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名湯有馬温泉の歴史・文化に関する興味深い話や古写真などを、有馬温泉にある明治創業の土産物店吉高屋店主が趣くままに調べて紹介します。
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現在の太閤通り
今回は有馬温泉のメインストリート『太閤通り』の移り変わりを、古い絵はがきや写真等で紹介したい。前に紹介した写真と重複するものもあるとは思うがお許し願いたい。上の写真は観光総合案内所前から見たところ。善福寺の糸桜が綺麗に咲いていたついこの間のものだ。『太閤通り』といってもここ数年前に付けた愛称で、少し前には『銀座通り』と呼んでいた場所だ。しかし元はといえば何もない町外れの川だったのだ。この道路は滝川の上を塞いで暗渠にし、その上にある。暗渠部分は元々、滝川にかかる「太古橋」と「栄久橋」に挟まれた区間だった。暗渠を抜けた地点で六甲川と合流し有馬川になる訳だ。

当時の外国人観光客を購入ターゲットにしたいわゆる“横浜写真”と呼ばれる大判写真に有馬を俯瞰したものがある。
明治20年台の俯瞰写真 明治20年台の俯瞰写真クローズアップ
丸山(てっぽう山)からの俯瞰風景がお定まりのビューポイントの一つだが、当時の川筋の様子が良く判る。写真奥から手前に向かって滝川が流れてきて手前の石組みの栄久橋を出たところで写真左から右に向かって流れている六甲川と合流している。

横浜写真 横浜写真クローズアップ
こちらの写真もほぼ同じポイントからだが太古橋の様子がよくわかる。鉄製の基礎の上に白い木製欄干。ペケポン状の補強材は鉄製に見える。川沿いに雑草がたくさん生えて入るので上の写真の何年か後だろう。只、太古橋が木製である事から推測すると、どちらの写真も明治24年以前だと考えられる。

2010年6月新たな古写真を入手したので追加してご紹介する。同仕様の写真に写る本温泉の形状から、明治15年以前と推定され、今までに私が得られた最古級のもの。橋のペケポン状の補強材が手摺と同じ白い木製だし、橋の左手の柳の木もまだ下の写真程は成長していないのを見ても一番古い時期のものである事がわかる。。
中央の大きな旅館は二階防。写真左手の庭に人力車が置いてある。右手には竹細工の材料となる竹が干してある。
現在の太閤通り最古級の写真


滝川上流方面から 太古橋横の商家
反対方向、滝川上流からのアングル。橋は横に細長く見えるが上の写真と同じものだ。上流側と下流側で枠の数が違うのでそう見えるだけだ。後に高等温泉の建つ辺りに商家がある。角に大きな柳の木があった。

横浜写真3
クローズアップ さらにクローズアップ
これも大判の横浜写真。明治25年に木の欄干の橋から鉄製のものに変更された後だ。かなり荒っぽい彩色だが、橋の色が本当にこんなに鮮烈な赤だったのかどうかは、絵はがきの写真がモノクロばかりなので分からないが、後の次世代の橋の彩色絵はがきから、赤褐色だったのではないかと推測できる。このアングルからも大きな柳の木が見える。

明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」
このエッチングによる絵図は明治29年発行「有馬名所及旅舎一覧表」の一部だが、電信柱のようなものが立っている。

明治36年以降 明治36年以降
明治36年、今の阪急バスの駅の場所に高級家族風呂「高等温温泉」ができた。これらの絵はがきはその後。

明治41年がんばったワンちゃん
前にも「がんばったワンちゃん」で紹介した、上流側から見たこの写真。明治41年のスタンプが押してある。

明治43年9月7日、大雨による洪水で、善福寺前石垣が崩れ、鉄橋の太古橋は墜落し、暫く交通不能に陥った.
また、大正4年から5年にかけて河川の大改修行なわれ、護岸工事、手摺新設などされた。当有馬トピックス「エキゾチック有馬」での、何故いつデザイン変更が行なわれたのかの疑問は、太古橋のリニューアルがどちらの時点で実施されたのかは依然不明ながら、何故デザインが変ったのかはわかった。

リニューアル後の太古橋 河川改修後8
高等温泉と太古橋
 河川改修後7 河川改修後 
河川改修後2 河川改修後4

大正9年兵衛旅館が送迎用自動車を導入。省線有馬温泉駅との間を行き来しだした。

河川改修後5河川改修後10河川改修後3
 河川改修後9 河川改修後6

大正15年、本温泉が木造3階建てに改築された。西側にあった二階防を買収し用地を広げ高等温泉の家族風呂の機能も併せ持ったものだ。それに伴い家族風呂である高等温泉は廃止された。町として温泉経営に伴う経費節減を計ったものだ。高等温泉の建物は昭和に入ってからも数年間そのまま残され氷保存庫として使用されたという。

昭和3年以降1 昭和3年以降2
昭和3年以降3 昭和3年以降4
そして昭和3年太古橋、栄久橋間が埋め立てられ暗渠化され、太古橋、栄久橋は消滅した。高等温泉であった建物には「宝塚・六甲山上ゆき自動車のりば」という看板がつけられ、昭和2年に設立された宝塚有馬自動車株式会社が運営していた。前には自動車がたくさん並んでいる。

昭和7年以降1 昭和7年以降2
昭和7年以降3

昭和7年、宝塚・有馬間にバスが開通した。高等温泉であった建物はもう無く、宝塚有馬自動車株式会社の看板の掛かった近代的なバスの駅舎となっている。この敷地は昭和11年に阪急電鉄に売却され現在に至っている。

