲野笹有馬小鑑』貞享2年(1685)、貝原益軒『有馬湯山記』宝永8年(1711)、有馬一の湯奥坊かもん『増補有馬手引草』享保2年(1717)、有馬榎並氏『有馬温泉古由来』享保13年(1728)などがあります。
摂州有馬温湯記 (1671年版)  有馬地誌(1664年版)
摂州有馬温湯記 (1671年版)             有馬地誌(1664年版)
有馬私雨(1672年版) 有馬小鑑(1675年版)
有馬私雨(1672年版)                  有馬小鑑(1675年版)
迎湯有馬名所鑑(写本)  稲野笹有馬小鑑(1685年版)
迎湯有馬名所鑑(写本)                稲野笹有馬小鑑(1685年版)
有馬湯山記(1716年版)  増補有馬手引草(1717年)
有馬湯山記(1716年版)                増補有馬手引草(1717年)
有馬温泉古由来(1728版) 
有馬温泉古由来(1728版)
有馬之日記(1738年版) 有馬之日記(1738年版)
有馬之日記(1738年版)
有馬の日記(1781年)  摂津名所図会(1798年成立)
有馬の日記(1781年)                  摂津名所図会(1798年成立)
滑稽有馬紀行(1827年) 有馬温泉の紀行(1850年)
滑稽有馬紀行(1827年)   有馬温泉の紀行(1850年)

 やがて案内書に留まらず、紀行文といえる文学的なものが出てきました。大坂の俳人井上布門『有馬之日記』元文3年(1738)や本居太平『有馬の日記』天明2年(1782)などはいずれも温泉紀行の名作といわれています。 又、大坂の歌舞伎狂言作者、西沢一鳳軒の旅日記『有馬温泉の紀行』嘉永3年(1850)には当時の温泉浴舎の挿絵や、湯殿の有様が克明に描写されており、大変資料的価値があります。有馬のみを取り上げたものではありませんが、摂津国12郡の地理、名物を説明した、絵入の地誌『摂津名所図会』寛政10年(1798)成立、の中でも有馬温泉が12図もの挿絵を用いて紹介されています。

文政10年(1827年)刊の『滑稽有馬紀行』(文・さし絵とも浮世絵師 福智白瑛、狂歌名:大根土成。木版墨摺3冊)は滑稽本の体裁で有馬温泉を案内した手引書で、文学形式としては式亭三馬『浮世風呂』文化2年(1805)や十返舎一九『東海道中膝栗毛』享和元年(1801)などの影響も色濃く見受けられます。京男の恵来屋太郎助(えらいやたろすけ)と居候で東男の才六の浮かれたデコボココンビによる珍道中を狂歌を交えて描いています。道中、道に迷ったり、有馬の湯では湯壷におぼれかけたり、女中や他の客たちとの軽妙なやり取りなどそそっかしい彼らの体験の中から当時の有馬温泉に於ける旅籠や湯治のシステム、湯女の事、湯治に必要なもの、費用などが良くわかるようになっています。又、温泉よりも湯女の方が気になる下世話なコンビの面白可笑しい掛け合いの中に、現代人と余り変わらない人間味と笑いのセンスも垣間見れます。

 そしてここでは霊験あらたかな湯もさることながら、湯を共にする湯治客、有馬独特の色を売らない湯女や女中などの人との心の触れ合いに、有馬温泉ならではの居心地の良さ、別天地、パラダイスを見出しているようです。

 手引書とは異なりますが、上方落語の祖である米沢彦八の笑話本で『軽口御前男』元禄16年(1703)の中に「有馬の身すぎ(仕事の意)」という話があります。仕事の無い男が有馬温泉へ行き、二階の客に下から竹筒で小便を受ける商売を始め、竹が細すぎてモノが収まらない客にはジョウゴを差し出したという笑い話です。離れの暗闇にひっそりと在る厠へ行くのが面倒だったり、怖かったりする宿屋の宿泊客の心理を突き、ちゃっかりと商売に繋げる大坂的な抜け目の無さを、ある種かわいらしく受け止めたこの話は後に脚色され、上方落語の演目『有馬小便(しょんべん)』として今でも度々演じられています。(もっとも、約120年後の1827年の『滑稽有馬紀行』では「2,3階にも雪隠・小便器がある」となっていますから、ちょうど受け入れ客数増加に伴う時代分の進化があったのかもしれません。)