昭和13年7月5日、豪雨により大洪水が発生。
阪神大風水害
暗渠部分の土砂が流されて構造部分がむき出しになっているところ。

戦後1
「宝塚・六甲山行き自動車」の看板が右からなので戦後あまり経ってないのか。
戦後3
昭和30年代初頭か。右側のお土産物屋の並びが壮観だが昔は道路だった場所で、舗装道路は大部分が昔、川だった場所だ。
戦後2
滝川の上流側から。自動車がいい味だ。今よりのどかそうに見えるのは懐かしさの様なものも加わってか。

現在2 現在3 
現在4 現在1
再び現在の「太閤通り」。行きかう自動車や人の波で賑わう通りのその下には、今も滝川の清流が途絶える事無く流れている。






















いろいろと忙しく、久しぶりの更新だ。前回に続き、炭酸泉源の事を取上げようと思う。とてもマニアックな話題で恐縮だが、誰かが残しておかないといけないという使命感も少しあり、書いている。良ければお付き合いください。実はネットオークションなどで、古い有馬の絵はがきを収集している。入手した炭酸泉源の古絵はがきに関しては、明治から昭和にかけてのものである事は間違いないものの、どの写真が古くて、どれが新しいのか良く分からなかった。ところが、スキャンして拡大してみると絵はがきとはいえ案外細かい情報が詰まっていて、良く見ると看板に書いてあるコップ1杯の価格も変遷していたり、看板などのスタイルが変遷していたり垣根が代わっていたり…少しずつだが変化しているのがわかる。そこで看板など共通の被写体などを分析して私なりに時代ごとに分類してみた。残念ながら何時コップ1杯の価格がいくらに上がったとかの記録は既に全く残っておらず、分からない。従ってそれぞれの写真の正確な年代は分からないが、例えば同じ組はがきの別の写真に写っている建物や構造物の様子などを元にだいたいの年代も推測してみた。但しとんでもない間違いをしている可能性もあり、新しい事実判明があったり、ご指摘で間違いが分かれば、修正していきたいと思う。何分専門家ではないので、その点御容赦下さい。   (H23年5月までに新しく手に入れた資料により判明した点や間違っていた点などを修正しています。緑字部分)   
 
【コップ1杯 壱銭の時代:明治19年~明治40年頃


      
(1)炭酸泉源  (2)壱銭 
(3)壱銭 (4)炭酸泉源22                                                 

1)新しく入手した写真だが、これが最も古い写真と考えられる。裏の石垣や整備されたばかりの斜面がまだ真新しい。「霊泉」の看板他、表示物らしきものはまだ無く、千社札も貼られていない。御殿式の上屋が完成した明治19年9月からそう経ってない時期と思われる。絵はがきではなく実物は約6cm×9cmで、厚めの台紙に紙の薄い写真が貼り付けてある。

(2)既に何度もこのブログでは紹介済みの写真だ。大きさは(1)と同じだ。解像度を上げてスキャンすると女性の後ろの看板の文字が「炭酸水 一銭」と読める。左の柱の看板は「○飲ハ御断申候」(○は読み方不明。手偏に「夕」に見える。「タダ飲みはお断り申し候」かもしれない。)この写真の段階で(3)(4)の写真にあるガス燈が存在しているのかどうかはアングルのせいでよく分からないが、貼られている千社札が(3)にもあることから、明治20年代後半から、絵はがきが普及する明治30年代前半というところではないだろうか。

(3)絵はがき。カンカン帽らしき帽子の外国人が写っている。解像度の限界でコップ1杯の価格は分からない。手前にガス燈が取り付けてあるのが判るが、「TANSANSUI(以下英文)」の英語表記看板はまだ掛かっていない。

(4)明治40年に出版された「有馬温泉記 A GUIDE TO THE ARIMA HOT SPRING」というガイドブックに印刷されていた写真。同じ冊子に明治36年オープンの本温泉や高級家族風呂の高等温泉が写っているので、明治36年以降明治40年までだろう。ここで看板に「壱銭」とあるのが確認できるので、大体この頃まではコップ1杯の価格は一銭であったことが判った。また、これ以降の写真に写っている「TANSANSUI(以下英文)」の英語表記看板が、ここで初めて掛けられているのも判る。

ところで話題は逸れるが左の写真を拡大印刷していて、ある変なものが写り込んでいる事に気付いた。今までもこのブログで取上げた事がある写真だが、全く気が付かなかった。そこに写っているのは普通我々が日常的に全く目にすることが無い造形の謎の物体だった。

下の写真はその物体が写りこんでいる部分の拡大だ。
 謎

炭酸泉源のお社の向うにある多面体と思しき奇怪な造形の物体である。社の向うにありながらこれだけ大きく見えるということはかなりでかい!この時代にこんな道具があったのだろうか?何の機能を持ったものだろう?木製?金属製?掘削機?脱穀機?ゴミ箱?UFO?タイムマシン?見れば見るほど奇妙な物体だ。ポコポコと穴が開いているあたりはウルトラセブンの宇宙人のメカっぽいし、或いはエヴァンゲリオンの使徒に通じる得体の知れない未知の物体だ。恐怖心が芽生え、鳥肌が立ってきた。しかしその割りには前の子供連れのお母さんはいとも平然とカメラに向かっている。もし物体を意識していたならモロに被る場所に立ったりしないだろう…。ますます不可解だ。今度、有馬の歴史に詳しい藤井清さんが来られたら、聞いてみよう。「ああ、これは○○○○や。」とかあっさり答えをくれたりして…。

後日、藤井さんに尋ねてみたところ、明治26年に解体、炭酸泉源に移設され、休憩所、撞球場として使用された清涼院に使われていた仏具ではないかとのご意見だった。はたして事実は何なのだろう。

【コップ1杯 弐銭の時代:明治41年頃~明治44年頃】
      
弐銭 弐銭
弐銭    弐銭
          
(上左)絵はがき。 (上右)絵はがき。(下左)絵はがき。(下右)個人写真(藤井清氏資料)。
表示物の木製看板の共通性からほぼ同時期と思われる。いずれも「一コップ金弐銭(2銭)」となっている。「TANSANSUI(以下英文)」「NOTICE(以下英文)」など英語表記看板が2枚も付いている。玉垣手前に木製枠が補助的に取り付けてある。藤棚も設置してある。(上左)の写真を見ると井戸の周りに金属製のハカマを履かせてある。どういった機能を持つのかは分からない。
(上右)では看板類はほとんど同じながら、他の写真にも写っているガス燈や、藤棚らしき構造物はない。これと同じ組の絵はがきに明治41年に新調されたばかりの真新しい白い杖捨橋が写っているので、明治41年頃にコップ1杯2銭になった事が分かる。明冶19年に1円55銭であった米1俵の価格が明冶24年に3円64銭と大幅に高騰しているので恐らく同じようなタイミングでコップ1杯2銭になったのではないだろうか。 
看板

【コップ1杯 参銭の時代:大正元年頃~大正8年頃】

参銭 参銭
参銭
参銭 参銭
すべて絵はがき。少しずつ異なっている要素はあるものの、いずれも裏の石垣が新たに高く積み上げられている。以前の構造物とは少し異なる三角屋根の藤棚が設けられている。ガス燈は既に撤去されている。看板類は(左下)、(右下)ではいずれも「炭酸水一コップ参銭」「勝手くみのみ無用」の二つのみで以前に付けられていた英語標記の看板等はすでに取り外され、すっきりとしている。(左下)の広告付きベンチ(津村の中将湯のベンチではなく向かって左側の方、恐らく丹平商事の健脳丸)は右の写真にも写っているから、大体同時代と見て良いだろう。(左下)の表面通信文記載が2分の1に成っている(大正7年~昭和7年製作)ので恐らく大正7年頃と推測した。(左中)では電灯が写っている。有馬に最初に電灯が設置されたのは明治43年6月だからそれより後と推測できる。記録では明治43年9月には大きな水害があり、がけ崩れにより鉄製の太閤橋が墜落し、暫くの間、人馬通行不可能となった。(左上)の写真で桧肌葺きの屋根が損傷を受けているのはその直後だろう。三角屋根の藤棚も真新しく製作途中に見える。石垣が綺麗に積み足されているのもその水害と関連性があるかもしれない。(右上)は石垣が新しいので同時代だろうが何故か「霊泉」の看板が外されている。大正元年に米1俵が6円16銭から8円32銭と大きく高騰しているので、やはりその頃に3銭に値上がりしたのではあるまいかと推測した。

【コップ1杯 五銭の時代①:大正9年頃~昭和3年頃】

五銭 五銭
五銭 五銭
五銭

表示類は右柱に「炭酸泉湧出場」左柱には「此内へ入る事一切お断り申候 有馬霊泉経営部」奥の梁に「DRINK TANSAN 5SEN PER GLASS」「勝手のみ御断申候 コップ金五銭 瓶詰 金十五銭…(以下不明)」の2種の看板。右手前に「炭酸泉分析表」の立看板。手前梁には千社札がベタベタと貼ってある。アサヒビールの木箱が目に付く。藤棚は平屋根に変更になっている。

昭和前後 昭和前後

この2枚の絵はがきは価格表の看板が同じで「勝手のみ勝手に瓶詰御断申候 一コップ砂糖入一杯金五銭 一瓶詰一本付金拾八銭 仝四打の○○付金八圓五拾銭 御持参の瓶詰は壱件に付金拾五銭 」、左柱には「清涼飲料税施行ニ付無断ニテ入場ヲ堅く御○絶申上候 ○○○○○○ 有馬霊泉営業部」と読める。「炭酸泉分析表」の立看板は同じ。
左側手前には木の柵が無い。瓶詰めの料金が15銭から3銭上がっているようだ。

昭和前後 昭和前後

この2枚の絵はがきは価格表の看板が同じで「勝手飲み(汲みにも見える)又は勝手瓶詰は堅く御断申上候 (棒線)代金表 コップ砂糖入壱杯金五銭 瓶詰○○○金拾八銭 仝○○○○○金○圓二拾銭」と読める。炭酸泉分析表」の立看板は同じ。左柱の看板は判読しづらい。右の写真では藤棚も玉垣手前の木柵も無い。

昭和3年前後 昭和3年前後

 この2枚の絵はがきの価格表の看板は「定価表 一コップ一杯金五銭 一瓶詰一本金拾八銭 ○○○○○ 一○○○○○○」と定価記載のみだ。また右の炭酸泉分析表」と並んで「清涼飲料税法により製造場○認定相成故○無断入場又ハ瓶詰…御断リ申上候」の縁付きの看板が付いている。ハクツルのベンチはこれ以降の写真にもあり(良く見ると形は少し違うが)連続性が感じられる。

これらの写真は看板や備品などの連続性などから上から順に時代が新しくなっていると今の時点では考えているが、
例えばハクツルのベンチのある(右下)写真と1段上右写真(藤棚が無く、木柵も無い)は、全然雰囲気が異なるが、どちらも組写真の中に昭和3年以降のモチーフ(暗渠化された後の大通りや神鉄駅)があり、ストック写真を使っている可能性もあるため微妙な前後の判断がつきかねる。コップ1杯5銭を大正9年頃からとしたのは、大正9年に米1表の価格が10円60銭から一挙に20円に跳ね上がっている事から推測した。

【コップ1杯 五銭の時代②:昭和4年頃~戦前】

昭和 昭和

昭和

「霊泉」の看板の下に電灯が付いている。細長い看板に日本語と英語でそれぞれ炭酸泉の価格が書いてある。価格を見るとコップ1杯の価格は5銭と変わらないが1瓶の価格が15銭と値下がりしている。昭和3年の金融大恐慌の影響であろうか。右柱に「炭酸湧出場」左柱に「清涼飲料税法により製造場と認定相成候に付無断○○入場堅く御断り申上候」の看板。(左下)の写真は同じ組の写真に昭和3年に開通した神有電車の駅舎や周辺のアールデコ調の町並みが写っているので昭和3年より以降ということになる。石垣は苔むしてきているし、「霊泉」の看板文字の金箔も大分剥げてきているのが分かる。