            摂津名所図会の明神祭図
摂津名所図会の明神祭図
 桟敷席のような2階の縁から身を乗り出して開放感たっぷりの風情

あくまで元禄時代の落語のネタですから本当にそういう商売があったとは思えませんが、当時の人がそんな事を考え付く程、有馬温泉が開放的なハレ(晴れ)の場だった事は間違いありません。2階の縁側から身を乗り出して開放感たっぷりにくつろいでいる湯治客の姿が目に浮かびます。できるならタイムスリップして小宿の二階から竹筒に”しょんべん”してみたいものです。


【有馬の湯を目指していざ出発】

京・姫路間宿駅絵図(神戸市指定文化財 江戸後期 浄橋寺蔵 神戸市立博物館『有馬の名宝』より)
京・姫路間宿駅絵図(神戸市指定文化財 江戸後期 浄橋寺蔵 神戸市立博物館『有馬の名宝』より)

江戸時代の旅を語る上でまず前提なのが基本的に庶民の移動手段は陸路では徒歩だったという事です。自分の足で何日も掛けてはるばる赴いた訳ですから現在の、林立する大型温泉施設と違い、さぞかしありがたみがあったでしょう。

 江戸時代、有馬温泉は、全国でも1,2を争う名湯として各地からの湯治客で賑わったので、有馬へ至る道はたくさんありました。ここでは京の都から出発するとして、貝原益軒の『有馬湯山記』や大根土成の『滑稽有馬紀行』でも紹介されている当時の一般的なルートを辿ってみましょう。

 旅は、未だ夜の間に暗がりの中を京の五条から出発します。京の外港、伏見から夜船で淀川を下り、神崎川に分岐し、夜明けに神崎へ上陸します。陸路で塚口を経て伊丹の町を右に眺め(昆陽で西國街道と交差します。)途中、中山寺、清荒神にも参って小浜宿(現宝塚市小林)に到着。一休み。武庫川を渡船し生瀬宿(現宝塚市生瀬)に着きました。そろそろ暗くなってきたので一泊します。(京都から徒歩で西国街道[171号線にほぼ沿った旧道。今でも辿る事ができる]を下る方法もありました。山崎(大山崎町)、芥川(高槻市)、郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、池田、米谷(宝塚市)を経て、武庫川を渡船し生瀬(なまぜ)宿に至りました。)、翌朝大多田川の河原から”四十八瀬”を遡り、 「座頭谷」(昔、盲人が湯治の為有馬へ行く途中迷い込み餓死したという伝説があり、今でもバス停の名前になっています。)などの難所を経てやっと舟坂の休み所(現西宮市山口町船坂)に到着。暫く休憩した後、再度河原等を伝って、午後になって遂に有馬にたどり着きました。

三十石船便覧の一部 (江戸末期) 本流の淀川から神崎川に分岐している。
三十石船便覧の一部 (江戸末期) 本流の淀川から神崎川に分岐している。

滑稽有馬紀行より 『神崎渡口船の図』 同 『四十八瀬飛越の図』
滑稽有馬紀行より 『神崎渡口船の図』          同 『四十八瀬飛越の図』

有馬湯山記より『大剣小剣の景』 有馬私雨より 座頭が谷に落ちていく図
有馬湯山記より『大剣小剣の景』  有馬私雨より 座頭が谷に落ちていく図

稲野笹有馬小鑑より『有馬交通図』
稲野笹有馬小鑑より『有馬交通図』

生瀬から有馬に至るこのルートは湯山道(生瀬街道)と呼ばれ、滑稽本『滑稽有馬紀行』でも紹介されていますが、面白いのは生瀬で間違って土橋を渡ってまっすぐ行くと丹波、播州に通じる道で、有馬へ行く湯山道(生瀬街道)は左側の大多田川の河原に下りて”四十八瀬”の道無き道を岩から岩に飛び移りながら行かないと行けなかった点で、しかも暴れ川だった為大水の度に微妙にコースが変わったそうです。(生瀬から有馬までは2里(約8km)。前述の『滑稽有馬紀行』では主人公の太郎助と才六は道を間違えて土橋を渡ってしまい、とんでもなく時間をロスしたり、四十八瀬ではずぶ濡れに成り裸になりながら船坂に到着するというお定まりのボケをかまします。