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【戦後】

戦後 戦後
戦後

戦後

絵はがきの文字が現在と同じく左から右と成っている。嘗て梁に掛けてあった「DRINK TANSAN 5SEN PER GLASS」の看板が左側の建物の壁面に値段の所だけ\(金額不明)に書き換えられて貼られている。ある時はサイドにある時はバックに灯篭が設置されている。昭和22年神戸市と合併し泉源所有権が神戸市に移管されたが、それ以降料金がどうなっていたのか良く判らない。案外ちょっと前位の歴史は忘れ去られる。地元の人はわざわざ炭酸泉を汲みに行ったりあまりしないから余計記憶にない。記録の重要性を改めて感じるところだ。左柱「清涼飲料税法により製造場と認定相成候に付無断○○入場堅く御断リ申上候」の看板は戦前と同じ物が掛かったままだ。「霊泉」の看板の文字に施された金箔は完全に剥がれている。全体に木が茂りかなり鬱蒼とした暗い雰囲気だ。

【現在:無料で蛇口から飲める】

現在 現在
現在
現在

平成22年1月現在の炭酸泉源の様子。現在1月末を目途に泉源の改修工事中で、工事車両が入っている。
杉などの樹木が生い茂りますます鬱蒼とした様子だ。それが落ち着いた雰囲気で良いという声もあるが、出来れば間伐をして、やはり嘗ての様に日当たりの良い、居心地の良い佇まいが人を呼ぶように思うが如何だろう。

今回は以上。いつもながらずいぶんマニアックで、どうでも良いような話題にお付き合い頂きありがとうございます。
それにしても、あの謎の物体は何だろう。それも含めてご意見おありの方はメールください。


    









今回は有馬温泉における炭酸水販売の歴史を、私が最近、新発見した事も含めて紹介したい。

p20.jpg

有馬温泉における『炭酸水』の歴史は1873年(明治6年)湯山町(明治29年から有馬町の呼称)戸長(町長)で、旅館「中の坊」継承開業者であった梶木源治郎(源次郎とも)が横浜の茶商人平野留吉に「温泉の湧く所には必ず炭酸水が湧いているはず」と教えられた事が発端だ。杉ケ谷にある、かねてより泉から発する二酸化炭素のせいで虫や小鳥を死に至らしめるという事から『毒水』として恐れられ敬遠されてきた湧水の事を思いつき、方々に水質検査依頼を求めたが、解明できずにいた。1875年(明治8年)ついに大阪に内務省司薬場が建設されたので、兵庫県庁を通して検査依頼したところ、ついに技師ベ・ド・ウェルによって有益な「炭酸水」と認められ、この水の価値は一転した。瓶に詰めても蓋が勢いよく弾けることから『てっぽう水』と呼ばれ有難がられるようになった。

杉ケ谷の炭酸泉源(当時は「冷泉」といった。)はその後、だんだんと評判が高まっていき、湧き口を石の円筒で囲い周囲を石で方形に囲うなどした。梶木の進めた開発により明治10年代には観光の名所になっており、泉源から湧き出る天然の炭酸水をコップに汲んだものが、観光客に販売されていた。当初はコップ1杯1銭であった。又時期は不明ながら、それに甘味料を添加し、まさに「サイダー」といえそうなものも販売された。オランダ人技師ゲールツ(ケーレツ)設計による洋風の炭酸水飲用所も計画されたが、明治16年に先に完成した洋風本温泉の不評から実現せず、1886年(明治19年)清涼院より移築された御殿式の上屋が完成し有馬に来浴した人の多くが、まずここに立ち寄りこの泉を服用するようになった。今残っている最も古い写真でも、杉ケ谷の炭酸泉源はこの建物となっている。また、炭酸泉源入り口右脇には梶木源治郎が明治10年6月に建てた石の道標があり正面に「炭酸水 てつぽう水ともいふ」と彫られている。途中で折れた跡があるのは、嘗て炭酸水を運んだ馬車がぶつかった為という。(道標写真は有馬温泉観光協会ホームページより)

「有馬サイダーてっぽう水」のラベルに記されている”嘗て杉ケ谷に湧出し毒水と恐れられし炭酸水が日本のサイダーの原点である。”という文句はそういう歴史を踏まえたものだ。

有馬サイダーラベル   炭酸泉源の道標   幻の炭酸水飲用所 炭酸泉源 

  炭酸泉源    炭酸泉源 炭酸泉源 炭酸泉源 

炭酸泉源 炭酸泉源 炭酸泉源 炭酸泉源

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但し、短絡的に有馬サイダーが日本で最初のサイダーだとは言えない。もし「サイダー」の定義を香料・甘味料入りのビン詰め炭酸水であるとするなら、「三ツ矢サイダー」のルーツである帝国鉱泉株式会社(1907年設立)の「三ツ矢印平野シャンペンサイダー」が発売されたのが1907年(明治40年) 。さらにずっとさかのぼり横浜の秋元己之助が「金線シャンペンサイダー」を売り出したのは1885年(明治18年)といわれている。横浜の居留地向けに英国人ノースレーが製造したのは何と1868年(明治元年)であったというがこれは日本人、大衆向けではないので番外として良いであろう。有馬鉱泉合資会社(1900年設立)による瓶詰め「有馬サイダー」の製造開始は1908年(明治41年)とされているから、少なくとも「大衆向け瓶詰め市販」という枠の中では分が悪い。