 有馬へ至る道は他には、西国からの旅人のために姫路から三木を経由する湯の山街道(播磨街道北の道)、兵庫宿から北上し、箕谷、谷上村、唐櫃村を経由する兵庫道(湯山街道南の道)、道場川原宿から名来村、下山口村、上山口村、中野村を経て有馬に至る丹波道(三田道)、又もっぱら魚屋が利用した六甲越えの魚屋道(ととやみち)などの間道もいくつかありました。

 最後に、タイムスリップして江戸時代の有馬温泉へ行く時の注意点を少々。

 まず、手引書には書いてないかもしれませんが冬は避ける方が無難です。現代なら、「冬は温泉に浸かりたい!」となりますが、今のように温暖化が進んでいないので、冬は結構雪が降り、閑散期、冬篭りの時期になります。第一自動車も交通機関もない寒空の下でリスクを掛けて有馬まで歩いて旅する人も少ないハズです。その時期、小宿の主をはじめ有馬の住人はせっせと、竹かごや筆をはじめとしたお土産作りにいそしみます。元々閑散期ですから、住人も「お客様が少ない」と焦る訳でもなく、現代では考えられませんがお正月もゆっくりと過ごせたようで、我々、有馬温泉の住人としてはとてもうらやましい限りです。

 次に、江戸時代は当然ながら今の様に目立つ道路標識はありません。石に行き先を彫った「道標」しかありませんから、見逃して道を間違わないように気をつけましょう。そして、言葉は通じると思いますので、せいぜい道行く人に尋ねるようにするといいかもしれません。現在の人よりもっと親切に教えてくれるかもしれません。

 実は有馬温泉にはそんな「道標」が今でも道のそこ彼処にひっそりと佇んでいます。それをいろいろ見つけて過去を旅してみるのも歴史の街有馬温泉ならではのコアな楽しみ方と言えるでしょう。

 さて、次回はいよいよ江戸時代の有馬温泉の街の中に入っていきたいと思います。
■ ご承知の通り有馬温泉は日本最古の湯と言われ、日本書紀における舒明・孝徳両天皇の行幸、温泉寺(薬師堂)を建立した僧行基に纏わる話、藤原家一族の入湯、僧仁西上人による再興事業など古い記録はたくさんありますが、鎌倉時代くらいまでは、こと浴舎の場所、規模や様子などに関しては定かな記述がありません。しかし、有馬温泉は、その成り立ちからも、あちこちから、ふんだんな量の自然湧出があった訳ではなく、地理的に最も多く自然湧出し易い場所であったと思われる今の本温泉の場所に飛鳥時代以前から温泉場を構えていた可能性は高いと思います。
迎湯有馬名所鑑 江戸時代の写本
図1 迎湯有馬名所鑑 江戸時代の写本


■ 南北朝時代、国師夢窓疎石創建といわれる「無垢庵」なる修行僧向けの浴舎の事が度々記述されています(1344年~)が、これも場所は特定できません。有馬温泉の本温泉は、昔から「一の湯」(南向き)「二の湯」(北向き)の二つの浴舎が棟続きで併設されている事が特徴の一つですが、応安4年(1371)の『祇園執行日記』の有馬温泉に関するの記述の中で「一の湯」が登場するので、ほぼ今の場所であろう事が分かります。享徳元年(1452)相国寺の僧による『温泉紀行』でも「一の湯」「二の湯」の事を紹介してあります。「湯女」が初めて文献に登場するのもこの頃で、長享元年(1487)の『政覚大僧正記』に記述がありますが、実際はもっと遡って存在していたと思われます。
有馬山温泉小鑑
図2 有馬山温泉小鑑