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それではサイダーのルーツである香料・甘味料入りでない「ビン詰め炭酸水」の発売が古いのはどこだろう。ネット検索も含め資料をひも解いてみた。

                             有馬炭酸水の瓶
有馬鉱泉合資会社が杉ケ谷の炭酸泉源から湧出する炭酸水に、さらに炭酸ガスを加えて炭酸水『てっぽう水』を製造販売開始したのは1900年(明治33年)だ。(上の写真は明治後期以降の有馬鉱泉合資会社の物。神戸市立博物館編『有馬の名宝』掲載写真一部分)それに先立つ1896年(明治29年)、浴医春井彰が湯山町(当時の有馬町はそう呼ばれていた)より得た炭酸水の精製販売権を、譲り受けて可能となったものだ。「醸造家と建築68」(川島智生月刊『醸界春秋』no,94)によると、同じく明治33年に笹谷竹五郎という人がサーチライトが輝く図案のラベルの炭酸水を製造販売し始めたが、こちらは数年で潰えたらしい。王冠による封入技術の普及などの時代背景に伴う一種の流行があったのだろう。

しかし、その10年前の1889年(明治23年)には既にウィルキンソン「仁王印ウォーター」が発売されている。これは1889年兵庫県宝塚の生瀬でジョン・クリフォード・ウィルキンソンが鉱泉水を発見した翌年だ。

さらにそれに先立つ1884年(明治17年)には明治屋がビン詰め炭酸水『(三ツ矢)平野水(ひらのすい)』を製造販売を開始した。1881年(明治14年)イギリス人化学者ウィリアム・ガウランドによる兵庫県多田村平野の湧出炭酸水「平野水」の発見、水質調査が淵源となったものだ。

もう一つさらに遡ると、1880年(明治13年)3月の「東京絵入り新聞」に『山城炭酸水』(京都の山城。1本20銭。)の広告が掲載されており、これが日本における初のミネラルウォーターの販売記録であるという。しかしその広告記事や資料が現存しておらず製造元や、現在のどこで作られたモノなのかなど詳しい事が全くわからない為、一般的には1884年(明治17年)の「平野水」が日本初の市販ミネラルウォーターという事になっているという。実際『山城炭酸水』でウェブ検索してもそれ以上の情報は何も得られず、同じ出典の使いまわし記事ばかりで、現在のどこにあたる場所で製造されていたのかすら分からなかった。

以上が調べで判った事だ。
えっ!では1873年(明治6年)に発見されたはずの有馬の炭酸水はどうなってるの?1900年(明治33年)の有馬鉱泉合資会社による『てっぽう水』発売までビン詰め販売される事もなく、泉源でのコップ販売だけだったのか?という疑問が沸いて来る。

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さてここからが私がごく最近、幸運にも収集することが出来た現物証拠を元に考察した今回の本論だ。実は先に紹介した「醸造家と建築68」(川島智生、月刊『醸界春秋』no,94)によると、1885年(明治18年)に刊行の『有馬温泉記』の表紙に竹籠や筆と並んで炭酸水というラベルが貼られた黒いガラス瓶の絵があり、それが明治10年代後半にはすでに炭酸水が名産のひとつになっていることがわかる。ただ、どのような組織によってこの絵のごとき炭酸水が生産されていたかは不明である…とのこと。要するにビン詰め炭酸水の販売もあったらしいが、出版物の挿絵に残るだけで、定かな事がわからない為、証拠能力に欠けるという事らしい。

ではもし、日本における初のミネラルウォーターの販売記録である『山城炭酸水』の広告が掲載されたという1880年(明治13年)よりもさらに過去に出版されたと確定できる印刷物に、有馬名産としてビン入り炭酸水が描かれていたら…、しかもそのラベルの実物が複数見つかったとすれば…、有馬温泉の炭酸水が日本初の市販ミネラルウォーターだという事の証拠になりうるのではないだろうか。

つい最近になって、私が手に入れた資料はいずれも梶木源治郎氏出版の『明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表』 (大阪響泉堂銅刻:袋入りの1枚もの《以下明治10年版》及び、 『明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 附雑記』 (大阪響泉堂銅刻:24ページ冊子 定価五銭)《以下明治12年版》いずれも梶木源治郎自身の三男で、大坂の森猪平の養子となり画家として大成した森琴石による細密な銅版画の挿絵で飾られている。(響泉堂は森琴石の銅版画における雅号のようなものらしい。)

どちらの版の挿絵にも、1886年(明治19年)に清涼院より移築され完成した御殿式の上屋以前の簡素な祠様のたたずまいの炭酸泉源の姿が描かれていることは興味深い。当時の森琴石の画風からやや洋風、やや立派に誇張表現されている点は差っ引かなければならないであろう。

だが、もっと興味深い事は、双方に描かれている有馬温泉の物産の挿絵を見ると明治十二年版には、十年版には描かれていないビン入り炭酸水が描かれている事だ。川島智生先生が資料とされた1885年(明治18年)刊行の『有馬温泉記』の表紙というのを私は見ていないが、おそらくこの森琴石による細密画の挿絵の転載か複製ではないだろうか。ともかく『山城炭酸水』広告より1年早い明治12年4月の印刷物に既に有馬名産として掲載されているのである!

冷泉を説明している別のページにはビンの横にコルク栓抜きの金具が描きこんである図がある。名産略図と同じくラベルには『摂州有馬 炭酸水 湯山町』とある。細かい点だがこちらのラベルには唐草模様の枠が書き込まれている。どちらが正確かと言う事ではなく、イラスト作品としての脚色だろう。イギリスのロンドン・クラウン・コルク社が、「王冠」の製造販売を開始したのは1894年と言われている。三ツ矢平野水もコルク栓に代わり王冠を使用し始めたのは1901年という記録があるそうなので1879年(明治12年)のコルク栓はうなずける。

【明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表の表紙と挿絵】

明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 明治  明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 冷泉図
 明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 有馬物産略図 


【明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表の表紙と挿絵】

明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 明治十年十二月新稿 有馬温冷両泉分析表 一部  明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 挿絵の炭酸水 有馬炭酸水 冷泉之図冷泉之図

明治十二年四月出版 有馬温冷両泉分析表 物産略図

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そしてここにさらにもう一つ、明治10年版と同時に同じ出品者(オークションの)から入手した印刷物がある。
何とそれは有馬鉱泉合資会社による『てっぽう水』よりもはるか以前に製造されていた初期の炭酸水のラベルだったのだ!

有馬炭酸水ラベル有馬炭酸水ラベル

実は先の明治10年版と同時に旧家から発見された『炭酸水ラベル』で、出品者はこれがいつ頃のラベルなのかを知るよしも無く、「旧家かたずけ品。ご覧のような明治時代~大正頃の有馬炭酸水のラベルです。5枚共に保存状態は良い物です。サイズは11センチ×9センチ。 」と記しておられた。

ではこのラベルを考証してみよう。

●ラベルイラストのエッチングによる細密で、洋風な表現は明治十年版及び明治十二年版の『有馬温冷両泉分析表』と同じく森琴石によるものとみて間違いないこと。
●ラベルに描かれている炭酸泉源の様子(どちらも噴水らしきものが泉源のお社の向かって右にある等。)が明治十二年版中の挿絵のそれと大変良く似ている点。
●明治十年版では「梶木源郎」とあり明治十二年版及び炭酸水ラベルでは「梶木源郎」となっている。
●明治十二年版にはラベルを貼ったビン入り炭酸水の挿絵がある事。

等から明治12年版の出版された明治12年4月前後の可能性が高いであろう。明治12年版中の挿絵のラベルには『摂州有馬 炭酸水 湯山町』とあり実物のラベルとは異なる点だが、これは有馬名産である事をわかりやすく端的に表現するためのイラスト上の脚色と考えて良いのではないだろうか。

製品の製作元は湯山町(当時の有馬町の呼称)戸長であった梶木源治(次)郎だ。「有馬元弘」の意味はわからない。
「官許」 「Arima soda-water 有馬炭酸水」 と表現されており下にいろいろと効用を謳っている。
曰く「慢性皮膚病、慢性膀胱カタル(ショウベンフクロノヤマイ)、神経痛、リウマチ、嘔吐、萎黄病、胃弱、チノワルキヤマイ、胃痛、貧血に起因する慢性水腫、月経不順、腎臓病、腺病、結○、キノフサグヤマイ」
ビンの大きさや形状は現物も残っておらず正確には分からないが、郷土史に詳しい藤井清氏に尋ねると、当時の酒の1升ビンは黒っぽい緑色が多く、恐らくそれを流用したのではないかとのこと。確かに明治12年版のイラストでは横のグラスに対比してやけに大きいし、実際サイダーのように小さなビンだとすぐに消費してしまい、わざわざラベルで効用を謳うには物足りなさそうだ。

このラベルの存在によって、有馬温泉における初期の炭酸水販売の存在が明らかと成った。又、製造主が杉ケ谷の炭酸泉源(冷泉)を開発した湯山町戸主梶木源治(次)郎であることも判明した。問題は、この炭酸水を梶木がどういう立場、組織で販売していたのか、1瓶いくらで、どのくらいの期間販売していたのかという事になると依然として判然としない事だ。

明治19年内務省編纂による『日本鉱泉誌全3巻』は明治13年にドイツで万国鉱泉博覧会が行われた際に編集した資料をもとにしたものといわれているが、検索してみると掲載されている全国921カ所の鉱泉リスト中、概況欄に「汲取のみ」「浴場あり」「浴場なし」「飲用」などと表記された泉源がほとんどである中、「飲用販売」と記入されているのは有馬杉ケ谷の炭酸泉と京都相楽郡笠置町の炭酸泉のみであった。恐らく相楽郡笠置町の炭酸泉につけられたブランドが、先の『山城炭酸水』であったのではないだろうか。因みに川辺郡平野村の炭酸泉には概況欄の記入がなかったのでやはり明治13年のデータということなのだろう。少なくとも明治13年時点で炭酸水を販売するという切り口は、やはり全国に先んじていた証しの一つと言えそうだ。

今回は、ついこの間、新型インフルエンザ騒動の最中、幸運にも手に入れた古資料から、凄い発見ができ、ワクワクして調べていく内に、枝葉の《うんちく》が芋ずる式に手中に入ってきたので、とても楽しかった。まだまだ分からないことの方が多いので、今後もアンテナを張りめぐらせておきたい。




前回に引き続き有馬温泉の過去の写真等の中からエキゾティックな洋風文化の入り込んだ要素を中心に紹介したい。趣くままなので紹介順に何ら意味の無い点お許しください。

炭酸ホテル 炭酸ホテル 炭酸ホテル 炭酸ホテル玄関 
炭酸泉に隣接していた清涼院移築建物の内部
 有馬霊泉土地株式会社はかねてより経営していた、炭酸泉源に隣接の炭酸温泉旅館を大正12年に洋館3階建の炭酸ホテルに改築した。丸い塔がエキゾチックな洋館だ。今は炭酸泉源公園になっている。
時代はさかのぼるが写真のビリャード場も現炭酸泉源公園敷地内にあった建物で、寺町にあった旧清涼院境内への小学校校舎新築に伴い、明治26年、炭酸泉の隣地(炭酸ホテルの一段上の敷地)に、旧青涼院の堂宇(堂の軒)を移築したもの。写真でも、お寺の窓枠を塗りつぶしているのが判る。和と洋の文化との融合が面白い。