■ 安土桃山時代、慶長元年(1596)7月17日夜の大地震で、有馬も町家が大破し温泉は高熱になり浴場が入浴不可能に陥ってしまいました。そこで豊公(豊臣秀吉)に上申した所、直ちに浴場と泉源の改修が成され翌年6月27日には湯屋の上棟を行い、翌々年3月5日には普請のすべてが完成しています。明治16年まで伝わった宮殿作りの浴場は、棟飾りに菊の御紋があり、他の温泉場では見られない秀吉式の華麗な物であったと伝えられています。秀吉は又同時に、泉源保護の為に河川の改修工事まで実施したと伝えられています。本温泉真近に通っていた川(今の湯本坂)を上流の瀬越で堰き止め、新たに六甲川(今のビューホテル横の川)を開墾し、後の世まで河川氾濫の脅威から泉源や全町を守る事になったと言われており、秀吉が有馬温泉の大恩人とされている大きな理由となっています。
荒増巡覧記

図3 荒増巡覧記

■ 江戸時代、延宝6年(1678)刊の『迎湯有馬名所鑑』(神戸市立中央図書館蔵)、貞享2年(1685)版の『有馬山温泉小鑑』(神戸市立博物館蔵)にはそれぞれ、湯屋の様子が挿絵で紹介されています。(図1,2) 
文政10年(1827)刊の『滑稽有馬紀行』及びその写しといわれる『摂州名所 荒増巡覧記』にも入り口と浴室の挿絵がユーモラスに描かれています。時代的には当たり前と言うべきか、混浴です。(図3) 嘉永3年(1850)刊の『有馬温泉紀行』(西尾市岩瀬文庫蔵)の温泉浴舎の図をよく見ると茅葺千鳥破風宮作りで、棟飾りなどに菊の御紋が見えます。(図4)
二の湯入り口会幕之図、会幕男女入込湯の図
有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 温泉浴舎の図
図4 有馬温泉紀行 西沢一鳳軒 温泉浴舎の図

■ 明治元年(1868)、11月6日伊藤博文兵庫県知事により、ついに男女混浴の禁止令が発令されました。でも長年の習俗でもあり、混乱を招く為、有馬においては実際にはしばらく実行されなかったらしいです。
兵庫県下有馬武兎原 豪商名所独案内の魁 兵庫県下有馬武兎原 豪商名所独案内の魁
図5兵庫県下有馬武兎原 豪商名所独案内の魁明治17年(1884) 図6温冷両泉改良建築之図
 神戸市立博物館蔵

■ 明治14年(1881)老朽化した温泉浴舎改築の議論がおこり、官庁の保護を受け内務省衛生局御雇オランダ人ゲーレツの設計による洋風建築に建て替える事になり、15年着工、16年2月完成。旧敷地21坪に御所坊から買い取った56坪を加え約3倍の面積を有することになります。(図5、6)
屋根の飾りに菊の御紋の装飾がありますが、立替前の棟飾りの意匠を受け継いだ物でしょう。旧来の浴舎が身分による分け隔てのないクラスレスで、宿泊の湯屋によって、入る浴舎が[一の湯][二の湯」と住み分けられていたのに対し、一等,二等,三等,四等に分けられていました。(因みに二等,三等は混浴。夫婦を別にするのは可哀相だし別の浴槽にするほど湯の量が多くない為。但し外国人が入るときは他人は入れません。四等は無料)改良か改悪か良く分かりませんね。しかし、巨額の費用を要して改築された洋風建築は、たった10年で腐朽し、度々なされた補強も焼け石に水状態となり、明治24年(1891)湯山町臨時町会にて、浴場再改築が決議されてしまいます。建材や構造が風土に合わなかったのでしょうか。とことん不遇なエキゾチック浴舎は残念ながら、写真すら現存しません。 