大正15年~本温泉 大正15年~本温泉 大正15年~本温泉 大正15年~本温泉上から見たところ
隣地の二階坊の敷地を買収、増床して大正15年に建て替えられた本温泉。一般の浴場に加え貸切家族風呂もあり、廃止になった高等温泉の機能も引き継いでいる。一見和風のエッセンスで味付けされているが、窓枠などは洋風。内部の構造も和洋折衷風だ。写真は2階の休憩所。上から見ると屋上がある。

開通した神有電車 神有電車の外壁 神有電車 神有電車 駅舎2階食堂 
昭和3年に竣工した神有電車有馬温泉駅の駅舎は流行のアールヌーボーやアールデコ調を取り入れた装飾的な鉄筋建築。2階には和洋折衷の趣きの食堂があった。神鉄駅舎はシンボル的な建物で、そのレトロな趣きから近年の観光ポスターにも採用されていた程だったので老朽化とはいえ何とか保存出来なかったものかと惜しまれるところだ。

昭和3年~吉高屋『有馬物産館』 喜楽荘 今のローソンの場所 神有電車駅周辺
当店吉高屋を含む駅前の建物群も駅舎竣工に合わせ、木造ながら表のモルタル壁面はすべてアールデコ調に新調され、依然として木造瓦葺き2階、3階建て中心の有馬の町の中で異色のエリアであった。吉高屋のアールデコ調モルタル外壁は昭和40年前後に台風被害の影響で崩落の危険からやむなく平坦な壁面に改修せざるを得なかったのだが、今、きらく屋さんが入っている建物などは健在で往時の面影がある。

昭和3年~街灯  宝有自動車駅 昭和3年~街灯 有馬川沿い
昭和3年は神有電車の開業に加え、今の太閤通りに当る部分の滝川が暗渠化され道路になった有馬温泉にとって画期的な年だった。洋風の意匠の電灯の灯る街灯も据付けられた。大正15年、本温泉の新浴舎竣工に伴って廃止された高等温泉の建物は、しばらくは氷令倉庫として使われていたが解体され、跡地は昭和5年、すでに昭和2年から開業していた宝有自動車会社に貸付られて洋風駅舎となり、さらに昭和9年道路改修費の寄付を条件に阪急電鉄に売却された。(今の阪急バスの駅の場所。)昭和初期の有馬川沿いの街灯。右手現在有馬御苑さんの建っている辺りにオシャレな洋館があった。

明治時代中頃の太閤橋 太古橋明治36年以前(明治24年~か) 太古橋

今の阪急バスの駅、若狭屋さんの前に太古橋があった。写真左の明治時代中期には鉄骨の橋に白ペンキ塗装と思われる木製手すりが付いている。ややアーチ型になっている。「ペケ」の意匠は洋風だ。 明治24年頃、前回も紹介した鉄製手すりに代わったと思われる。(写真中央) 絵はがきを良く調べると後年鉄製の手すりが異なるデザインのものに付け替えられているのがわかった。(写真右) 初期の鉄製手すりの方が、より装飾的で、英国のビクトリアン・ゴシックの香りがするが後年のものは鉄の鋲がむき出しでやや無骨に見える。どうでも良い事かもしれないが、かなうなら当時の担当者に時期と変更理由を尋ねてみたいものだ。

杖捨橋 明治41年~ 大正11年からの杖捨橋 昭和6年竣工杖捨橋 
明治41年から大正11年の間の杖捨橋も白ペンキで「ペケ」の意匠だ。大正11年竣工のものは鉄製のあっさりした格子デザイン。昭和6年換装の杖捨橋はモダンな洋風のアーチ型で当時としては珍しかった。

省線有馬温泉駅前 乙倉橋
大正4年からの有馬軽便鉄道前の乙倉橋の手すりは格子だが、やはり白ペンキ塗装で、流行の洋風の要素が感じられる。昭和3年コンクリート製になった乙倉橋。有馬温泉の玄関口にふさわしいモダンで風格のあるものとなった。
万年橋
万年橋も「ペケ」の構造が取り入れられている。絵はがきが赤に彩色されているので実物もそうだったのだろう。向こうに有馬ホテルが見えている。

以上、思いつくまま記事にした。また新たな発見があれば紹介したいと思う。

(炭酸ホテルの写真の一部は当時の炭酸ホテルの案内カタログのもの。ビリヤードと最も古い太古橋の写真は郷土史に詳しい藤井清氏提供。吉高屋の写真は私の家のアルバムより。その他は絵はがきの写真です。)
明治~大正・昭和にかけては西洋文化が日本に流入した時期。神戸港にすごく近い事もあり、
外国人の避暑リゾートとして栄えた為、有馬温泉にもエキゾチックな洋風建築や構造物が沢山
導入され、江戸時代以来の木造瓦葺き2階、3階建ての家並みに少しずつ変化が見られるように
なった。ビミョーにモダンな西洋の香りが入り込んだこの時期の風景が個人的にもすごく好きだ。
今回はそんなエキゾチックな要素を趣くままにピックアップする。

fgh.jpg 明治16年改築の本温泉 幻の炭酸水飲用所 明治33年~てっぽう水工場
明治16年に完成した本温泉の浴舎。これはオランダ人設計技師ケーレツの設計。
風土に合わずペンキが剥がれ老朽化が早かった事もあるようだが、明治10年代も晩期には洋風建築
スタイルが流行遅れとなり、より格式を感じさせる御殿式が流行っていた事もあるらしく、明治24年には
再び和風宮殿造建築に建て替えしている。残念ながら写真は一枚もなく、上のような銅版画や絵図が
残るのみだ。日本で写真を印刷した“絵はがき“が出回り始めたのは明治30年代後半で、それ以前
には写真はガラス板中心で、かつ人物を写す事が多く、風景写真は少なかったようだ。)
本温泉と同じくケーレツの設計し炭酸温泉場に設置計画のあった洋風炭酸水飲用所は、先に完成した
本温泉が大不評の為、ボツになった。
明治33年からの「てっぽう水」工場。炭酸泉源すぐ下にあった。棟の3箇所に越屋根があり換気していた。
輸送の効率化の為大正6年に有馬駅前に移転。跡地は現在空き地で企業所有の駐車場となっている。