■ 明治24年に改築された本温泉は、昔風に宮殿作りに戻っています。(写真1)一等浴室は残し2等以下を廃し、男女を別にしました。又温泉の汲み湯も一荷3銭で販売していました。又当時の有馬土産である「湯染め木綿」の製造業者には閉湯時に限り半額で提供されました。今もそういうシステムがあれば良いのにと思います。
この浴舎は明治36年に次世代の浴舎にバトンタッチしましたが、解体された建物は有馬の愛宕山麓に移築され公会堂として利用されました。
一の湯 二の湯
  
写真1  明治24年改築された一の湯(左)と二の湯(右)


■ 明治36年改築工事竣工。(写真2)同時に太閤橋畔に新しい[高等温泉」を建て、そこを従来の一等室である家族風呂専用としました。当時は、明治32年の六甲山鳴動の為温泉の湧出量が倍増しており、充分な湯量が補えました。
有馬温泉 本温泉
写真2 明治36年改築


■ 大正3年(当初明治45年改築と考えていましたが明治45年は小変更に留まり、大正3年の方が変更が大きかった事がその後の調べで分かりました。)一部改築。空気抜きの天窓付きスレート屋根から、クラシカルな檜肌葺きに変更。窓枠にも少し変化が。(詳しくは2010年6月の『本温泉の浴舎の移り変わり2』をご参照下さい。)

■ 大正15年(1926)平屋の浴舎を廃止し、三階建ての豪壮な建物に大改築しました。(写真3)西隣の二階坊の土地を買収し敷地面積も倍増しました。経費節減の為「高等温泉」を廃止し、家族風呂も併設しました。
実はこの建築工事の折、地中から、先に紹介した豊臣秀吉による泉源保護工事の遺構(泉源の周囲の広範囲に渡り松の丸太を縦横に組み合わせ、間に堅く粘度を塗りこめ、温泉の湧出をを一箇所に集めた物。)が見つかっています。結果的にこの工事のお陰で350年間改修工事を一度も行う必要が無かった訳です。太閤様ありがたや…。
大正15年~有馬温泉 本温泉
写真3 大正15年改築され3階建に


■ 昭和22年(1947)2月22日神戸市への合併編入に合意調印。3月1日より神戸市兵庫区有馬町発足。

■ 昭和35年(1960)本温泉は、神戸市立有馬温泉会館として竣工。(写真4)鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。地下は家族風呂。1階は一般浴場、2階は無料休憩室。3,4階は宿泊施設でした。
有馬温泉 本温泉(神戸市立有馬温泉会館)
写真4 昭和35年オープンの「神戸市立有馬温泉会館」


■ 平成14年(2002)改築で「神戸市立有馬温泉の館金の湯」としてオープンし、現在に至ります。(写真5)湯船は2階です。横(昔の「二の湯」側です。)に無料の足湯が設置され、人気を博しています。又「金の湯」オープンの前年には、極楽泉源横に、2番目の外湯である「銀の湯」がオープン。こちらは有名な赤いお湯とは違う泉脈の炭酸泉とラジウム泉を混合した無色透明のお湯です。(有馬温泉は狭い地域に全く異なる泉質の泉脈がある事が特徴の一つです。)この場所も阪神大震災の後、庫裏から「太閤の湯殿」が発見され話題を呼んだ極楽寺の隣接地で、歴史的にも謂れ深い場所にあります。
神戸市立有馬温泉の館金の湯

写真5 平成14年オープンの「神戸市立有馬温泉の館 金の湯」


駆け足で、本温泉の浴舎の移り変わりをご紹介しました。こうして見ると有馬の本温泉は、有史以来、姿を変え、名を変えしながらも、連綿と同じ場所で人々を癒し続けてきた訳です。そしてこの温泉を通して、温泉を守ってきたり、癒されたりした歴史の彼方の人達と繋がる事が出来る様に思います。そんな思いで、正にその場所、「金の湯」の湯船に浸かるのも良いのでは無いでしょうか。

(今回も郷土史研究家藤井清氏の著作を主に参考にさせてもらいました。又、記載の内容について、もし誤り等ございましたらメール等でご指摘いただければ幸いです。)