有馬ホテル 有馬ホテル 有馬ホテル 丸山公園より有馬ホテルを望む
明治18年~稲荷山ホテル 杉本ホテル 杉本ホテルのお庭 愛宕山中腹に建つキングジョージホテル 
有馬町町役場
明治35年大阪の藤本清兵衛が開業した外国人専用の有馬倶楽部ホテル(有馬ホテル)は明治41年
買収により大日本ホテル株式会社の支店となる。大正4年大日本ホテルの経営不振で同じ有馬温泉
の増田ホテルの増田宇三之助経営となる。バルコニーのあるコロニアル様式で、ビリアードバーや
プールもあった。昭和2年にはここで蒋介石が宿泊し宋美麗と婚約を交わした。昭和13年の阪神
大風水害で一部流出、閉鎖となった。 明治18年に炭酸泉のある杉ケ谷付近に建築された稲荷山
ホテルは外人専用の2階建て貸し別荘が3棟並んでいたという。古い写真なのでかなり不鮮明だが、
写真で見る限り外見的には和の要素も感じさせるが、内部が白壁で洋風だったようだ。
鮮明な写真は無いが、明治36年にオープンしたキングジョージホテルも洋館だった。薄青のペンキ塗装
の建物だったそうだ。明治10年頃建てられた杉本ホテルは基本的には和風建築だが、英語看板と
手すりが白ペンキ塗装のところが部分的に洋風だ。外人専用ホテルは他にも清水ホテルや増田ホテル
などがあったが建物自体は基本的に和風だった。
時代は下るが、キングジョージホテルの一段下、温泉寺前の石段横、今の有馬ロイヤルホテルの場所
にあった町役場も和風建築に洋風の塔を設えた折衷建築だ。

ラジウム温泉 ラジウム温泉外壁 t2.jpg ラジウム温泉中庭 
ラジウム温泉中庭 ラジウム温泉浴室 ラジウム温泉ラドン吸入室 ラジウム温泉平面図一部
大正4年にオープンした町営のラジューム温泉。インドのサラセン近世様式を取り入れた洋館建だった。
男女普通浴槽、シャワー室、蒸し風呂、休憩室、特別浴室6室、理髪室、ラドン吸入室など最新式の
設備を有していた。円形の回廊に囲まれた中庭には池もあった。まさにエキゾチックパラダイス!
ところが赤字経営だったため昭和4年神有電鉄に無償で貸与。昭和13年7月の阪神大風水害に於ける
被害で営業不可能となり取り壊された。約23年間の営業だった。跡地には土井船艇兵器工業が工場
を建て、兵器部品の製造がおこなわれた。後に旅館銀水荘が建ち、平成21年現在はシニア向けマンション
建設中である。ちなみに銀水荘楽山は道路(西)向きに建っていたが、ラジウム温泉は南向きだった。

有馬軽便鉄道 有馬軽便鉄道とサイダー工場 有馬軽便鉄道 有馬軽便鉄道
大正4年にオープンした有馬軽便鉄道の有馬駅、大正6年に移転して来た隣接の有馬サイダー工場も
レンガ造りで洋風の近代的な設備だった。有馬軽便鉄道は大正8年に国有鉄道に買収された。
その国有鉄道有馬線も戦時中の昭和18年、国策により廃止された。車両は、篠山線での軍事輸送に
使われた。駅舎は後に老朽化の為取り壊され、跡地には昭和42年先山クリニックが移転開業。
現在ミント・リゾートイン・アリマを併設し営業しておられる。話題は逸れるが体の弱かった私は
先山先生には良くお世話になった。今の私が存在するのも、○○マイシンとかのブットイ注射のお陰だ。

大正3年~本温泉 明治24年~本温泉の周りの鉄柵 明治36年~高等温泉 明治36年~高等温泉の門 
高等温泉の窓 明治24~太古橋 明治36年以前(明治24年~か) 明治36年~川沿いの鉄柵
明治36年に建て替えられた本温泉は明治45年の改修で屋根に換気の為の屋根を設けた。
横のスリットは洋風の様に感じる。本温泉を囲う鉄柵は明治24年以来の洋風の物がそのまま
利用されているようだ。(写真は一の湯側から。)明治36年にオープンした高級家族風呂の高等温泉
(今の阪急バスの駅の場所)は洋風の門や鉄柵に囲まれている。高等温泉の六角形の窓も
純和風ではない。建築物以外でも、高等温泉前の鉄製になった太古橋や、川沿いの道路の手すり
などは、装飾的な西洋風意匠のものだ。

兵衛旅館の旅客送迎用自動車と思われる 太閤通りを行くタクシー 曙タクシー荒木正吉氏運転ラジウム温泉前にて 神戸有馬乗合自動車 
1927年式シボレー軍団
大正9年兵衛旅館が旅客送迎用に自動車を購入した。大正12年曙タクシー発足。27年式シボレー使用。
大正14年神戸有馬乗合自動車が神戸の平野~有馬間に開業。昭和2年宝塚有馬自動車株式会社
が出来、宝塚~有馬間に開業。当時の車はどれも似ていて写真のがどの車種かは不明。
ご存知の方お教えください!

                                                  (次回に続く)

記載内容に間違い等あればどうぞご指摘をお願いします。
写真は大概は過去の絵はがきです。一部、郷土史家の藤井清さん提供資料、私の家のアルバム
の写真等も含まれています。